未完成のカンバス 五
ルナーと朝方まで共に過ごしていたせいか、ビクトールは眠気とデスマッチを繰り広げている。どうやらギフトがあっても眠気には勝てないらしい。
そもそもルナーが夜に訪れ始めた頃から昼間に仮眠をとる生活になっていた。昼間にルナーと泉で会うことも少なくなった。
そして灰色の雨雲が漂う午後、ビクトールは自室のベットで眠っていた。
普段の仕事、絵画制作、月に一度のジョージとの旅行、ルナーとの時間。どれもこれも疎かにするわけにいかない。
となると削るのは体力と気力しかない。
「 」
微睡む耳に誰かの声が聞こえる。マイアだろうか。
勝手に入らないでほしいって言ってるのに。
ビクトールは仮眠を続けるためにシーツを頭の上から被った。
「 」
まだいるのか。でも返事をしなければ出ていくだろう。
(あれ、そういえばカンバス出したままだったような…?)
ビクトールは被っていたシーツを取っ払ってすぐさま起き上がる。
ぼんやりとする視界に映ったのはアリアーナだった。先ほどの声もマイアではなく、アリアーナだったようだ。
アリアーナは飛び起きたビクトールに目もくれず、ただ静かにカンバスに描かれているルナーを見つめていた。
その横顔は落書きのせいで見えない。
「アリアーナ?何で僕の部屋にいるの?」
「あ…勝手に入ってごめん。これから礼拝に行く予定だったの、それでビクトールも誘おうと思って」
「だからって勝手に入ってこないでよ」
ビクトールは慌てて絵に布を掛けようとした。
だがアリアーナが待ってと声を上げ、ビクトールの動きを止めた。
その張り詰めた声に驚き、ビクトールは怪訝そうにアリアーナを見る。もしかしてアリアーナはルナーのことを見たことがあるのだろうか。だとすれば非常にまずい。
「ビクトールって人物画は描けないって言ってたよね」
「え、うん、そうだね」
「じゃあ、その絵は何?モデルがいるの?それとも想像?」
「…想像だよ。ジョージ伯父さんに人物画も描いた方がいいって言われたから」
半分嘘で半分真実である。
ルナーの絵が完成に近づくにつれ、ビクトールは何度も違う人物画を描こうとした。
だがどんな人間、女神、男神、天使を描こうとも必ずと言っていいほどルナーに似てしまう。別人が描けないのだ。
故に正しくはルナー以外の人物画を想像でさえも描けないということ。
するとアリアーナは小さく息を吐いてビクトールに視線を向けた。
しかも今までに聞いたことがないような詰まった声色だ。
「ビクトールにお願いがあるの」
「どうしたの、何か…」
「私を描いて」
アリアーナの願いに今度はビクトールの言葉が詰まった。
昔から何度もアリアーナの願いは聞いてきた。一緒に市場に来てほしい。勉強を教えてほしい。抱っこしてほしい。
なるべく応えられるようにした。なぜならこの村で最初の友達だから。
「私、来月からロンドンに行かなくちゃいけないんだ。貴族と結婚するために」
「え、そうなの…!?」
「本当は去年の内に結婚する予定だったんだけど、私がまだ村にいたいってわがまま言ったから先延ばしにしてもらったの」
貴族との結婚は何も珍しいことではない。
アリアーナは村の中で一番金持ちの娘。こんな村にいる男よりロンドンにいる貴族や名家の子息と結婚するのはおかしいことじゃない。
結婚が決まっていたのに言ってくれなかったのは水臭いが、ここは友として祝うべきだろう。
そう思い、ビクトールはおめでとうと言おうとしたがそれは叶わなかった。
なぜならアリアーナの鼻をすする音が聞こえてきたからだ。
「泣いてるの?」
「…泣いてる。だって数回しか会ったことがない相手と結婚するんだもん。私の好きな人じゃないもん!」
「なら僕といるより、その好きな人と」
「だから今!私は好きな人といるの!私はビクトールのことが好きなの!」
アリアーナの告白にビクトールは動けなくなった。体も脳も固まってしまった。
(好き?アリアーナが僕を?)
