幸せの鎖 三
大正八年四月十二日、吉原遊郭で産声を上げた男児は禄士郎と名付けられた。
禄士郎の母はかつて華族の令嬢として生まれたが、物心がつき始めた頃には没落貴族の娘として吉原遊郭に売られていた。
没落貴族になることはこの時代においてはそう珍しくない。時代の変化に追いつけない貴族達が篩にかけられただけなのだから。
そして高尾と名付けられた少女は生き残るために磨いた愛嬌と令嬢の頃に身につけた教養や知識で太夫にまで上り詰めた。
男に蝶よ花よと愛でられ、迫られ、高嶺の華となった高尾はある男を愛した。
多くの男を恋に落とすのは容易いものだったが、愛した男と共に温もりを交わしたのは片手を数えるほど。
その数回で高尾は禄士郎を身籠り、生死をかけて産んだ。
だが一度誰かの手垢がついた高級遊女の価値は一気に下がる。高尾とてそれは例外ではない。
そして不運なことに禄士郎を産んだ直後、高尾は流行病にかかってしまった。
早々に高尾は小屋に隔離され、禄士郎は遊女達にたらい回しに母乳を貰いながら育てられた。
本来、遊郭で生まれた子供は女なら将来性を見込まれて育てられるが男だった場合、血筋が高貴であれば後継者争いの火種になりやすいので他所に売られたり、寺に預けられることが多い。
「ダメよ、禄士郎と一緒に居させて。私が稼いだ金なら全部持っていっていい。でも禄士郎はあの人が迎えに来るまで私が守るの」
高尾が禄士郎を産んだ日に婆様に告げた言葉だったそうだ。
もちろん、婆様も簡単に頷くこともせず、高尾の言葉を無視して寺に預けようとした。
だが禄士郎の父親が桃坂家の当主であったが故に知らぬ存ぜぬと簡単に言える相手ではなかった。
吉原遊郭は政府公認のもと運営が許可されている。
故に政界の状況を把握している婆様にとって桃坂の名の意味を理解していた。
こうして高尾と禄士郎は小屋で過ごすことを条件に生きることを許された。
働かざる者食うべからずという言葉があるように、高尾のかつての栄光で生きている禄士郎は遊郭の中では穀潰しでしかなかった。
小屋で暮らすことが条件ではあったが禄士郎も共倒れになっては意味がないということで、禄士郎は遊郭内にある物置部屋で寝食させていた。
朝は食堂から高尾のご飯を小屋まで運び、戸を軽く叩いて入り口に置く。昼間は番頭や婆様から与えられた仕事を行い、仕事が終われば小屋の前に座り込んで高尾の話に相槌を打つ。
それが禄士郎の一日で、当たり前の日常だった。
高尾は毎日にように決まったように、呪いのように、祈りのように言う。
「大丈夫…必ず紀一郎さんが来てくれるから。私達を迎えに来てくれるから」
桃坂紀一郎。それが禄士郎の父親の名前だった。
顔も知らない、声も聞いたことのない、高尾の思い出話でしか知らない父親。
嬉しそうに紀一郎の話をする高尾の声は少女のようにあどけない。
だが病が禄士郎と高尾を扉一枚で阻み、そうだねと相槌を返すしか禄士郎にできることなんてなかった。
そして九歳の迎えた年だった。
その夜は桜が咲き誇り、小屋の窓から舞い込んだ花びらに高尾が小さく声を上げた。
「禄士郎…そこにいる…?」
「いるよ、母さん」
いつものように扉に背を預け、高尾に返事をする。
喋るのも一苦労だろうに今夜はよく喋った。
紀一郎のこと、禄士郎のこと、遊郭を出て三人でどこに行こうか、など。
ふといつもは鳴らない扉が小さく軋む音を立てた。高尾が禄士郎が寄りかかっている扉に体を預けたということ。
「母さん、動いちゃダメだよ。お医者さんが安静にしてろって」
「聞いてちょうだい、禄士郎」
「母さん?」
「あなたは必ず長く生きて私以上に幸せになりなさい…私は禄士郎を産んでこの世界で出会えたこと、家族になれたこと、本当に嬉しいの。ねえ、禄士郎」
「…なに」
「あなたを抱きしめてあげられなくてごめんね。母はずっと愛しているわ、禄士郎」
高尾の最後の言葉だった。
扉のせいで高尾の死んだと確認はできなかったか、それても息子としてこれが最後の言葉というのはわかってしまったのだ。
禄士郎は頬に流れる涙を感じながら必死に声を殺す。
奥歯を噛み締め、口の中に鉄の味が広がろうとも心臓に湧き上がる苦しみや怒りが薄まることはなかった。
後日、高尾の遺体は燃やされ、遺品だけ禄士郎に渡された。
遺品は桃坂家の家紋が刻まれた鍔と万華鏡だった。大事にしていたのか、その二つは汚れもなく綺麗なままだった。
禄士郎は高尾を燃やす炎が消える瞬間まで見守り続けた。
足の痛みなど感じなくなるほど立ち続け、空へ立ち昇る煙を眺めていた。
そんな中、一緒に立ち会った婆様が禄士郎に問う。
「高尾が死んだ今、オマエには価値がなくなった。迎えが来る見込みもない。無一文のお前はこれからどうするんだい」
