未完成のカンバス 三
朝日が昇る少し前。ここからビクトールの一日は始まる。
眠りから覚めた山羊達の世話と乳絞り、火を起こすための薪を作るために斧を振るい、朝食を食べる。
村の住人で収穫した野菜や加工した肉を近くの市場まで運び、露店や酒場に卸して売っていく。
「最近のビクトール、ずっと機嫌がいいよね。何かいいことあった?」
「え?いいこと?そんな風に見える?」
「見える見える。何年幼馴染してると思ってるの?」
売って得た金を数えるビクトールの隣でつまらなそうに幼馴染のアリアーナがぼやいた。
アリアーナは数少ない友人の一人で赤ん坊の頃から一緒に村で育った幼馴染だ。
だからか、こうしてビクトールの機嫌や表情には敏感でなにかあったのかと知りたがる。
ビクトールに落書きが見えることも、人が描けないことも知られている。
「で、何かあったんでしょ」
「あー、イタリアで絵を褒めてもらったからかな」
「確かにそれは嬉しい、か。つまんないの」
「つまんないはひどくない?」
金色の髪を靡かせるアリアーナは本来、ビクトールと共に卸売に来るような立場ではない。
アリアーナは村で一番の金持ちの令嬢だ。
そもそもビクトールがアリアーナと幼馴染みになれたのも奇跡で、同じ月で同じ病院で生まれていなければこうして話すことも抱えている秘密を話すこともなかった。
少し強引なところは考えものだが、ビクトールは良き友人と認識していた。
「さっさと帰ろ!お母様が早く帰ってこれたら作った菓子を分けて分けてあげるって言ってたの。一緒に食べよう?」
アリアーナは絹の裾を翻し、ビクトールの一歩前を歩く。
いつもならこの後、アリアーナに連れられて紅茶や菓子を貰うが今日からはそうもいかない。
気持ちはあの泉に行きたくて仕方がない。
「ごめん、今日は用があるから行けないや」
「え、用って何?仕事?」
「うん、そんなとこ」
「…あっそ。一人で食べてやる。分けてあげないから」
不機嫌そうに頬を膨らませてアリアーナはそっぽを向いた。
こうなるとアリアーナは当分不機嫌なままだ。アリアーナの誘いを断るとこうなることは分かっていたがビクトールはさっさとルナーが待つ泉に行きたかった。
早々に黙り込んでしまったアリアーナを荷台に乗せ、ビクトールは御者席に座って馬を走らせた。
重かった野菜や肉が無くなった荷車を馬たちは元気よく引っ張って走る。
出会ったあの日から一ヶ月が経っていた。出会った次の日、半信半疑で過去に描いた絵を持って行った。
ルナーは変わらず泉にいた。そこからルナーとの交流は続いた。
時に伯父に連れて行ってもらった異国の話やルナーの生い立ち、何故ウェールズに来たのかをお互いに話した。
ルナーの話はどれも面白く新鮮で、改めて世界が広いことを実感した。
そしてルナーが魔女であることも教えてもらった。その証拠に魔術も見せてもらった。本人曰く、逃げようとして重たくなった足の原因は魔術をかけたからだとも言っていた。
村に着いたビクトールは馬を馬小屋に移動させ、稼いだ金の取り分をそれぞれの家へと配り渡る。
「クレマン爺さん!これ、今日の分!」
「ああ、いつも悪いな。私も足が悪くなければな…」
クレマン爺さんは動きが鈍くなった左足を摩りながら呟く。
苦笑を浮かべながらビクトールは家に入り、机に金が入った麻袋を置いた。
変わらずクレマン爺さんの顔は青色の絵の具で半分塗り潰されている。今日も顔全体を見ることは叶わない。
「気にしないでよ。助け合いが大切って母さんも言ってたし」
二年前からクレマン爺さんの左足は木の棒のように動かなくなってしまった。
杖をつきながら歩くことはできても野菜の収穫や田畑の手入れはできない。
そして一年前までは息子がいたがクレマン爺さんと揉めてロンドンへと行ってしまったのだ。
だからこの家にはクレマン爺さんしかおらず、ビクトールが出て行った息子の代わりにそれらを担っている。
