第十三幕 移り変わる秋の空
夏季休暇も終わりを迎え、気づけば桃坂家本邸を訪れる日を迎えていた。
そんな大事な日であるのに小春は河川敷の原っぱに大の字で寝転がり、夜明け前の空を眺めている。
正確には那由に投げ飛ばされ、強制的に空を眺めさせられていると言った方が正しい。
朝日が昇る前だからか、投げ飛ばされた小春を見ながら歩き去っていく客は早起きした爺と婆しかいない。
見せ物ではないのだが、綺麗に投げ飛ばされた故に見てしまったのだろう。
「小春ぅ〜!お前、禄士郎にも守ってもらってばかりで戦闘訓練サボってただろ!」
「…ちょっとだけ」
「基礎は積み重ねだぞ〜!ほら帰るぞ。さっさと立て〜」
「はぁい…」
小春は痛む体を起こし、脱いでいたジャージの上着を拾う。
浅草で買い物をした次の日から唐突に朝日が昇る前に叩き起こされ、河川敷まで走らされ、戦闘訓練が始まった。
那由が魔女の調査のために海外に飛び立ったのは北海道旅行が終わり、小春が初めて軍学校に登校した日だった。
そこから約半年間、一度も帰ってくることはなかった。
故に小春は食事も戦闘における基礎練習も適度にサボる事ができた。
しかも禄士郎の強さのおかげで怪我をすることはあっても小春が前に出て戦うという機会はほとんどなかった。
(強くなるためって分かってるけど体痛いし、眠いし、シャワー浴びたい。私汗臭ぇ…)
朝日が昇れば那由との戦闘訓練は終了。
だがその間、那由から一勝も取る事ができないまま。できたことといえば、那由の頬にかすり傷をつけたことくらい。
それでも入学前の那由との訓練と比べれば進歩した方だ。
そうして己自身を慰めないと小春の心は折れてしまう。
「いやあ、朝から流す汗は気持ちいいな!」
「ベトベトして気持ち悪い」
「真っ向から否定すんなって。ほい、汗流した分はちゃんと水飲んどけ」
「ありがとう」
汗一つ流してない那由と歩きながら水を飲む。
渇いた五臓六腑に水が染み渡り、掠れていた喉に潤いが戻る。
小春は潤った喉を震わせて、言葉を発した。
那由の生い立ちを知れたら言おうと思っていたことだ。
「お母さんが帰ってきた日の前日に、私、お父さんと会った」
言わなくても良かったかもしれない。
小春を透と引き合わせないように妖術を施したほどだ。
だが再会したのは偶然でも会いたいと決めたのは小春であり、小春なりのケジメでもあった。
それを母親である那由には知ってほしい。娘としての小春が選んだ選択肢だ。
「まあ、いつかそういう時もくるか」
「どうして私とお父さんを引き合わせないように術を家に施したの?お父さんのこと嫌いだから?」
「待て待て、分かったから。ちゃんと説明するから落ち着きな」
そう言うとポケットから煙草とマッチを取り出して火をつけた。
那由が煙草を吸い始めたのはいつからだろう。
流れていく煙を横目で眺めながら記憶の引き出しを開けていく。
中学卒業祝いの旅行に行った北海道の小樽で吸っているのを見かけたのが強く鮮明に記憶へ刻まれていた。
便所と言って出ていった那由の帰りが遅く、姿を探しに行ったら外で煙草を吸っているのを見かけてしまったのだ。
卒業旅行以前にも見かけた気もするがはっきりと覚えているのはその時の記憶だ。
煙草の煙が空へと昇らずに何故か下へと落ちていくのが不思議だと思ったのを覚えている。
「結果的に離縁したけど母さんは透のことを多分、まだ好きだ。だけど私にとって何よりも大切なのは小春であって、もし透に小春を私がいない間に連れていかれたら。当時、その考えがずっとあった」
「…でも仕事の量を増やしたのはお母さんでしょ」
「ははっ、耳が痛いな。そう…小春を奪われたくないくせに小春や透、自分自身にも向き合うのが怖くて仕事に逃げてた。わがままでどうしようもない女なんだよ、母さんは」
「なんか…思ったよりあっさりしてる」
「小春のもう一人のおかあさんのおかげだな。あれで目が覚めたわ。でもあんなこと二度としてくれるなよ」
今は京都で眠っている『おかあさん』の誘拐をきっかけに那由は当時コンビを組んでいた八虎に六年の休職届けを突き出し、小春を連れて様々な場所へ旅をした。
小春としては忙しない日々だったがそれでも今までの時間を埋めるようにそばに居てくれたことは何よりも嬉しかった。
だがもし小春がいなければ那由は透と暮らしていたのだろうか。
「離縁した原因って私?」
「そんなことあるわけないだろ。原因は母さんと透に間にあるんだから。それは考えすぎだ」
刹那、胸の奥で溜まり、澱んでいた泥が流れ始めた音がした。
小春は歩みを止めた。そして水筒を持つ手が僅かに震える。
「でも、私」
「…母さんも『母親』は初めてで分からなくて間違えることも多い。それで小春を傷つけちまったしな。許せとは言わないし思ってもないけど、小春がこんな私の家族でいたいって思ってるなら、まだ母さんに付き合ってくれないか?母さん、自分の娘は小春がいいんだわ」
目尻に皺を寄せ、那由は眉を下げながら笑った。
心臓の鼓動が早まり、秋風で冷めていた体がまた熱を帯び始める。
