第11話 揺れる天秤
ドルーク家の調査を始めて二週間。商会の資料と、酒場で拾う噂話を組み合わせて、少しずつ輪郭が見えてきた。
ドルーク家はヴァイス商会だけでなく、王都の複数の商会に出資している。その影響力は広く、深い。
単なる貴族ではない。商業と政治の両方に根を張った、いわば「見えない支配者」だ。
資料を読むほどに、その影響力の大きさに圧倒される。ドルーク家の出資先を地図に落とすと、王都から地方都市まで蜘蛛の巣のように広がっていた。
この網の目の中で、グランヴェール家の小さな領地は、取るに足らない獲物だったのだろう。だけど、取るに足らないからこそ、誰も疑問に思わなかった。
そしてもう一つ、気になる事実を見つけた。グランヴェール家がかつて持っていた領地は、父の死後に競売にかけられ──買い取ったのはドルーク家の関連商会だった。
つまり、ドルーク家はわたしを追い出しただけではない。グランヴェール家の財産そのものを手に入れていた。追い出しは善意の拒絶ではなく、計画的な収奪だった可能性がある。
だが、証拠はまだ状況的なものばかりだ。「偶然の一致」と言い逃れできる範囲を超えていない。
ある日の午後、カイが珍しく仕事の手を止めて、わたしの机に歩み寄った。
「本店から書簡が来た。来月、王都で商会の全体会議がある。各支所の代表が参加する」
「王都……」
心臓が跳ねた。王都に行けば、ドルーク家の情報にもっと近づける。
「俺が出席する。──お前も随行させる。書記として」
カイの目がわたしを見ている。仕事の指示という以上の意味がそこにあることは、分かっていた。
「ありがとうございます」
「礼はまだ早い。王都にはドルーク家もいる。お前の名前が知れれば、面倒なことになる可能性がある」
「分かっています」
「分かっていて行くんだな」
迷いはなかった。この機会を逃せば、次はいつ来るか分からない。
「行きます」
カイは小さく頷いた。それから、少し間を置いて言った。
「……王都では、俺の傍を離れるな」
声の温度が、ほんの少しだけ低くなっていた。心配しているのだ。口にはしないけれど。
「はい」
王都行きが決まったその夜、宿でマルタに報告した。
「王都だって? 大きく出たね」
「仕事です。商会の全体会議に随行するんです」
マルタはしばらくわたしを見つめ、それから大きく息を吐いた。
その目に、懐かしいものを見るような光があった。もしかしたらマルタにも、かつて旅立つ誰かを見送った記憶があるのかもしれない。
訊きたかったけれど、訊かなかった。この街では、過去を訊かない。
「あんたが来た日のこと、覚えてるよ。路地で倒れてた小娘が、たった数ヶ月で王都に行くなんてね」
その声に、誇らしさが混じっているように聞こえた。気のせいかもしれない。だけど、マルタが翌朝、旅支度用にと丈夫な革鞄を一つくれたのは、気のせいではなかった。
使い込まれた革鞄。マルタ自身のものだったのだろう。わたしはそれを両手で受け取り、深く頭を下げた。
マルタ自身のものだったのだろう。鞄の表面には細かな傷がいくつもあり、取っ手の革は使い込まれて色が変わっている。長い年月、マルタと共にあった鞄だ。
鞄の内側に、小さなイニシャルが刻まれていた。マルタの名前ではない。
誰かからもらったものなのだ。それを、わたしに託してくれた。その重さが分かるから、わたしはそれを両手で受け取り、深く頭を下げた。
◇
出発の前日。荷造りをしながら、胸の中で二つの感情が揺れていた。
一つは、前に進みたいという衝動。真実を知りたい。ドルーク家が何をしたのかを明らかにしたい。
もう一つは、怖さだ。王都でドルーク家と接触すれば、わたしの存在が知れる。没落貴族の小娘が生きていて、しかも商会で実績を上げていると。
没落貴族の小娘が生きていて、しかも商会で実績を上げていると。ドルーク家の当主アルベルトがそれを知ったら、どう動くだろう。
無視するか、潰しにかかるか。どちらにしても、こちらの準備は必要だ。
没落貴族の小娘が生きていて、しかも商会で実績を上げていると。あの声──『そういう手を、打ってあるからね』。
その手とは何だったのか。まだ分からない。分からないものが、一番怖い。
あの声が蘇る。『そういう手を、打ってあるからね』。
その手とは何だったのか。まだ分からない。分からないものが、一番怖い。
革鞄を閉じた。手が震えている。けれど、それを止めるのはもう自分の仕事だ。
窓の外に、明日の天気を示す夕焼けが広がっていた。赤く、強く。
荷造りを終え、ベッドに横になる。天井を見つめながら、品書きを書いた最初の夜を思い出す。
あの夜も、こうして天井を見つめていた。何もなかった。
名前すらなかった。今は違う。
名前があり、仕事があり、信頼してくれる人がいる。その変化を、胸の中で確かめるように噛みしめた。
天井を見つめながら、品書きを書いた最初の夜を思い出す。あの夜も、こうして天井を見つめていた。
何もなかった。名前すらなかった。
今は違う。名前があり、仕事があり、信頼してくれる人がいる。
守りたいものがある。だからこそ、怖い。失うものがあるというのは、こんなにも人を臆病にするのか。
馬車の中で、カイは窓の外を見ていた。王都へ向かう街道は、リンデを出ると平原が広がり、やがて丘陵地帯に入る。
牧草地に羊の群れが見え、遠くに風車が回っている。穏やかな風景だ。
だけどこの穏やかな風景の下に、ドルーク家の影響力が蜘蛛の巣のように張り巡らされている。目に見えないものこそ、一番厄介だ。
カイが不意にこちらを見た。「緊張しているか」と訊かれた。
「少し」と答えると、カイは窓の外に視線を戻し、「俺もだ」と言った。カイが緊張を認めるのは珍しい。
それだけ、今回の王都行きが重要だということだ。二人とも分かっている。ここが、本当の勝負の始まりだと。
馬車が丘を越えると、遠くに王都の城壁が見えた。朝日を受けて白く輝いている。
あの壁の中に、ドルーク家がいる。あの壁の中に、わたしの過去が埋まっている。
掘り起こす覚悟はできている。カイが隣にいる。
ヴェルナーが待っている。マルタの革鞄が、膝の上で温もりを伝えてくれている。
──リンデを発つ朝、わたしはまだ知らなかった。王都で待っているのが、ドルーク家の当主の姪だということを。




