もう一人のおかあさん 三
暗闇に呑まれている間、小春は夢を見た。
満開の桜並木の下で小さな女の子とその母親が楽しそうに歩いている。
『桜、綺麗だね!』
『ほんとねぇ。櫻子にぴったりな季節だわ』
『お母さん!抱っこして!』
『はいはい。ふふっ、この間より重たくなったわね。それに背も伸びた』
『えへへ、さくらこ、早く大きくなりたい!』
『なら櫻子が大きくなったらお母さんのこと抱っこしてもらおうかなぁ?』
『仕方ないなぁ、いいよ!』
この夢は何なのだろうか。あの化け物の夢なのだろうか。
それとも化け物になったとしても残り続けている記憶なのだろうか。
だが赤の他人の小春はただ歩く二人を遠くから眺めるしかできない。
もしも本当に櫻子だったなら、母親の腕の中ではしゃぐことができたのだろうか。
もう那由とちゃんと会話をしたことも一緒に散歩した記憶も遠く朧げで鮮明に思い出せない。そして父親の顔も。
母親の簪が音を鳴らし、桜の嵐が彼女たちを攫っていく。
夢はそこで乱暴に途切れてしまった。
目を覚ますと帝都駅の近くの路地裏の中にいた。
もちろん、化け物もといおかあさんの腕の中に小春はいた。
どうやら旧校舎から遠く離れた帝都駅の近くに運ばれたようだ。
【帰りましょう…帰りましょう…】
おかあさんは人々が行き交う先にある帝都駅を見ている。
帝都駅には数年前に運用開始された新幹線が通っている。
恐らくおかあさんは帝都駅からどこかへ櫻子と一緒に帰りたいらしい。
だが小春には帰りたい場所が分からない。
「おかあさん、どこに帰るの?」
【京都よ…五条に帰りましょう…】
「京都…」
小春は京都に行ったことがなかったが、幸いにも新幹線のチケットの買い方は知っていた。
以前、凉斗とお手伝いさんと横浜へ行く時に教わったのだ。
胸元に入れている財布を見てお金を確認する。
那由から出張などでいない間の生活費は貰っていたので切符を買えるだけのお金はあった。
だが今から京都に向かうとなると到着時には恐らく夜も随分と更けている頃だろう。
ほんの少し迷うが、今更逃げることなどできない小春はおかあさんの手を引いて帝都駅へと向かった。
(まあ、いいか)
行き当たりばったりでどうなるか分からない旅になりそうだったが、どうなるかなんて迷うことをやめた。
今頃灼司が凉斗の元へ駆け込んでいるかもしれない。
だが那由が今の出張から帰ってくるのは明日だ。少なくとも明日までは櫻子でいられる。
そして小春は京都行きの切符を二枚買い、目立たなさそうな隅の2人席に座る。
おかあさんは普通の人には見えないので切符は一枚でも良かったのだが。
(一緒に帰りたい、だもんな)
いつか読んだ異国の冒険譚を思い出す。少年が宝物を目指して冒険する話だ。
その少年は最後に宝物を見つけたが、小春は京都に行ってどうなるのだろうか。
新幹線が動き出し、利用者の少ない車内にアナウンスだけが響く。
途中、駅構内で買った金平糖を口に入れる。
本来なら今頃、誰もいない家で夕餉を食べていただろう。
(凉斗や灼司は怒るかな)
味気なく感じる金平糖を齧ること二時間。あっという間に京都に到着した。
当たり前だが子供一人で宿をとることはできない。怪しまれて警察に連れて行かれるのがオチだ。
それはなんとしてでも避けたかった。小春としてもおかあさんとしても。
小春はともかく、娘が警察に保護されるなんて状況はおかあさんにどう作用するか分からない。他の関係ない人を襲うことなんてこともありうるかもしれない。
櫻子を演じていても周りを見る冷静は維持していた。化け物が暴れるとどうなるのか、凉斗の父親に口酸っぱく言われていたからだ。
故に小春達に与えられた選択肢は野宿、一つしかなかった。
「おかあさん、お家は明日行こう」
【嗚呼…嗚呼…】
京都駅からどれほど歩いたかわからないが気がつけばどこかの村の近くまで来ていた。
その村には明かり一つなく、寝静まっている。
ただこの村は住んでいる人が少ないのか、手入れのされていない空き家がたくさんあった。
小春は鍵がかかってない空き家に忍び込む。扉の立て付けが悪くなっていたが、そこはおかあさんが手を貸してくれた。
布団があればよかったが人が住んでいないため、生活に必要なものは置かれていない。
