未完成のカンバス 二
華やかな水の都に三日間滞在したのちに村へ向かう帰り道。ビクトールは虫の鳴き声を聞きながら歩いていた。
一本道をひたすら歩く。この帰り道がビクトールにとって楽しみの時間の一つだった。
不規則に鳴く虫の合唱。揺れる草花。少し湿った風がビクトールの頬を撫でる。
こんな日々が続き、いつか自身で稼いだ金だけで生活していくのだろう。マイアと共に日本に旅行するのもいい。
「いつか、だなぁ」
こうして一人で夢を空想するのも楽しい。
叶えたい『いつか』を夢見る日々が当面は続くのだろう。この時はそう思っていた。
だが人生というものはずっと平坦なわけではない。
出会いというものは突然やってくる。
村に着くまであと少しの距離のところに分かれ道がある。
村へ向かう道と森へと向かう道。村への道は人や馬車の往来が多いため整えられているが、森への道は雑草が生えていて、いかに通る人が少ないかを物語っている。こんな道を通るなんて自身かクレマン爺さんくらいしか知らない。
この日、ビクトールはそのまま家に帰る気にはなれなかった。
ウェールズでは珍しく雲一つない晴れた日だからか、ヴェネチアで良い絵が見れたからか。
ビクトールは旅行鞄を持ったまま、森へと向かった。
「どうせだから素描でも描いて帰ろうかな」
雑草を踏み分けながら森の中へ向かう。
降りた駅から村までは遠い故に歩くしかなく、歩けば歩くほど汗が滲む。シャツが張り付いて気持ち悪い。
いつもなら家で水浴びをするのだが今日くらい森の中にある小さな泉の水で体を拭くのもいい。
晴れている日の森の中は太陽の光に照らされ、鳥たちの鳴き声が美しく響き渡る。
村の人は気味悪いや魔物がいるかもしれないと近づこうとはしないが。
「駅でバケットでも買えばよかったなぁ」
腹の虫を宥めながら、木々の間を縫って歩く。
そして泉に辿り着き、畔まで近づいた刹那だった。
水面が大きく揺らめき、水飛沫と共に水の中から少女が声を上げて大きく息を吸い込んだのだ。
太陽の光に照らされる濡れた少女の姿はビクトールの一瞬を奪った。
美しい。ビクトールの頭に浮かんだ言葉は美しいだけだった。
当然だが服を着ながら泉で水浴びをする人など物好きでなければそんなことはしない。
そう、少女の姿は一糸纏わぬ姿であった。
「あら、人間だわ」
「わぁぁぁ!!ごめんなさぁぁい!」
小さく驚いた少女の姿から視線を外し、ビクトールは背を向けて泉から走り去ろうとした。
だが足が鉛のように動かない。確かに自身が臆病者だという自覚はあるが走ることもできないマヌケではないはずだ。
少女のくすくすと笑い声が背中越しに聞こえる。
「そんなに慌てて逃げる必要もないんじゃない?そんなに私の体はひどかった?」
「ひ、ひどくなんかない!け、けど…お、女の子が水浴びしているところは見ないほうがいいと思って…」
「あなたって優しいのね。私の裸を見て謝る人なんて初めて見た」
「え」
水をかき分ける音が響く。泉から畔に上がったのだろう。
服を着る音がやけに大きく聞こえる。
早まる心臓を落ち着かせるために少女が言ったことを反芻させた。少女の言い方からすれば今まで何人かの人に裸を見られたということなのだろうか。
ビクトールの心臓は余計に早くなってしまった。別の意味で。
「私、娼婦なんてしたことは無いわよ。出会った人間達が私の体に興味があって勝手に見てきただけの話」
「僕はわざとなんかじゃ!」
「ふふっ、言動からわざとじゃないことなんかすぐわかるわ。意地悪を言ってごめんなさい」
簡素で軽やかなエンパイアドレスを着た少女は動けないビクトールの正面に回り込み、微笑んだ。
刹那、目の前にある少女の顔にビクトールは息を呑んで目を見開いた。
そこには少女の顔があった。落書きのない愛らしい無垢な少女の顔だった。
「か、おが…」
「顔?私の顔に違和感でもある?他の人間は美しいって褒めてくれたんだけど」
「いやその…人の顔をちゃんと見たのは初めてだから…」
「人の顔を?それならあなたの目は正しいわ」
「え?どういうこと?」
「教えてあげるから私から逃げない?」
鉛のように重いビクトールの足を指さしながら少女は問う。
何故足が動かないことを知っているのだろう。
訝しげに見上げる顔が面白かったのか、少女は笑いながらも開放して、と呟いてビクトールの足に触れた。
触れられた瞬間、足の感覚が元に戻り、驚いたビクトールは前のめりにこけてしまった。足が急に走れという命令を思い出したかのように動いてもつれてしまったのだ。
「あなた、名前は?」
「ビクトール・ベルバレット。君は?」
「色んな呼ばれ方をしてどれがいいのか分からくなって、ちゃんと名乗れる名前がないの。良かったらあなたの好きなように呼んで」
「色んな呼ばれ方…?うーん…呼び方か」
唸るビクトールの頬に水滴が零れる。雨ではなく、ビクトールの顔を覗き込む少女の髪から伝っていた。
ひとまず考えるのをやめ、旅行鞄から使っていない清潔なタオルを取り出して少女の髪を包む。
「使ってないタオルだから許してね。濡れたままだと体調を崩しちゃうし」
