第十幕 幸せの鎖
吉原遊郭は夜に目覚め、朝に眠る。
かつての禄士郎も夜に起きて、朝に眠る生活を送っていた。
遊郭にいる遊女と違う点を挙げるなら夜に起きて『人を殺して』朝に眠る、ということだろう。
もちろん、母親の腹から産み落とされてすぐにそんな生活だったわけではない。
高級遊女であった母親が死に、禄士郎の存在価値が下がってから人を殺して生きながらえるという生活に変わった。
そして今、禄士郎は一日の始まりを告げる朝日を横目に吉原の門の前に立っていた。
禄士郎は門番に持っていた手紙を読ませ、難なく吉原の門を通る。
本来、吉原遊郭の敷地内に入る時、普段から金を積んでいる常連かそれ相応の前金を払わないと入ることは出来ない。
「音羽さんが言ってた桃坂の旦那か。奥に行けば婆様がいるぜ」
「どうも」
「なあ旦那、聞いたんだがあんたって元はここで面人衆してたのは本当かい?」
禄士郎が金を積まなくても通れる理由。
今、門番が言った事が半分正解だ。
だが世の中には知らなくてもいいことは沢山ある。禄士郎の過去もまた同様に。
人の口に戸は立てられない、本当に面倒な生き物である。
横で薄ら笑いを浮かべる門番が真相を知ったところで禄士郎にとってはどうでもいいのだが、響介に迷惑をかけたくはない。
「どうせその顔なら女共に可愛がってもらったんだろう?どうなんだい?」
刹那、男の脂が滲んだ低い鼻先に禄士郎が腰に帯刀していた刀の刃が当たる。
もちろん、抜刀したのは禄士郎だ。
軍学校に通い出して斬る相手が妖の割合が多くなったとしても、禄士郎にとって人を殺すというのは日常の一部であった事実は変わらない。
ここで門番を殺すことは簡単。面人衆の仕事もまた人を暗殺し、闇に葬り去ることだったのだから。
だがその後の処理や響介に怒られることを考えると脅しに留めておくのが一番無難だろう。
「やめな、禄士郎」
半分開いた門からしゃがれた声が通り抜ける。
この声を聞いたのは五年ぶりだったが、相変わらず健全で自然と禄士郎の口角が上がる。
門から現れたのは吉原遊郭を束ねる店主、婆様が顔を覗かせた。
皺は刻まれているが老婆とは思えないほど背筋が良く、かつて吉原遊郭大看板の太夫だった名残が残っている。
婆様は手に持っている煙管を燻らせ、煙と共にため息を吐く。
「ここも最近は人手不足で困ってるんだよ。勝手に殺してくれるな」
「まさか。殺さないよ。でももっとマシな奴を雇ったら?」
「随分生意気になったもんだねぇ。綺麗なおべべを着せてもらって一丁前に恩人へ意見を言ってやろうってかい?」
ニヒルに笑う婆様の視線は禄士郎の衣服へと注がれた。
昔から婆様は客を衣服や仕草から乗客になり得るかと判断する。
それを知っていた禄士郎は動きやすく、尚且つ婆様が納得する質の良い背広を香山に仕立ててもらったのだ。
ちなみに背丈が伸びていたようで、採寸していた香山に泣かれたのは新しい思い出だ。
「綺麗な坊ちゃんになったとて俺は変わらないよ。それともあの頃のように黙って人を切ってあげようか?」
「そうさね、ここに入るならその生意気は出さずに黙って仕事しとくれ」
禄士郎は刀を納め、婆様と共に婆様と門を通る。
後ろで門番が腰を抜かしていたが、禄士郎は少したりとも目もくれなかった。
「分かっていると思うがあくまで護衛であって殺しは控えな。綺麗なおべべを血なんかで汚すんじゃないよ」
禄士郎が再び吉原遊郭に足を踏み入れた理由は別にあった。
それは門番に見せた手紙だ。
手紙の主は禄士郎が吉原遊郭で面人衆として生活していた頃、同い年の友達として接してくれていた音羽からだった。
内容というのも身請け前に念願の花魁道中を行うからその間だけ護衛をして欲しいとのこと。
母親が流行病で死んでからずっと禄士郎に話しかけてくれていた禿が今では立派な太夫となり、地方の大商人の妻となるとは。
手紙を貰ったのは半年前、まだ軍学校の入学を控えていた時期だった。
音羽から手紙だと裏付けができても禄士郎は断ろうと思っていた。
「禄士郎、これ着けな。いいかい、アタシ以外の前で面を取るんじゃないよ。オマエの顔はここにいる女からすれば毒にだからね」
「言われなくても」
禄士郎は婆様から渡された面は安物の鬼の面だった。
赤黒く、角の代わりに下顎の歯が鋭く突き出ている。
「鬼て。婆様なりの文句なの、これ?」
「いや?選んだのは音羽さね」
「音羽からの恨みってことかな…」
「それから言っておくが音羽の前でも面は取るんじゃないよ。今回の花魁道中だってあの子がヘソクリを出さしてこなきゃやらなかったんだから」
「へぇ、金を積んで婆様を納得させたわけだ」
「いいかい、音羽は身請けが決まってもうオマエへの恋心を殺したんだ。余計なことすんじゃないよ」