「ありがとな、ビクトール。あのバカ息子は手紙も寄越さず何をしているのやらなぁ」
舌打ちを吐き出し、かつて共に暮らしていた息子の悪態はつくが心配はしているようだ。
まあまあ、と苦笑いを溢し、ビクトールはクレマン爺さんの家を出ようとしたが呼び止められてしまった。
「そういえばもうすぐロンドンから司祭様がやって来るらしいな」
「確か母さんもそんなこと言ってたかも。でも何でわざわざ司祭様がネヴァーンに?」
「魔女狩りだよ」
クレマン爺さんの言葉に息が詰まった。
魔女狩り。ルナーのことを探しに来たのだろうか。
だがこの一ヶ月、村に誰にもルナーのことを話していない。
ルナーもまた身を潜め、誰とも会っていない。加えて森に魔術を施しているため誰かが近づけばルナーは身を隠していた。
「ネヴァーンに魔女がいるの…?」
「私だって聞いたことないけど紛れ込んだのかもな。司祭様の言葉はクイーンの御言葉。お会いしても粗相のないようにな」
「うん、気をつけるよ」
実はロンドンなどの都市部では魔女を指示する市民による反乱が度々起きていた。中には魔女の子孫やどさくさに紛れに女王の暗殺を企てる貴族もいるそうだ。
故にこんな何も無い村にまで政府の目が向けられているのだろう。
ビクトールは話を切り上げて、自宅へ駆け込んだ。
マイアが何か言っていたが適当に返事をしながら家をすぐに出た。画材道具を抱えて森へ向かって走る。
だが村の入り口まで来たところでビクトールは足を止めてしまった。
視線の先でこの村には似合わない豪華な馬車が停車していたからだ。
すると馬車のキャビンから男が現れた。白い司祭服を身に纏っており、白いカズラによく映える群青色のストラが似合っている。
クレマン爺さんが言っていた司祭だろう。
「こんにちは、少年」
「こ、こんにちは…」
「君はここの村の子かな?」
呼びかけられ、心臓の鼓動が速くなる。
この国で魔女は悪とされている。ビクトールもまた最初はそういうものなのかと思っていた。
だがルナーと出会い、話してそんなことはないと分かった。
たまたま出会ったのが良い魔女だったのかもしれない。他の魔女は皆が噂するように人間を喰らい、子供を連れ去り、不幸を招く者たちなのかもしれない。
ルナーはそんなことしない。でも。
(きっと皆はルナーを火刑にしてしまうんだろうな…)
話せば分かってくれると思うほどビクトールは子供じゃない。
ビクトールは笑みを浮かべ、黒い絵の具で塗りつぶされて顔の見えない司祭を見た。
「今日からネヴァーン地区の司祭を担当いたしますエルリック・パルソンです。どうぞよろしくお願いしますね」
「はい、よろしくお願いします司祭様」
「時に少年、これからどこかへ行くのですか?」
「僕は絵を描くのが趣味で、仕事が終わったら村の外で絵を描いているんです」
「ああ、良い趣味です。絵は心を豊かにします、大いに励みなさい」
そう言って司祭は神と女王のご加護があらんことを、と言って目を伏せた。
司祭の隣にいた従者たちもビクトールに体を向けて祈った。
ビクトールは食事前に祈ったりするが神や女王を頼っているわけではない。
だがここで礼を言って早々に去ると疑われるかもしれない。
画材道具を地面に置き、膝を着いてビクトールも手を合わせて祈った。
「信仰深き者には必ず幸福が訪れます。少年は素晴らしい信者ですね」
「有り難き御言葉です」
すると隣にいた従者が司祭の耳元に口を寄せ、何かを伝える。
早く立ち去ってほしい。今のビクトールが思うことはそれだけだ。
「ああ、そうでしたね。少年、呼び止めて申し訳ない。もう行きなさい」
「はい、司祭様にも神と女王の御加護があらんことを」
ビクトールはそう告げ、画材道具を持って今度こそ村を出た。
どうか何も気付かれていませんように。そう願いながら。
(神様、ごめんなさい)
ビクトールは落書きを試練と与えた神より、目を見て話すことができるルナーを信じた。




