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エビが来る

作者: 緑野タニシ

 緊急事態だ。

 まずい、とにかく非常にひたすらにまずい。


 「今日の給食は……やりい、エビフライじゃん!」


 教室に掲示された献立表を見てはしゃぐ男子たち。君たちにとっては吉報でも、僕にとってその献立表は死刑執行の日程表だ。


 僕はエビが嫌いだ、それはもう本当に死ぬほど、この世の何よりも嫌いだ。

 まさに虫でしかない多すぎる足、触覚、その上異臭まで放つときた。あれが高級食材扱いされているのが心底納得がいかない、エビが食えるならクモやカブトムシを好き好んで食えるはずだ。足が多くて触覚がある、いっそゲジゲジでもいい、同じようなものさ。


 まさか行政がそんな野蛮な食材を給食という選択の余地もない形で我々小学生に提供するとは、大人と子供の間にある深い溝は永遠に深いままだろう。大人には嫌いな食べ物がないのか、ゴキブリの唐揚げが出されても平気でいられるのか。

 まったくこれが善意でやっているというのだから、本当に救いようのない社会問題だ。


 とまあ、色々言いたいことはあるが僕は大人になって飲み込んだ。そして、僕は自然に、爽やかな笑顔で献立表を眺める彼らに話しかけた。


 「エビフライいいよねえ、僕朝ごはん食べすぎちゃったからさ、良かったらあげようか?」

 「いやいや、安浦にはこの前宿題見せてもらったからな!しっかり食って、昼休みは全力で死神鬼ごっこな!」


 僕は日頃の行いの良さを恨んだ。頭脳明晰、スポーツ万能、誰もが憧れる学級委員。嫌いな食べ物があるなんて、許されるのは低学年までだ。

 

 僕は笑顔のまま、心には絶望を抱えて席に戻った。


 「くっそぉ……岡崎くんめ、寿司の食べ過ぎってなんだよもう……!」


 今日の献立がエビだってことくらい、献立表が配られた瞬間から把握していた。だからこそ事前に、食うこと以外どうでもいいと豪語する岡崎くんとエビ取引をしていたのだが、彼は急な胃腸炎で、よりによって今日が欠席だ。


 そのまま対策を練る間もなく、刻一刻とエビが足音を立てて近づいてくる。授業が長引いてくれと願ったのは初めてだった。終わり際に先生へ質問をして時間を稼ごうかとさえ思ったが、クラス中を敵に回す真似には踏み切れず、あっという間にエビの侵攻が始まった。


 「いただき……ます」


 油の沁みた衣に包まれた海の虫がふてぶてしく皿に横たわっている。最悪なことに、二本もだ。


 クラス中が班ごとに島を作り談笑する中、僕の班は岡崎くんの空席と竹内さんと西沢さんの二人。本当に岡崎くんが寿司をちょっと我慢してくれさえすれば、この異常事態も胃の痛みもなかったというのに。


 僕は隣に座る竹内さんに視線を移した。いつ見ても可愛い……いやそうじゃない。どうしたら自然にエビを食べてもらえるだろう。

 そもそも竹内さんは大人しい女子だ、いっぱい食べるキャラじゃない、考えるだけ無駄か。なら向かいの西沢さんはどうだ?そうだ、この人は女子とはいえバスケ部だしよく食べるはずだ、いい感じの譲り文句を考えろ。

 

 テストの時の三倍は頭を働かせていると、西沢さんと目が合った、そして。


 「ねえねえ委員長、私エビ苦手だからさ、代わりに食べてよ」


 終わった。


 同じエビ嫌い同士で固い握手を交わしたい気持ちが一割、初めて女子を殴りたいという衝動が九割だ。


 「しょうがないなあ、好き嫌いは早めに直さないといけないよ」


 性懲りもなく見栄を張ってしまった自分を殴りたい気持ちが十割に上書きされた。

 一億歩譲ってエビが一つ増えるならまだしも、今回は二つ。ただでさえ不吉な四という数字に不吉で不潔なエビの重ねがけだ。これを給食制度の欠陥と言わずに何と言おう。


 しかし、これで本当に頼れる相手は誰もいない。僕はいよいよ腹を括る……いっそ括りたいのは首の方だが、男なら避けては通れない試練というやつが今この時なのだろう。


 高まる鼓動と込み上げる吐き気を抑えながら、二、三度深呼吸を繰り返す。

 そして震える箸をエビフライへと伸ばし、呼吸を止め、舌に身が触れないよう、噛んだ。


 「んぼぅえッ!?」


 ダメだ、味がしてもしなくても、口にエビという異物が入っている事実だけで体が拒否している。

 僕はえずいたことを咳で誤魔化しながら、牛乳瓶の半分まで一気に飲み干した。


 だが、そうは言ってもエビフライは一齧りできた。頑張って一本を五口で食べたとして、残り四本……十九口。大人の階段より険しい旅路を、残り二十分弱の給食時間で駆け抜けなければならない。子供はもっとゆっくり大人になるべきだろうに。