そして居間に上がり、軽く埃を払う。鞄を枕の代わりにして横になった。
(冬じゃなくて良かった)
目を閉じて体を丸める。初夏を迎えていたため、寝ることに困らなかったが雑魚寝の経験は少ないため違和感が拭えない。
もし次に旅行するときは宿をとろう、なんて頭で考える。
すると小春の体が何かに包まれる。
薄く目を開けて確認するとおかあさんが大きな体と手で小春を優しく包んでいた。
まるで親子の添い寝のようだった。
【櫻子…櫻子…寒くない?】
「…寒くないよ、おかあさん」
【良い子…良い子…お眠り、良い子】
「うん…おやすみなさい」
異形の手が小春の背中を優しく一定のリズムで撫でるように叩く。
叩くリズムが心地よく、ゆっくりと眠気に吞み込まれる。
おかあさんの温もりと記憶の那由の温もりが重なる。
小春は小さな体をおかあさんに寄せた。そこに那由の傷だらけの腕や風呂上がりの匂いはない。
それでもおかあさんがくれる優しさは今、小春が一番欲しくて仕方のないものだった。
凉斗や灼司、那由は本当に心配してくれているのだろうか。この温もりは本来、櫻子が受け取るものだったのに。
暗い夜が続く中、小春は涙を流しながら眠りについた。
帝都駅では小春がおかあさんの手を引いていたが、今度は引かれる側になった。
雄鶏が鳴く前に起床し、おかあさんに手を引かれるがままに小春は歩いている。
どこに向かっているのかはわからない。だがおかあさんと櫻子の家にたどり着くことで気が晴れるのであれば、と小春は黙って歩いていた。
朝日が眠気から開き切らない目に染みて少し痛い。
京都駅周辺は宿や食事処などが立ち並び、夜でも賑わっていたが、駅から離れてしまえば田舎の風景が限りなく続いていた。
改めて帝都が科学都市として急速発展しているのかが如実にわかる。
なんてぼんやりと考えていた刹那だった。
繋いでいたおかあさんの腕が切られ、ゴトリと地面に落ちる。
「え…?」
【嗚呼嗚呼…あああああああああ!!】
目の前で起きたことに理解した時には、おかあさんは絶叫し、小春を守るように戦闘態勢になっていた。
体は形を変え、蜘蛛のような手足が生え、腕を切り落とした人間に向かって吠える。
小春もまた顔を上げて切り落とした人間を見た。
それはよく見知った人間だった。
「お母さん…」
久方ぶりに見る本当の母親、那由だった。
そしてその隣には那由のパートナーである祓魔師の桃坂八虎が太刀を携えている。
そこに待ち望んだ母親の姿があった。だが素直に喜べず、それどころか全身が恐怖で肌が粟立った。
顔に影を落とし、青筋が浮かび上がっている。あんな表情、小春は一度たりとも見たことがなかった。
那由の表情に怯えている小春に気が付いたのか、八虎がため息をついて那由を小突く。
「これ。お前の形相に小春嬢が怯えているじゃないか」
「うるせぇ、しょがねえだろ。こっちは大事な娘を連れ去られるし、寝不足だし、虫の居所がクソ悪いんだよボケ」
「気持ちは分らんでもないが…間違っても小春ちゃんに八つ当たりするんじゃないぞ?これはお前のツケでもあるんだから」
「…分かってる。ただそれ以上余計なこと言ったら化け物ごと八虎の糸を切りかねないぞ?ああ?」
「うわぁ、くわばらくわばら」
苦笑し終えた八虎はそう言うと太刀を構えて、おかあさんのほうへと走り出す。
その時、小春の寝ぼけていた脳が動き出す。おかあさんが殺される。
八虎と那由のコンビは全国の化け物や妖を討伐している凄腕だ。
そんな二人におかあさんでは敵わない。ならこの状況を止められるのは小春だけだった。
「待って!おかあ、うわっ!?」
「小春!ここから逃げるぞ!」
「灼司!?お願い!八虎おじ様とお母さんを止めて!このままじゃおかあさんが殺される!」
「何言ってんだ!?お前のお母さんは、」
後ろの草むらから飛び出てきた灼司に抱きかかえられたが小春は必死に暴れて抵抗する。
その声が聞こえたのだろう。おかあさんが振り返り、怒りの咆哮を上げた。
急いで耳を塞いだ小春は良かったものの、小春を抱えていた灼司は耳を塞ぐことができずに咆哮を直近で食らってしまった。
聴覚が人間よりも発達している虎の灼司がどうなったかは一目瞭然だった。
