第10話 積み上げた塔
支所長が去った後のリンデ支所は、混乱と再建の日々だった。カイが代理として指揮を執り、わたしは書記兼実務補佐として、朝から晩まで走り回った。
不正の後始末は想像以上に手間がかかった。ペルム商店との取引を凍結し、新たな仕入れ先を開拓する。差し替えられた伝票と正しい記録を照合し、正確な損益を算出する。
新しい仕入れ先の選定は、わたしが主導した。市場で集めた相場情報と、酒場で得た商人の評判を照合し、信頼できる取引先をリストアップした。
カイはそのリストを見て「お前に任せる」と言った。信頼されている。その実感が、何よりの報酬だった。
地味な作業。だが、わたしはこの時間が嫌いではなかった。
壊れたものを直し、あるべき形に戻していく。それは、自分自身を立て直す作業にも似ていた。
壊れたものを直し、あるべき形に戻していく。それは、自分自身を立て直す作業にも似ていた。
前世では「後始末」は嫌われる仕事だった。だけどわたしは、後始末こそが信頼を作ると知っている。派手な成果より、地道な修復が人の心を動かす。
一ヶ月が経った頃、本店から正式な辞令が届いた。カイがリンデ支所の新しい支所長に任命された。
職員たちが祝いの声を上げる中、カイはいつも通りの無表情で辞令を受け取った。だけど、耳の端がわずかに赤かった。わたし以外は、たぶん気づいていない。
わたし以外は、たぶん気づいていない。カイの感情表現は、本当に微かだ。
だけどこの数ヶ月で、わたしはそれを読み取れるようになった。耳が赤くなるのは照れ。
顎の筋肉が固くなるのは緊張。そして指先が資料を強く押さえるのは、怒り。
「カイさん、おめでとうございます」
「……ああ。ありがとう」
短い言葉。だけど、声の温度がいつもより少しだけ高い。
カイが支所長になったことで、支所の雰囲気は確実に変わった。無駄な接待はなくなり、仕事の効率が上がり、職員の士気も上向いた。
無駄な接待はなくなり、仕事の効率が上がり、職員の士気も上向いた。カイの経営方針は明確だった。
「正直に、堅実に、実力で」。それは前の支所長とは正反対の方針であり、職員たちは最初戸惑ったが、数週間で順応した。正しい方針の下では、人は自然と動くものだ。
そしてわたし自身も、変わりつつあった。
正式採用されたことで、商会の内部資料にアクセスできるようになった。リンデだけでなく、各地の支所の取引情報。
商会全体の流通網。情報量が一気に増えた。
その中で、一つの名前に目が止まった。
ドルーク家。目にした瞬間、指が止まった。
心臓が一拍だけ速く打つ。ヴァイス商会の資料の中に、その名前が何度も出てくる。
出資者として、取引先として、推薦者として。根を張っている、という表現が一番近い。
ドルーク家。王都に本拠を持つ有力貴族で、複数の商会に出資している。そしてヴァイス商会の主要な出資者の一人でもある。
──ドルーク家は、わたしの遠縁の親族だった。
その名前を目にした瞬間、血が冷えた。偶然ではないと、直感が告げた。
レティシアがリンデに流れ着いたのも、グランヴェールの名前では「どこの商会も雇わない」と言われたのも、ドルーク家が仕組んだことなのかもしれない。すべてが繋がりかけている。まだ点でしかないけれど、線になる日は近い。
グランヴェール家を見捨て、わたしを追い出した、あの声の持ち主。
偶然ではないと、直感が告げた。レティシアがリンデに流れ着いたのも、グランヴェールの名前では「どこの商会も雇わない」と言われたのも、ドルーク家が仕組んだことなのかもしれない。
だが、今は推測でしかない。証拠がなければ動けない。それは支所長の不正を暴いたときに学んだことだ。
観察する。仮説を立てる。
検証する。証拠を揃える。同じ手順を、もう一度。
ただし今度の相手は、支所長のような小物ではない。王都に根を張った有力貴族だ。
リンデの商会支所とは、規模も権力も桁が違う。正面から挑めば潰される。
だから、慎重に。一歩ずつ。証拠を積み上げ、味方を増やし、機が熟したときに動く。
◇
ある夕方、閉所後の支所で資料を読んでいると、カイが近づいてきた。手に二つの杯を持っている。
「茶を淹れた。飲むか」
「いただきます」
カイが向かいの椅子に座る。こうして二人で茶を飲む時間が、最近は日課になりつつあった。
言葉は少ないけれど、沈黙が苦しくない。それが心地いい。
前世では、沈黙が苦手だった。間が空くと何か話さなければと焦った。
だけどカイとの沈黙は違う。二人でいるだけで完結している。
言葉がなくても、互いの存在を確かめ合えている。それが、信頼ということなのかもしれない。
「レティシア」
本名で呼ばれたのは、正式採用されてから初めてだった。
「はい」
「最近、本店の資料を読み込んでいるだろう。何を調べている」
隠しても意味がない。カイには最初から、ほとんどすべてを打ち明けてきた。
「わたしの家──グランヴェール家が没落した経緯を調べています。父の死後、遠縁のドルーク家がわたしを排除しました。その理由と方法を知りたい」
カイは杯を置いた。
「ドルーク家。名前は知っている。王都では名の通った家だ。──相手が違いすぎないか」
「相手が大きいからといって、不正が許されるわけではありません」
カイは少し黙り、それから小さく息を吐いた。
「……お前らしいな」
その声に、呆れはなかった。むしろ──認めている、という響き。
「俺にできることがあれば言え。商会のネットワークは使える」
ありがとう、と言った。今度は声が詰まらなかった。
窓の外で、夕焼けが街を染めている。リンデの石畳が橙色に光っている。
銅貨だけ握って路地に倒れていた日から、まだ数ヶ月。なのに、見える景色がまるで違う。
名前を取り戻した。仕事を得た。
信頼できる人ができた。一つずつ、小さな石を積み上げてきた。
その塔は、まだ低い。だけど確かにここにある。
そして次に目指すのは、王都だ。
カイの杯から湯気が立ち上る。わたしの杯からも。二つの湯気が天井付近で混じり合い、消えていく。
ドルーク家の調査はまだ始まったばかりだ。だけど、焦る必要はない。
品書きを書いたときと同じだ。まず観察し、情報を集め、構造を理解し、最適な一手を打つ。
一歩ずつ、確実に。リンデで学んだことを、もっと大きな舞台で試す。そのための準備は、もう始まっている。
二つの湯気が天井付近で混じり合い、消えていく。わたしたちの道も、ここから先は一つになるのだろうか。そんなことを考えて、自分で自分に驚いた。
窓の外の夕焼けを見ながら、ふと思う。前世のわたしは、こんなふうに夕焼けを眺める余裕があっただろうか。
残業に追われ、評価に怯え、週末だけが救いだった日々。この世界に来て失ったものは多い。
だけど得たものも、確かにある。自分の力で道を切り拓く実感。
信頼できる人と並んで歩く喜び。そして──真実を追い求める覚悟。
あの日聞いた声の主に──わたしは、自分の足で会いに行く。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
第二章はもう少し添削を行い、明日以降掲載されていただきます!
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