訓練 四
結界を破ったのは吾妻中尉だったようだ。
小春は慌てて立ち上がり、敬礼をする。
さすがに話の内容を聞かれてはいないと思うが、さすがに相手が中尉なだけに冷や汗が流れ始める。
「授業をさぼるとはいい度胸だなお前たち」
「疲労が癒えない中で勉強しても効果はないかと思って」
吾妻が目の前に来ても禄士郎は座ったままで敬礼をしようとはしない。
美味しいクッキーを食べたが、その幸せを打ち消すくらいの胃痛が小春を襲う。
「霧崎、敬礼はいい。今回ばかりは桃坂の言うことがあっていると言える」
吾妻はチラリと小春の骨折している腕を見ながら言う。
表情は何も変わらないが労わる気持ちはあるようだ。
小春は吾妻の言う通りに恐る恐るベンチに座り直した。
「私は霧崎に礼を言いにきたのだ」
小春は首を傾げた。吾妻に感謝されるようなことが思い当たらないからだ。
隣で座っている禄士郎も不思議そうに小春を見ているが、その視線に首を振って返す。
むしろほとんど任務に出向いていて吾妻と接する機会は他の同期より少ないと言うのに。
「千田千子は私の婚約者、といえば分かるか?」
「あぁ…ええ!?吾妻中尉が千子さんのダーリンだったんですか!?え、吾妻中尉が千子さんのダーリン!?」
「間違いではないが、まずダーリンと連呼するのはやめなさい」
驚愕する小春の隣で禄士郎が背を向けて笑っている。
確かに千子は白夜軍内にダーリンがいるとは言っていたがこんな身近にいたとは。
(世の中狭ぁ…)
声を殺して震えて笑う禄士郎を無視し、小春に対して吾妻は頭を下げた。
あまりにも驚愕の行動に小春は声にならない悲鳴を上げて立ち上がり、禄士郎の笑いも止まった。
「吾妻中尉!?私に頭を下げるのはやめてください!?」
「これでも足りないくらいだと思っている。霧崎が千子を守るという判断をしてくれなければ千子は死んでもおかしくなかった」
「一般市民を守るのも白夜軍の義務ですし…!それに側で守っていたのは私ではないです、だから私に礼なんて…!」
「千子は私にとって大切な人なんだ。守ると判断した恩人に対して礼を言うのが筋ってものだろう」
小春は慌てることしかできなかった。
感謝されることは嬉しい。だがそれ以上にこの状況を他の誰に見られてはいないか、なんて答えればいいのかと頭がぐるぐるする。
すると隣にいた禄士郎が小春のジャケットの裾を引っ張る。
そこから微弱な妖力が流され、禄士郎が直接思念で語りかけてきた。
(落ち着いて小春。吾妻中尉殿は困らせたい訳ではないと思うよ)
禄士郎が向けてくる眼差しを小春は知っていた。
かつての幼い日に言葉をくれた八虎と同じ眼差しだった。
『感謝をきちんと受け取りなさい』
小春は小さく息を吐き、頭を落ち着かせる。
感謝を受け取ることは悪いことでは無い。ここで自分自身の行いや吾妻の礼を否定することこそ失礼だろう。
「まず礼を受け取る前に確認させてください。千子さんの目の容態はどうなっていますか?事件の後、大阪の医者に見てもらいましたけど異常はありませんか?」
「それは大丈夫だ。今は目を正しく扱う訓練をしている最中だ。それに本人も日を改めて霧崎達の元へ礼を言いに行くと言っていた」
そう言って顔を上げた吾妻の顔は笑みが浮かんでいた。
堅物で有名な吾妻を笑わせることができるのはもしかしたら千子だけなのかもしれない。
そんな千子を助けたという事実が小春の背中をむず痒くさせた。
「私としては当然のことをしたので礼を言われるのは奇妙な感覚なのですが…でも千子さんがちゃんと生活を送れているのであれば私はそれで充分です。境にいた時はずっと目隠しを強いられていましたから」
「一応彼女も彼女なりに反省はしているようだ。今は執筆に集中している。代え難い経験を得たと言っていたな」
確かに境で療養している時、隙あらば部屋を訪ねて妖のことや事件について真剣に聞いてきた。
ただ小春としても話せること話せないことがあるので言葉を選んで話していたが、小春に質問をしている時の千子は職人のような顔つきだった。
普段は活力に溢れ、口が止まることを知らない女性だが作り出す作品に対しては誰にも譲れないものが確かにあるように見えた。
「話は以上だ。午後からは上級生との合同訓練がある。それはサボらないようにな」
それだけ言うと吾妻は背を向けて立ち去った。
張り詰めていた緊張が解け、力なく座り直す。
軍学校に入学し、実際に紬師見習いとして任務に出てから自分を見つめ直す出来事がたくさん起きている気がする。
今の吾妻からの礼だってそうだ。
禄士郎に言われるまで八虎からの言葉を思い出せずにいた。あの頃から何も変われていない。
自分の行いに自信が持てず、他人のからの感謝をうまく受け取れない。
「自己反省はそこまでにしたら?一度考えるとキリが無くなっちゃうよ」
禄士郎は人差し指で小春の頬を優しく突きながら言う。
「そういう風に見えましたか?」
頬を突く手を振り払う気力もなく、受け入れなが聞き返す。
仏頂面が染み付いていると思っていたが、他人から見たら案外そうでもないらしい。
「小春は意外と顔に出やすいから。それに小春はよく自己反省してるよね。でもやりすぎは心に毒だよ」
頬を突いていた人差し指は小春から離れ、禄士郎自身の胸を指した。
「ね?」
「…はい、気をつけます」
「うんうん。じゃあ話は終わり!訓練まで時間あるよね?少し眠るから時間になったら起こしてくれる?」
「かしこまりました。おやすみなさいませ」
満足気の禄士郎はそう言って腕を組んで静かに寝始めてしまった。本当に気ままな人だ。
だがそんな禄士郎の態度は小春にとって羨ましくもあった。
きっと禄士郎に思われる人はこんな温かい幸せをずっと噛み締めることができるだろう。
どんな人に巡り合い、愛され、思われたらこんな熟成された蜜ような人が生まれるのだろうか。
少しだけ。ほんの少しだけ。
(あなたを知ってみたい)
小春は少し顔を上げ、風に流れる雲を眺めた。
きっと流れた雲は梅雨を連れてきた後、積乱雲を見せてくれるのだろう。