「ねえ婆様、幸せになるにはお金が必要なんでしょ?」
「人の幸せは十人十色だが、大抵の場合は金で買えるものばかりさね。ここがまさしくそういう場所じゃないか」
「俺を面人衆として雇ってよ」
「…オマエに人が殺せるのかい?ガキの我儘を聞いてやるほど甘くないよ」
「母さんは生きて幸せになれって言ったんだ。俺が生きていればそれでいい。他人なんてどうでもいいよ、気持ち悪い」
強勢でも意地でもなんでもない、禄士郎の本音だった。
この箱庭がどういう場所なのか理解していた故に生まれた自分ものうのうと生きる他人も気持ち悪くて仕方がなかった。
高尾に心労をかけたくなくて遊郭内では上手くやっている話をした。部屋を貰い、不自由がない生活をしていると。
全部、嘘である。
寝食は使われていない物置部屋の隙間。番頭達にご飯を取り上げられたり、虫を入れられる。食堂の人たちに頭を下げて高尾のご飯を作らせてもらったり。
来ることのない父親の話を何度も聞いては優しく頷き返す。頷くたびに憎しみが降り積もる。
「その言葉忘れるんじゃないよ」
高尾が死んだ次の日から禄士郎は狐の面を付け始めた。
面人衆は暗殺、死体処理を行う吉原遊郭の中でしか機能しない部隊で子供から大人までの五人から六人で少数構成されている。
法に触れる行いではあるが政府の公認であれば闇へと葬ることができた。むしろ政府や貴族、商人からの依頼が殆どだった。
遊郭で殺される人間は逃げようとしたり規律を破った遊女か金と権力を蓄えている人間の二極でしかなかった。
面人衆の一人になった禄士郎の日々は大きく変わった。
素顔を人の前に晒さなければ食事は好きな時に食べることができ、他人は禄士郎を気味悪がって寄り付かない。
音羽や婆様を除けば、禄士郎に関わろうとする人間なんていない。
依頼で対象を斬り、死体ができれば葬儀屋に渡したり自分たちで処理することもある。
その分だけ報酬の額は大きく、禄士郎は着々と幸せを買うためのお金を稼いだ。
吉原遊郭を出て行こうと決めた十二歳の夏、禄士郎は最上階にある部屋の一室に呼び出された。
婆様に通された部屋には男が座っていた。
髪を後ろに撫で付け、黒く虚空のような胡乱な瞳は紫の珠が装飾されている簪をずっと眺めている。
「禄士郎、面を外してオマエが持っている鍔を見せてやりな」
禄士郎は言われた通りに面を外して懐から遺品の鍔を取り出した。
すると男は勢いよく顔を上げ、幽霊でも見たかのように目を開かせた。
そして畳から立ち上がり、壊れ物でも扱うかのように禄士郎の頬に触れた。
その距離の近さでようやく禄士郎は男の顔が全て見えたのである。
男は自分に似た顔をしていた。
「店主、この子は連れて帰る。いくらでも金は出す」
「お高くつけさせてもらいますよ、紀一郎様」
この日から禄士郎は桃坂禄士郎になった。
ーーー
「重い重い重い。聞かなきゃ良かった」
「やだなぁ、聞いてきたのそっちじゃん」
横目で禄士郎は壁に掛けられた時計を見る。
時刻は花魁道中が始まる十五分前だった。寝る暇もなく、話をしただけで時間は簡単に潰れてしまった。
禄士郎は体を起こし、気怠い体をほぐす様に伸びをする。
奏多もまた腰にベルトを巻き、刀を装着させながら口を開く。
「そうだけどさぁ…お兄さん、前世で何したんだよ」
「ねー、何したんだろうねぇ?」
「絶対続きも碌なものじゃないだろ。話だけで胃もたれしそう」
猿の面を付ける前に禄士郎に向かって奏多はおえーと舌を出した。
そんな反応が小春以来の新鮮さで、禄士郎の加虐心をくすぐる。
「ちなみに俺の過去は兄さん以外には君が初めてだよ」
「やめろよそういうの!もっと話すべき相手がいるだろうが!」
「こんな話、おいそれと誰にもできないでしょ」
「聞いてほしい相手くらいいるだろ。恋人とか」
どうにも奏多は的確に人の心を殴る才能がある。
少し突いただけで奏多の何気ない大きな一撃が禄士郎の心に傷を与えた。
心を殴られた反動で脳裏にいつもの眉を顰めた顔の小春が浮かぶ。言えるわけがない。
身辺調査やら會澤透のことで小春の生い立ちを知っている禄士郎に対してもしもあなたも話せ、なんて言い出したとしても禄士郎は話さないだろう。
ようやく巡り合えた『幸せ』を壊したくはない。小春にだけは嫌われたくないのだ。
「恋人がいたとしても話さないよ」
「あっそ。大変だな、お兄さん」
「よく言われる。さてそろそろお仕事の時間だ。頑張ろうね、奏多くん」
「はいはい。お兄さんもヘマするなよ」
禄士郎もまた面を被り、思い出がある小屋を出る。
秋の風が禄士郎の髪を撫で、青空に広がる雲を運んでいく。
込み上げる懐かしさを押し殺し、柄を指でなぞった。




