融解熱 二
早朝、自宅の居間にて小春は目を覚ました。付け加えるなら首筋の痛みで。
差し込む朝日に唸りながらゆっくりと体を起こす。
床には脱ぎ捨てられた軍服のジャケットとベレー帽、靴下。卓袱台の上に散乱した任務用の携帯簡易食のゴミと空のグラス。そして痺れる足。
昨日の帰ってきてから記憶を呼び起こし、なぜこうなってしまったのかを考える。
(そうだった…ご飯を作るのもめんどくさくて学校で配布された簡易食を食べて、そのまま寝たんだった。仮眠して風呂どころか、朝日昇ってるし)
体力も精神も削られた任務から安心する家に帰ってきたことで緊張の糸が解けたのだろう。
おかげで頬には机に突っ伏した跡が綺麗に残っていた。
座ったままの体勢で寝たせいで体を動かそうとすると節々が痛くて錆びついたブリキのような動きになる。
「…風呂、入ろ」
それでも脱ぎ捨てた衣類を拾い上げ、のそのそと重い足取りで洗面所に向かう。
洗濯機に軍服と下着、適量の洗剤を放り込み、運転開始ボタンを押す。
仕事をする洗濯機の音を聞きながら小春はシャワーの蛇口を捻った。冷房で冷えた体がお湯の熱でほぐれていく。
本当は湯を溜めて湯船に浸りたかったが今日の夜にしよう。そう心に決めて小春は汚れていた髪や体を洗う。
(ご飯は冷蔵庫に何か…いや、何もなかった気がする)
シャワーを止め、浴室から出る。
そこからはいつも同じように安物のドライヤーで髪を乾かし、歯を磨いて下着を着る。
冷蔵庫の中を確認したが案の定、食べ物はなく、冷えた果実水しかなかった。ちなみに凉斗のお手製である。
果実水を乾いた喉に流し込みながら冷蔵庫に張り付けていた千子から貰った透の名刺を剥がす。
名刺には日談新聞社の所在地も記載されている。
(訪ねるならここだよな)
会う約束も取り付けていないのに社長に会うことは叶わないだろう。
故に会う覚悟を決めた小春は休みである今日に面会の予約をしに行かなくてはならない。
さすがに会社の中で娘だと叫びまわる愚行だけはしたくはない。
ぼんやりと日談新聞社の最寄り駅をニシキで調べながら化粧水で洗った肌を整えていく。
そして余所行きの洋服を着て、いつものお世話になっている軍服を物干し竿に掛ける。晴れている今日なら乾くのもすぐだろう。
「…よし行くか」
簡単な化粧を終わらせ、家の扉の鍵を閉めた。
腹が減っては戦はできぬという言葉があるように、果実水しか入っていない腹では新聞社までたどり着けない。
腹の虫が鳴り止まなかった小春は純喫茶ほるんで空腹を満たしたのち、新聞社がある本郷へと向かう電車に揺られていた。
電車の中では手を繋いだ親子が笑い合いながら流れていく景色に指をさす。
その横顔が小春には眩しく尊いものに見えた。
今更たらればを考えたところで現状も過去も変わることもない。
(そういえば最後にお父さんと手を繋いだの、いつだっけ)
手を繋いだ記憶はある。
だがそれがいつの記憶だったかは思い出せない。むしろほるんの前で偶然再会するまで小春は透の顔も朧げだった。
再会するまで小春はもう二度と透と再会できないと思っていた。故に無意識に透との思い出に蓋をしてしまっていたのかもしない。
(…お母さん、怒るかな)
小春もまた流れてゆく景色に視線を移す。
凉斗と凉斗父の話しが本当なら那由は小春と透を引き合わせたくなかったことになる。
その意味に確証は持てないが、那由は透に対して良い感情を思っていなかったことは分かる。
すると車内に到着のベルがけたましく鳴る。
小春は駅に降り立ち、改札を通った。
そしてニシキを起動して、会社までの道順が示された地図を映し出す。
迷わなければ会社までは徒歩十分ほど。小春は持ってきた日傘しを開き、一歩を踏み出した。
(私はもう守られる子供じゃない。むしろ立場的は守る側だしな)
夏の暑さはまだ続いているが終わりが近づいているのか、吹き抜ける風が少し冷たい。