大きな音の衝撃で意識を飛ばした灼司は小春を抱きしめながら倒れこんだ。加えて白い耳から血が流れている。
そしてその咆哮は八虎にも効いたようでおかあさんから距離をとった。
小春は慌てて灼司の腕から抜け出し、おかあさんの傍に駆け寄る。
「おかあさん逃げて!」
【娘は…渡さない…!】
「違う!私は櫻子じゃない!騙してごめんなさい!でもお願いだから逃げて!じゃないと!」
【知っていたわ…知っていたわ…娘は、娘は渡さない…!!】
「な、んで…だったら、どうして…!」
言葉がうまく吐き出せない。様々な感情が渦巻き、涙を流すことしかなかった。
いつから櫻子ではないと気づいていたのだろう。考えても詮無きこと。
それでも動揺せずにはいられなかった。
聞きたいことはたくさんあるのに言葉にできないもどかしさが小春の心を掻き毟る。
それがおかあさんには伝わったのか、来ている着物を握り締める拳にそっと手を重ねられる。
そしてあの大きくどこまでも優しい手が小春の頭を撫でた。
【良い子…良い子…泣くのはおやめ、良い子…】
「でも、でもおかあさんが…!」
【大丈夫…もう、お帰り…優しい子】
それだけ言い残すとおかあさんは八虎に向かって突進する。
小春の伸ばした手が空を切った。まるで走馬灯のように見ている世界がゆったりと時間が流れているようだった。
その黒い巨躯が八虎の太刀で真っ二つになるその瞬間でさえも。
決着は呆気ないものだった。
おかあさんの体は塵になり、空を舞っていく。
泣くのはおやめと言われたが無理な話だった。大粒の涙が小春の頬を伝って地面に消えていく。
那由が小春を呼ぶが、小春の耳には届いてなかった。
鉛のように重い体に鞭を打って立ち上がり、塵となったおかあさんの体から現れた簪を拾い上げる。
あの桜並木で笑っていた母親が髪に挿していたものだった。
その簪には糸が絡まっていた。それは禍々しい黒い糸だった。
「その糸が気になるのか?」
今度は明瞭に那由の声が小春の耳に響く。
振り返ると膝を曲げ、同じ目線で小春を見つめる那由がいた。
その表情の意図は読み取れなかったが、眉を下げて悲しげに微笑んでいる。
小春は目を逸らしながらもその言葉に頷いた。
すると簪を握りしめる手に傷跡まみれの那由の手が重なる。
おかあさんとは違う、生きている人の温もりだった。
小春がその行動に拒否を示さなかったことに安心したのか、那由から安堵の息が盛れる。
「…この糸はな、輪廻の糸って言われている」
「りんね?」
「まあ、要は魂だ。だからこれは私じゃない、もう一人の『おかあさん』の魂だ」
困ったように那由は笑う。
その微笑みの理由を分かった小春は怒られるかもと少し身構えたが那由は変わらず話を続けた。
「本当は死ぬと一緒に…うん、空に昇っていくんだ。次の人生に出会うためにな」
「でもここにあるよ、おかあさんの糸…」
「中にはこの世界に残りたいと強く願う奴もいる。理由は色々だ。やり残したこと、もう一度会いたい人がいる、とかな」
「おかあさん、京都に帰りたいって言ってた」
「だから京都に来たんだな、小春たちは。自分で切符買ったのか?」
「…うん。お母さんからもらったお金で買った」
「そっか…もう一人で切符買って京都まで行けるようになったんだな…。そっか…随分大きくなったんだな」
今度は苦しそうに笑い、小春の頭を撫でた。
だが普通の撫で方とは違い、まるで頭の形を確認するかのような奇妙な撫で方だ。
そして撫でていた手は順に頬、目元、髪、肩、腕をなぞって両手で小春の手を握り直した。
「お母さん?」
「ああ、悪い。それで糸だけがこの世界に残ると黒くなってしまうんだ。そしてさっきみたいな化け物を生み出しちまう。化け物の話は聞いているだろ?」
「…うん、たくさん聞いた」
「そんで化け物を祓魔師が退治して、母さんみたいな紬師がその黒い未練と糸を解いて紡ぎ直してやるんだ」
「どうなるの?」
「綺麗になった糸は空へと昇れるんだ。それが母さんの仕事。…小春、気になるなら『おかあさん』の糸、解いてやりな」
「え、でも…」
「大丈夫。ここで一緒に見てやるから」
これが初めての糸に触れ、那由に手助けしてもらいながら紬師の仕事をした瞬間だった。