ビクトールは何も答えられなかった。
人から好かれることは良いことだ。それは分っているのに素直に喜べない。
「でもお父様には逆らえない。だからロンドンに行く前にビクトールに描いてもらいたい。想像の私でもいいから!雑でもいいから!」
「それは…」
「想像でそんな女性が描けるなら描けるはず!だから描いてほしいの!」
たくさん泣いているのだろう。アリアーナの足元が零れた涙で濡れている。
本当なら嘘でもここはいいよと言ってあげるべきなのだろう。
「ごめん。僕はアリアーナを描けない」
「なっ…んで…?どうして…?」
「今、僕が描けるのは彼女だけ。仮に僕がアリアーナを描いたとしてそれでいいの?」
「い、いいの!これが私の覚悟なの!」
「それは…きっとアリアーナが辛くなるだけだよ」
もしもビクトールがアリアーナの立場だったら。
苦しい以外の何物でもない。そう思ってしまったのだ。
描いたとして出来上がったアリアーナは恐らくルナーの顔になってしまう。そんな絵をアリアーナに渡したくはないし、渡せない。
友として、アリアーナに好かれた人間として彼女を苦しめる存在になりたくない。
ルナーに出会う前なら迷いながらもいいよと言って描いていただろう。だって誰かに恋するという事を知らないままだったから。
今は違う。ルナーの愛されたいと言った感情も、アリアーナの覚悟と言って願う気持ちも分かる。
ビクトールの断りに心が折れたのか、アリアーナは大きく深呼吸をして背を向けた。
「…分かった。もうこれ以上言わない。だから最後まで友達として私といて」
「うん、友達としてね」
「…友達として礼拝に行こうよ。マイアおば様もビクトールを連れ出してって言ってたから、それくらいは付き合って」
「分かった。準備するから下の階で待ってて」
アリアーナは振り返ることなく部屋を出ていった。
ビクトールもまた手早く準備を終わらせ、カンバスに布を掛けて部屋を出た。
この村で礼拝をするなら教会に行くしかない。何もない村だが教会の造りは一級でステンドグラスの装飾は美しく鮮やかだ。
教会に足を踏み入れれば、そこには多くの見知った人達がいた。村の人がほとんど集まっているといってもいいだろう。
(母さんは仕事終わってくるって言ってたけど…あ、クレマン爺さんはいる)
礼拝はすでに始まっており、司祭が言葉を紡いでいた。
人々は椅子に座りながら静かに祈っている。
ビクトールとアリアーナは隅の席に座り、同様に目を閉じて祈る。
ほどなくして司祭の言葉は終わり、ビクトールは早々に帰ろうと思っていた。
「さて皆様、どうかもう少しだけお付き合いを」
司祭の言葉で皆が一様に動きを止めた。それはビクトールも同様。
嫌な予感がする。確信はないがビクトールの勘がそう告げていた。
心臓の鼓動が速くなっていく。何よりそんな中で教会にいる人間全ての顔が見えないことがすごく怖い。
見えないことに慣れているはずなのに今はただこの空間が恐ろしく感じてしまう。
「皆様に悲しい知らせがございます。この村に魔女が出入りしており、魔女に心を奪われた国民がいます」
教会内がざわつく。ビクトールは司祭の言葉に息ができなかった。
バレている?それとも自身以外に誰かがルナーと会っているのだろうか?
どちらにしてもビクトールの心は穏やかになれない。
「魔女に心を奪われた哀れな国民こそ、あなたなのです!ビクトール・ベルバレット!」
顔の見えない人間たちがぐるりとビクトールの方へと体を向ける。
肌が粟立ち、必死に首を振った。
人間たちはザワザワと声を上げていく。
逃げてしまいたい。だがここで逃げたら認めることになり、ここにいないマイアが問い詰められることになる。そしてルナーが魔女狩りにあってしまう。
「パルソン司祭様、ビクトールは魔女に心を奪われています。彼が魔女の絵を描いているのを見ました」
発言したのは隣にいたアリアーナだった。ビクトールの部屋で見た絵のことを言っているのだろう。
間違いではないがアリアーナが発言したことにビクトールは声が出なかった。
そこからはビクトールの記憶は朧げだった。
人間たちが手足を拘束し、ビクトールの言い分も聞かず、罵倒をあげて拳を振り下ろした。
そして残りの記憶は火刑で肌を焼かれ続ける痛みだけだった。
普通の人間なら肌を焼かれ、炭なるのにビクトールにはギフトがあったために死ねなかった。
「これこそ魔女の仲間という証拠なのです!彼はこうして焼かれているのに死ぬ気配がない!女王を仇なす悪なのです!」
燃え盛る炎の中から僅かにマイアの姿が見える。何か叫んでいる。
どうしようか、こんなに焼かれたら絵が描けなくなるかもしれない。あの絵はまだ未完成なのに。
ルナーに会いたい。話したいことも、共に行きたい場所もあったのに。
丸太に貼り付けられて動けない。ただ焼かれるのを感じることしかできない。
(ごめん、ルナー。もう僕は無理だ)
死にたい。ビクトールは炎の中でそう願った。