音羽がわざわざ禄士郎を呼んだ理由は推察することしかできないが大方予想はついていた。
禄士郎が面人衆であった頃、音羽は友達のように禄士郎に話しかけ、面倒を見てくれていた。禄士郎もまた音羽を拒むこともしなければ、深く関わろうともしなかった。
ただ禄士郎にとって音羽は遊郭の中で都合のいい友達だった。
だが音羽はそうではなかった。
いくら友達だと主張しても目は口ほどに物を言う。色恋が日常の箱庭で生まれ育った禄士郎は恋に落ちる人間を嫌になるほど見てきた。
音羽は禄士郎に恋をしていた。
出ていく最後まで口に出さなかったが禄士郎も婆様も分かっていた。
「気をつけるよ。それに音羽の護衛が終わったらすぐ帰る」
「そうしとくれ」
禄士郎は面を被り、紐をきつく縛る。
視界が狭まるが完全に不利になる訳ではないし、何かあっても妖術でどうにかできる。
なんて思いながら禄士郎は高く聳え立つ遊郭を仰ぎ見る。
禄士郎が音羽の護衛の頼みを聞きいれたのは面倒を見てくれた恩を返すためだ。
(小春にバレるとかシャレにならないしね)
小春には人を殺しているところを見られたくもなければ、笑い話にもならない過去も知られたくない。
「で、音羽はどこに?」
「最上階。そろそろ準備が終わる頃合いだと思う頃だろうさ」
店内は嵐の前の静けさで禿達が姉遊女のために食事や衣服を持って忙しなく往来している。
禄士郎と婆様が気になるらしいが声をかけては来ない。変わりに小さな耳と口を互いに寄せ合って話している。
そんな少女達を無視して上へ昇るエレベーターに乗り込む。
気だるそうに婆様が煙管を咥えながらレバーを下ろした。
エレベーターはゴトンゴトンと大きな音を立てて禄士郎達を上の階へと運ぶ。
上の階に行くほど遊女の位も高くなり、遊女の価値も高くなる。
程なくしてエレベーターは最上階に辿り着き、禄士郎を誘うように扉が開く。
婆様の後に続きながら、音羽の扉の前に立つ。
漆塗りが施された扉には百合の花が描かれ、選ばれた者しか入れることが許されないと主張しているようだった。
「音羽、禄士郎を連れてきた。入るよ」
婆様はその扉を両手で開け、下駄を脱いで部屋に踏み込む。
禄士郎もまた靴を脱いで部屋に入る。
だが部屋の真ん中で禿達に爪紅を塗ってもらっている音羽にそれ以上、一歩たりとも近づかなかった。
その事に気づいたのか、禿から目線を外した音羽は苦笑しながら禄士郎を見た。
「久しぶりね、禄士郎。もっと近くに来たら?」
首を小さく傾け、黄金に輝く簪を鳴らす。
白を基調とした着物には炎を纏う鳳凰が刺繍されており、目尻と唇には鳳凰と同じ紅色が添えられている。
色気を孕んだ遊女ではなく、嫁ぐ花嫁ような美しさがそこにはあった。
「久しぶりなのに悪いね。今の俺にはこの距離が必要なんだよ」
本来、花魁道中は遊郭を宣伝する意図や太夫達のお披露目として行われる。
だが今回、音羽が行う花魁道中は今後有り得ることの無い花嫁行列のようなものだ。
花魁道中を夢見ていた音羽の最初で最後の大舞台。最近増えた誘拐犯達に邪魔されぬように禄士郎が呼ばれた。
すると音羽は鈴の音のように笑う。
「もう私は禄士郎に恋してないわよ?むしろ逆。綺麗になった私を見せつけたくて呼んだの」
「そうだろうね」
「あら、知ったふうな口をきくのね。………え、嘘でしょ?あなたまさか」
「つまりそういうこと」
「禄士郎…あなたって誰かを好いたりするのね…」
「俺も人間だったみたい」
「最悪。これじゃあ意味ないじゃない」
爪紅を塗られながら音羽は頬を膨らませた。
いくら時が過ぎ、綺麗な女人になったとしても仕草一つ一つが禄士郎が知っている音羽のままだった。
(意味がないわけじゃないんだけどな)
少しずつ小春との距離を縮めている禄士郎だが異性としての意識ではなく、人としての信頼故の結果であるということに悩んでいる真っ最中だ。
そんな状況でかつての友人が幸せに嫁入りするのを見るのは複雑な気持ちになる。
「でもまあ私、綺麗になったでしょ?」
「うん。綺麗になったね、音羽」
「…ふふっ、その言葉を聞けただけ充分だわ」
綺麗になった。それは禄士郎の本心だった。
女は化けるというが本当にその通りだ。容姿も中身も見知らぬ間に化けて成長する。
音羽が嬉しそうに微笑むように小春にも綺麗だと言えば微笑んでくれるのだろうか。
(…小春に会いたい)
音羽の部屋にいる理由が無くなった禄士郎は音羽に背を向け、部屋を出ようとした。
だが出ていく禄士郎に焦るように音羽が声を上げる。
「禄士郎!私の姿、友人として見てね!最後の約束よ!」
「もちろん。友人として見届けるよ」
そう言って禄士郎は婆様と一緒に部屋を出た。
きっとこれ以上、音羽と言葉を交わすことなどないのだろう。