糸を解く事自体は難しくはなかったが、触れている間、おかあさんがどうして化け物になってしまったのが見えてしまった。
おかあさんはとある華族に使える女中だった。だが当主の息子と恋に落ち、櫻子を授かる。
だが夫になるはずだった息子は事故で亡くなり、女中としても解雇され、櫻子を連れて帝都までやってきた。
貧しくも二人で楽しく暮らしていたが、ある日、夫の弟と名乗る華族の男が現れ、櫻子を京都へと無理やり連れて行った。
そしておかあさんは櫻子を追いかける最中、道路に飛び出してしまい、事故死してしまう。
死体は無縁墓地に埋葬されたが簪だけは住んでいた家に残していたため、知らぬまにおかあさんの糸が簪に取り憑いたらしい。
しかも不運なことにその簪は夫から贈物で大切に使っていたため、付喪神が取り憑いていた。
付喪神は糸と共鳴し、化け物となり、櫻子を探して旧校舎に辿り着いた。
灼司が旧校舎に来るなと言ったことも、旧校舎に妖がいなくなったのもおかあさんが居座ってしまったからだ。
「本当はオレ一人であいつを京都に連れて行ってやろうと思ったんだ。あまりにも可哀想でよォ」
事の顛末を八虎に説明しているのが聞こえたのか、目覚めた灼司が会話に入ってきた。
妖と人間では傷の治りの早さが違うと言っていたがどうやらもう破れた鼓膜が再生したようだ。
その証拠に耳から流れていた血が乾いて黒くなっていた。
小春は慌てて灼司に駆け寄る。
「灼司、怪我は大丈夫?ごめん、私が…」
「大丈夫だ、妖は便利な体だからなァ。元はいえば、オレがちゃんとオメェに説明してなかったのも悪かったし。オメェが無事ならそれで」
目線を合わせて座る灼司に小春は抱きつく。
引き剥がされると思っていたが灼司はそのまま小春を受け入れた。
強く抱きついたまま小春は嗚咽と共にごめんなさいと何度も漏らす。
こんな風に泣く人間は初めてだったのか、灼司の目にも涙が浮かんでいた。
すると小春達が泣いている後ろで八虎が那由を小突く。
「小春嬢、君のお母さんが何か言いたいことがあるみたいだよぉ」
「ばっ!お前!!」
八虎に背中を押されて那由がぎこちなく小春に向かって歩き出した。
それを見て何かを察したのか、灼司もまた小春の背中をゆっくり押し、行ってこいと口を動かす。
何が何だか分からない小春は戸惑いながらも那由に歩み寄った。
少しの間があって、那由が膝をついてまっすぐと小春を見つめた。
「小春。どうして京都に行こうとしたのか聞いてもいいか?」
「…私がいなくなったらお母さん、心配してくれるかもしれないって思った」
「そう、か…私は母親として間違いだらけだな。寂しい思いをさせてしまってたんだな」
「……いっぱい、いっぱい…いっぱい」
「小春?」
「いっぱい寂しかった…!もっと私と一緒にいてよお母さん!私だってお母さんと一緒にお出かけしたい!」
那由はその瞳を大きく開かせた。
二人で頑張っていこうと聞かされた夜から時が経ち、ようやく小春の奥底からでた言葉だった。
その背中を見送るたびに、誰もいなくなった布団の中で目が覚めるたびに、小春の望みは心の奥底に沈んでいった。
家に那由が帰って来る度に捨てられていないと安堵し、一人でも留守番ができるいい子であり続ける。
それが小春の幼い心には大きな枷となっていた。
だがそれも那由が小春に向き合った今、小春の心を押さえ付けるものは何もない。
一人の娘として、年相応の子供としてただ大きな声で泣き続けた。目も喉も痛いし、鼻の奥もツンとして鼻水が止まらない。
そんな小春を那由は強く抱きしめた。
「ごめん、ごめん小春。小春から逃げてごめん。寂しかったよな、辛かったよな…」
「うわあん!お母さんの馬鹿!」
「そうだな…お母さん馬鹿だったよ。でもお母さんお前のことは一番大好きで一番大切なんだ。傷つけてごめんな」
それから小春の記憶は曖昧だった。
慣れない遠出の疲労、常にあった緊張感と罪悪感が一気に小春の体に襲い、那由の体にそのまま抱きついて眠ってしまったのだ。
その間に簪は回収され、灼司と別れの挨拶もできないまま、帝都に帰って来てしまった。
(その日から紬師を意識し始めたんだっけ)
もう一人のおかあさんが小春に与え、残したものは小春の人生を大きく変えたのだ。