 それでもだ、僕は地球からエビの総重量をわずかでも減らすことに貢献したんだ。千里の道も一歩から、エビの撲滅も一口からだ。


 「はあはあ……んぼっ!?……うぇっく!」


 溢れる涙と牛乳を拭いながら、二口目を飲み込んだ。流し込んだつもりが、ちょっと味がしてしまったのが鳥肌ものだ。はっきり言って悪寒がする。

 僕は呼吸を整えながら余っている牛乳を取りに行き、再びエビと相対した。一本目の牛乳は二口で飲み干してしまった、ペース配分をしっかり意識しなくては。


 野菜と汁物で口直しを済ませ、三口目に差し掛かろうとしたその時、竹内さんが哀れみに満ちた様子で僕に声をかけた。


 「安浦くん……エビフライ、もらおうか?」


 僕の隣にいたのは竹内さんじゃない、慈愛の女神。そうだ、竹内さんはきっと聖母マリアとやらの生まれ変わりだったんだ。


 僕は震える声で感謝の言葉と皿を差し出そうとしたが、向かいの席から呪詛の言葉が届く。


 「好き嫌いなく何でも食べてくれる男の人って素敵だよねえ?男らしいというかさあ?」


 西沢さんは何故か楽しそうに竹内さんに向けてそう言った。あろうことか竹内さんは「え、まあ……そうだね」と、悪魔の囁きを肯定してしまったではないか。


 いや、だから何だ。竹内さんが差し伸べてくれた千載一遇のチャンス。男らしさなんて昭和の思想だ、そんなもんより自分らしさ、大体竹内さんなんてちょっと可愛いだけでどこにでもいる普通の女の子じゃないか、ちょっと可愛いだけで、頭が良くて優しくて、そんでいい匂いがして、たまに笑った時に覗く八重歯なんかクソ可愛くて――。


 「いや、僕朝ごはん食べてなくてさ!めっちゃお腹空いてるんだよね!給食が美味しすぎて感動しちゃってさ!」


 舌噛んで自害しようかな。


 竹内さんは救いの手をそっと引き、何故か引き気味に「頑張って……」と激励をくれた。

 僕は遠い目で蛍光灯を眺めた。虫を食べることが当たり前の部族にでも生まれていたら、エビも平気で食べられたのかな。そうかもしれない、いっそそうなってみようか。

 

 僕の舌はもう嘘とエビで汚れているんだ。なんかもう一周回ってエビと共存してみようか。


 「いやあ、西沢さん!本当に……うぼぁえッ!?……エビは……美味しいなあ!」


 一ミリも心にない食レポをしながら、僕は残りの三口分を一口で飲み込んだ。同時に、満杯だった牛乳瓶が空になり、すぐに次の瓶へ手を伸ばす。


 「西沢さんんうおぅえッ!……エビが、うぇ……嫌いだなんて……人生損してるよぅおおっ!」


 一口おきにエビと胃液のミックスジュースの味が広がり、まさに筆舌に尽くし難い舌触りで気が狂いそうになる。いや、もう僕は狂っていた。


 自己催眠による対エビ攻略最終作戦。

 もしエビと戦わなければいけない人がいるのであれば伝えたい、これ、何の効果もないですよと。

 

 まあ、おかげでその時の記憶は曖昧だから、エビの味を思い出しきれずに助かっている。


 記憶にあるのは、空になった皿と、九本の牛乳瓶。そして宇宙人を見るかのような視線を送る竹内さんと、腹を抱えて笑う西沢さんの笑顔。

 それからしばらくの間、僕はみんなから“エビ男”と呼ばれるようになったが、吹っ切れてエビが嫌いだと公言できるようになったのは、大きな進歩だろう。


 エビが来たあの日、僕は何を失い、何を得たのか。

 エビへの嫌悪と憎悪は遥かに増したものの、心の隅で感じる清々しさの正体を知るには、僕はまだ幼すぎた。

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