そして熱は小春の瞳から流れ、頬を濡らし始めた。
何か返事しなくては、と言葉を探すが喉が震えて上手く伝えれない。
ようやく地面に足が着いた心地だった。
泥の中で蹲っていた小春は那由と透の娘であることを後悔しているのではないかとずっと怯えていたのだ。
ただ聞くだけの行動が簡単で何よりも怖かった。
ついには嗚咽が漏れ、感情が乱暴に掻き乱れていく。
心臓が痛いのに熱く、涙を拭ってもとめどなく溢れてしまう。
泣きじゃくる小春に驚いた那由は咥えていた煙草を落とし、小春に駆け寄った。
「おお!?すごい泣くじゃねえか!?嫌だったか!?母さん、また間違えたか!?」
「ぢがう…ぢがう…!」
「ぢがう!?あ、違うか!ん?じゃあ何が違うんだ?母さんに言えるか?言いたくないなら言わなくてもいいぞ」
「ずっと、怖かった。お母さんとお父さんが離縁したのは私がいるからじゃないかって…思ってたから」
一人で眠る夜に見る悪夢は小春を何度も苦しめた。
全てお前のせいだと告げられ、扉の鍵をかけられてずっと家に入ることができない夢。
ごめんなさいと叫ぶ自分の声に目が覚め、小春には大きすぎる布団を涙で濡らした。
玄関と布団を往復して疲れたら眠る。こんなことを言いたくて、言いたくなかった。
透の一件で那由が小春に言ってないことを話したら言おうと覚悟してよかった。随分と遠回りしてしまった。
「そうか…また私は不安にさせていたんだな。よく言えたな、小春。それは透にも言ったか?」
小春は首を振る。
言えていたらこんなに泣く必要もないのだ。
「透も同じ思いだろうさ、あいつは私と似て不器用だから。でも言ってくれてありがとな」
「お母さん、自分のこと何も話してくれないから…何か話してくれたら言おうとお父さんに会ったこと言おうって…でも我慢できなくて…」
「ああ、浅草の時のやつか。私のことは話す必要はないかなって…あー、いやそうじゃないな。話すことが大事なんだよな、これは」
那由は苦虫を潰したような顔をしながら頭を掻いた。
小春とて那由の過去に興味がないわけじゃない。
ただ何も教えてもらえないというのは悲しい。これは透も同じ心境だったはずだ。
「母さんの生い立ちは何というか、生きることに必死だったから記憶も曖昧だし…小春も分かっていると思うが仕事のことで話せることは限られている」
「知ってる」
「だから話せることがあるなら…母さんの好物とか、旅行の思い出話とかになるのか…?」
「…じゃあ、聞かせてほしいことがある」
「おう、なんだ?言ってみな?」
小春の涙を拭くの袖で拭う那由の顔はとても穏やかで、触れる手は心地よかった。
だが反対に泣きすぎて冷静になった小春はもう一つの聞けなかった事が脳裏に浮かんでいた。
そう、小春はつい昨日ご飯の食材を買うために銀行にお金を引き落としに行ったのだ。
「生活費の口座から五万円無くなってたんだけど、いつどこで使ったの」
「ン゙…………」
「これは話せるよね」
「………マカオのカジノ」
「そうだよね」
さっきまで大きく見えていた姿がみるみると小さくなっていく。
やはり生活費に手を出したことに罪悪感があるのか、小春と視線は合わずに右往左往している。
小春と那由には共同の預金口座があり、それは生活費として利用している。
普段、日々の支払いのため小春が管理していた。
「前に生活費はダメって言ったよね、お母さん」
「ちゃんと倍にするから!母さんいっぱい働くからぁ!ごめぇん!」
「反省してるならいいよ」
「というか今する質問じゃなくても良くないかそれ!さっきまでめっちゃ泣いてたじゃねぇか!」
「本当に反省してる?」
「反省してる!それはそれ!これはこれだろぉ!」
「そうだよ。だからそれはそれ、これはこれ」
「ぐぁぁ…!ぐうの音も出ない…!」
前にも那由はやらかしている。
金遣いが荒いがそれで貧困になったり、支払いに困ることは無かった。
だが小春も任務をこなし、報酬を貰ってお金の価値や働くことがいかに大変なのかということを学んだ。
五万が一瞬にして無くなるのはおかしいということも理解できるようになった。
五万あれば一、二ヶ月は仕事をしなくても過ごせる大金なのだ。
それをカジノに注ぎ込んできたと言う。
さすがの小春も外貨交換記録一覧にマカオの文字が刻まれていた通帳を見て青筋を立ててしまった。
小春はため息を吐いて歩みを再開する。
「小春ぅ…やっぱり怒ってるよなぁ…?」
「ちゃんと働いて失った分を稼いでくれたらそれでいいよ。…それにお母さんが私の間違いを指摘するように、私もお母さんの間違いにはこうして言ったほうがいいでしょ。これから先も私はお母さんの娘でいるつもりだからさ」
強ばっていた体が緩み、思わず顔が綻ぶ。
小春の表情が意外だったのか、那由は目を見開いて固まっていた。
そして豪快に笑い、小春の肩を組んで歩き出した。
肩を組みながら千鳥足で歩くせいですごく歩きづらい。
だが那由はそんな小春の顔を見てもなお、機嫌よく鼻歌まで歌う。
(酔っ払いみたい)
小春もまた那由の鼻歌に乗り、朝日が登り始めた秋空の下で歌いながら家へと向かった。