「…さっきのあなたの目が正しいって理由教えてあげる」
「あ、そういえば…」
「私、人間じゃないの。ビクトールがどういう理由で人の顔を見たことがないのかは知らないけど、残念ながら私は人間じゃないからカウントされないわ。だから私の顔がちゃんと見えているというのは間違いで正解なのよ」
少女の言葉に思考が止まる。
人間じゃない。その言葉を確かめるようにビクトールはもう一度少女の顔を見た。
タオルで覆ったことで少女の顔に影が落ちる。そこに人間じゃない理由がはっきりと浮き彫りになった。
少女の瞳の中に黄金色に輝く『満月』が影の中にある双眸にくっきり浮かんでいたのだ。
「月がある…!?」
「どう?人間にはないものでしょ?」
「うん、確かにないね。あ!もしかして満月以外に三日月とか半月とかにもなったりする?」
「…あはは!そんなこと初めて聞かれたわ!ええ、気まぐれに月の形は変化するわ」
「へえ、夜空を独り占めできる瞳なんだね。あ、じゃあ安易だけど『ルナー』って呼び方はどうかな!」
「うーん…私が言うのもおかしな話だけどあなた、危機感を鍛えた方がいいんじゃないかしら?」
態度が変わらないビクトールに対して少女は眉を下げて呆れる。
ビクトールにとって目の前にいる少女が人間じゃないという事実よりも、少女の持つ満月の瞳に魅せられてしまった。
ネヴァーンの村からでも美しい満月を見れることはある。
だがこんなに間近で煌々と輝く満月が見られることが何よりも嬉しかった。
おかげ少女のため息も呆れ声も耳から通り抜けていく。
「ビクトール、私の話聞いてないでしょ」
「そんなことないよ。ねえルナー、もっと瞳を見せて!」
「もういいわ、好きなだけ見なさいな。その代わり、ビクトールの話を聞かせて」
「僕の話?」
「そう。大きな鞄を持ってどこに行っていたの?」
ルナーは視線をビクトールの旅行鞄に向けながら問う。
確かに大きな旅行鞄を持っていたら誰しもどこに旅行していたのか気になるのは道理だ。
問われたビクトールは鞄から紙を数枚取り出してルナーに見せた。
「絵を描きに行ってたんだ。ヴェネチアは綺麗な景色や賑やかな祭りが多くて見ていても面白いし、見ていると描きたくなるんだ」
「ビクトールは画家なの?」
「ゆくゆくはそうなれたらなって思ってる。だから伯父さんにお願いして定期的に海外に連れて行ってもらって、こうしてたくさん描いてるんだ」
「へぇ…」
紙を受け取ったルナーはじっくりとビクトールが描いた素描の絵を見る。
(あ…誰かに絵を見られるの新鮮だな)
思えばこうして目の前で描いた絵を見られると言うのはマイアとジョージ以外で初めてだった。
自覚した途端、ビクトールの心臓は心拍数を上げた。
今更だが見せた絵は素描で売り物にしている絵じゃない。どうせなら完成された絵を家から持ってきて見せればよかった。
(どうしよう、素描なんて見ても面白くないかも…)
するとルナーは紙から顔を上げた。
まだ何も言われていないのに心の奥底から後悔が湧き上がる。次にルナーの口から紡がれる言葉が怖い。
背中に冷や汗が伝う。さっきまで見れていたルナーの顔が見れない。
「ビクトール、もっとあなたが描いた絵はないの?」
「あ、あるけど。家に…」
「なら明日もここにいるから見せて」
「え、その、僕の絵が気になるの?」
「ええ。私は人間の絵なんてよく分からないけど、でもビクトールの絵をもっと見たいって思ったのは本当よ」
目を細めながら絵を見るルナーの姿にビクトールは完全に視線を奪われてしまった。
そしてこの時、初めて人を描いてみたいと思った。
ルナーは人間ではないらしいが、落書きが見えてしまうビクトールからすればルナーのほうがよっぽど人間だ。
それにルナーのおかげでビクトールは初めて人間の顔を見ることができた。
おもむろにビクトールは水面に近づき、己の顔を覗き見た。
やはりそこには栗色の絵の具で口を塗りつぶされている十六歳の少年の顔があった。
「何をしているの?」
「君は僕の目は正しいって言ったよね。でも他の人は僕の目をおかしいって言うんだ」
「どうして?」
「僕は人の顔に落書きされてる状態で見えてしまうんだ。こんな風に」
ビクトールは分かりやすく伝えるために落ちてあった木の枝で地面に丸を描く。
次に丸の中に小さな丸を二つ、そして小さな丸の下に短い棒線を描いた。簡単な人間の顔だ。
描いた人間の顔の半分を土を削っていつも見ている人間の顔にする。
「これが僕の見えている人間の顔」
「じゃあ私は塗りつぶす前の状態なのかしら?」
「うん。全部見える。人が描いた神様でも塗りつぶされてたのに」
「ふぅん。ねぇねぇ、それって」
ルナーは立ち上がり、被っていたタオルを剥ぎ取ってビクトールを見下ろした。
瞳の中で輝いていた満月が一際、輝いた気がした。
「ビクトールの見る世界の中で特別な存在、ってことじゃない?」
出会って一日も経ってないのに。彼女は人間でも女神でもないのに。まだ何も知らないのに。
ルナーの表情が、瞳が、心に焼き付くのに時間なんて関係なかった。
この日からビクトールはカンバスにルナーを描き始めた。