ニシキによる道案内の指示に従い、迷いなく日談新聞社に着いてしまった。
歩いている最中は何も感じなかったのに、いざ着いてしまうと妙な緊張感が体を駆け巡る。
そうは言ってもここまで来てしまったのだ。なら覚悟を決めて中に入るだけ。
小春は一つ深呼吸をし、日傘を閉じて社内に入った。
扉一つを挟んで社内は随分と慌ただしく人々が行き交い、煙草の煙が立ち込めていた。
怒号や謝罪の言葉、笑い声が混ざり合い、まるで戦場にいるようだ。
そんな光景に呆然としていた小春に気付いたのか、栗色の背広を着た男が受付のカウンターから顔を出す。
「お嬢ちゃん、新聞社に何用だい?面白いタレコミならいい値で買うぜ」
「會澤社長に会いたくて参りました。もし今日は不在でしたら会う予約をしたいのですが」
「ん?お嬢ちゃん、社長の知り合いか?それとも恋人かい?」
「いえ、娘です。霧崎小春とお伝えいただければわかっていただけるかと。それで予約なんですけど」
「はあ!?社長の娘ェ!?」
男の叫び声が響いた後、騒がしかった社内は一気に静まり返った。
誰もが手を止め、小春を見た。
(…まあ、いきなり娘と名乗る人間が現れたら困惑するよな)
追い返されるかもしれないと出そうになったため息を呑み込んだ刹那、驚嘆の叫び声があちこちで巻き上がった。
ある者は手を叩いて笑い、ある者は小春をまじまじ見ようとカウンターに身を乗り出し、ある者は奥に個室に駆け込んで行く。
あちこちで「娘だ!?」「娘ぇ!?」と新大陸でも見つけた開拓者のように声をあげている。
小春は徐々に自分の脈が早くなっていることに気づき、今すぐにでも社から出たくなった。
自分は娘だと喚くなどという愚行はするまいと思っていたが、まさか社員にされるとはこれっぽちも思っていなかった。
(どうしよう、帰りたい)
新聞記者というのは日頃から特種を虎視眈々と狙っている。それが仕事だからだ。
そんな彼らに餌を投げてしまった小春が悪いのだが、カウンター越しに質問攻めされるのはなんとも言えない気持ちになる。
なるほど。これがカメラを向けられる有名人の気持ちなのか。
小春は男達の質問に答えることなく、責任者が出て来るのを待った。
「お前たち、仕事はどうした?」
「げ、社長…」
「社長どういうことっすか!?」
「社長にこんな可愛い娘さんとかありえないんですが!?」
「今すぐ持ち場に戻らないとクビにするぞ」
小春の判断は正しかったようで責任者というか、本人である透が足早に現れた。
透に抗議しながらも社員たちは各々、仕事机に戻って行く。
突き刺さっていた好奇の視線も消えていき、新聞社の日常に戻っていった。
「小春、社内はうるさいから外に出よう。近くに喫茶店があるからそこに行こう」
ぼんやりとしていた小春にそう声をかけ、透はぎこちなく外に出るように促す。
(喫茶店…いや、間違いではないけど)
本来なら小春のような若者が使う洒落た横文字を使うのかと妙な心地になりながらも小春は大人しく頷いた。
するとカウンター向こうから前に見かけた秘書らしき男が身を乗り出した。
「社長ー!午後の予定までにはお戻りに、むぐっ」
「バッカ!お前!」
「水差すなこのドアホ!」
「おめえに人の心はないのか!?」
「午後の予定くらいお前一人で行ってこいぼけ!」
秘書は他の社員に口を塞がれ、カウンター向こうへと引き摺り下ろされた。
社員たちが秘書をカウンターから引き摺り下ろす光景に小春は口を開けて呆然とするしかなかった。しかも引き摺り下ろした社員達はすみませんねぇ、とヘラヘラと笑いながら秘書を拘束するものだから恐怖でしかない。
一応、透の顔を見たが透もまたこめかみに手を当てていた。随分と愉快な部下に囲まれているらしい。
取り押さえた社員たちは小春たちの心境など気にせずに、「ごゆっくりー!」と大きく手を振って秘書を奥の部屋に連れて行った。
「…ごめんな、小春。外に出ようか」
「は、はい…」




