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霧崎小春の花影  作者: 椄瀬結


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第二十幕 未完成のカンバス

産業革命が人類にもたらした物は大きい。

 蒸気機関車、蒸気船、手作業を無くした織布機械などと例を上げればキリがない。

 技術革新が起きたイギリスでは簡単に素早く大量の製品が生み出された。

 瞬く間にイギリスの田畑から男達の姿が無くなり、都市には石炭や炭で手を黒くした不健康な男達で溢れかえった。

 工場から製品が生み出されると同時に労働問題、貧困問題も生み出されていった。

 生み出されてしまった問題は大きく、イングランドから始まりスコットランド、北アイルランド、そしてウェールズにあるネヴァーンの村々にも届く。


「兄さん、いつもありがとう。毎月こんなに貰って申し訳ないわ」

「いいんだよ、マイア。可愛い妹と甥の為だ。それに子ができない私が金を持ちすぎると腐らせてしまうからね。むしろそのお金の半分はビクトールの稼ぎだよ」

「ふふっ、ならあの子は立派な画家ね。ビクトール!ジョージ伯父さんが来てくれたわよー!」

「呼んだ?」

「わあ!?もう!後ろにいたら言いなさい!」


 いたずらに成功したビクトールは笑いながら伯父であるジョージとハイタッチを交わした。

 ジョージもまたゆっくりと母であるマイアの後ろに近づくビクトールに気付いていたが意図を読み取って素知らぬ振りをしてくれていたのだ。

 そんな笑う姿に怒ったようでマイアはビクトールの頬を容赦なく抓った。


「ほらさっさとイタリアに行くための荷物を取ってきなさい!」

「いだだ!ごめんなさい!」


 赤くなった頬を抑えながらビクトールは自室に置いてある旅行鞄を取りに行く。

 今のイギリスに住まう平民に旅行鞄を持ってイタリアへ行くなどということは難しい。それこそパトロンがいないと叶うことはできないと言っても過言では無い。

 そんな中でビクトールは恵まれていた。

 画商である伯父、ジョージ・ベルバレットの金銭援助を受けながらビクトールは日々絵を描きながら穏やかに暮らしている。

 そして今日から一週間かけてビクトールはイタリアで行われる展覧会に行き、絵を学び、そしてまたこのネヴァーンの村に帰ってくる。

 ビクトールは旅行鞄に鉛筆を数本、白紙の紙の束を詰め込んで階段を駆け降りた。


「伯父さん、お待たせ!早く行こう!」

「じゃあマイア、ビクトールを借りるよ」

「はいはい、二人とも気をつけてね」


 ビクトールには父親がいない。まだビクトールがマイアの腹の中にいる時に不慮の事故で死んでしまったのだ。

 本来なら母子家庭の子供は金を稼ぐため、ロンドンに行き、炭鉱夫になるというのが生きる術となっているこの国でビクトールはマイアと共に過ごすことができていた。

 炭鉱夫にならずに暮らすことができているのはジョージの支援のおかげ。そしてショージはビクトールにとって父親代わりになっていた。

 そんな父のようなジョージは貴族に絵を売る画商であり、イタリアやフランスへのグランド・ツアーを企画するガイド業も行っている。

 ジョージは幼い日に描いたビクトールの絵に才能を見出し、仕事の補佐という名目で共に異国へ連れ出してくれている。


「ビクトール、お前の絵が三枚売れたぞ」

「前に描いた木の絵?」

「それと狐の絵と花の絵だな。やっぱりお前には絵の才がある。同年代で売れている画家は少ない」

「そうなんだ」


 絵の才はある。ビクトールはジョージの言葉をぼんやりと受け取った。

 イギリスの技術発展で生まれた蒸気機関車で港まで乗り継ぎ、乗船した船から見える地平線を眺める。この船にはイタリアやフランスなどのヨーロッパに向かう貴族が多く乗船していた。


「ビクトール、アカデミーに通って才能を伸ばすべきだ」

「…うーん、僕は自然や動物が描きたいだけだし、それで買ってくれる人がいるならそれで良いと思うんだけど」

「今はいいかもしれないがこれから先、それだけでは厳しい。お前も理解しているだろう?人物画は欠かせない。お前ならもっと良い絵が描けるはずだ」

「そう言ってくれるのは嬉しいけど、母さんを一人にはできないよ」


 そう言うとジョージは眉を下げて口を閉じた。

 こうして度々、ジョージにアカデミーへ通うように言われるがビクトールは断っていた。

 もしロンドンのアカデミーに通うとなれば村にマイアを一人残すことになる。これも理由の一つだ。

 ビクトールは顔を地平線からジョージに向ける。

 ジョージの片目が黄色の絵の具で塗り潰されていた。

 だがこの絵の具はビクトールにしか見えず、実際のジョージの顔には何も塗られていない。

 そう、ビクトールは『人の顔を認識すること』ができない。実の母親であるマイアの顔にも橙色の絵の具が塗られている。

 ビクトールは勝手にこれを落書きと名付けた。

 そして生きていく上での解決策として人を認識する時、来ている服や匂い、声で判断する。

 ジョージなら油画で使われるオイルの匂いとオイルの匂いを消そうとする香水の匂い。隣村に住んでいるクレマン爺さんならしゃがれた声と特徴的な笑い方。

 今は昔から知っている人間しかいない小さな村だから不自由なく暮らせている。


(人がたくさん都会なんか行きたくないのに…)


 ただでさえこの船に乗っている人達の顔も様々な色で塗りつぶされているのに。

 ジョージが言った人物画。画家は必ず生涯で一度は人間を描く。それが平民だったり、国王だったり、自分自身だったり。

 しかしこの落書きのせいでビクトールは人が描けない。

 何度も挑戦した。何度も筆を持ち、カンバスに向かった。自画像を描くために鏡の中の自分を見つめた。

 結果として一度も描けなかった。自分自身でさえ塗り潰されていたのだ。だから諦めたビクトールは風景画や動物だけを描くようになった。

 それでも困ることなんてない。

 風景画は貴族達の間で流行っており、ビクトールが描く風景画は貴族達に好評だった。

 それに人が描けなくてもビクトールは絵を描くことをやめられなかった。

 皮肉なことに絵を描いている時は人の顔を見なくてもいい。その瞬間、時間が生活に欠かせないものになってしまったのだ。

 

「早く絵が見たいなぁ…」


 ビクトールの呟きは波と共に海峡へと消えていった。

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