訓練 二
壁から顔を覗かせた禄士郎だった。本来なら授業に参加しているはずだがそれを指摘するとこの後サボれなくなってしまう。
なので禄士郎がここにいることに小春は目を瞑る。
授業にも参加せずに小春を出待ちしていた禄士郎は苦しそうな表情を浮かべていた。
苦しそうな表情の理由は小春の怪我と傷だろう。
確かに禄士郎とコンビを組んでから怪我をすることはあれど、骨折や目に見えてわかる傷は初めてだった。
そもそも憑依術式自体、今回の任務で初めて実戦したのだ。骨折や多少の傷で済んだだけマシなのである。
(私としては禄士郎様に怪我ないならそれでいいんだけど、それで納得する人じゃないんだよなぁ)
まだ奉公先である桃坂家には正式に出仕してはいないが、小春と禄士郎は主人の弟君と使用人という関係だ。
こうして気を遣われるのは本来なら稀であり、小春としても対応に困る。
「ごめん、俺のせいで」
「怪我のことは仕方の無いことです。むしろ命あって禄士郎の紬師としていられるのは禄士郎様の力あってこそです」
「…そうじゃないよ。確かに今回初めて憑依術式を使って命があるだけマシなのかもしれないけど、それでも小春は怒っていいんだよ」
「………それもそうですね。私は禄士郎様ほど頑丈ではないので怪我をしたらすごい痛いんですよ。今後憑依術式を行う際は丁寧に戦ってください。じゃないとコンビ解消します」
小春の言葉に反省するどころか、壁から顔を出して目を輝かせている。
以前から小春が怒ると反省はすれど桃色の瞳が嬉しいそうに輝いていたことは気づいていたが、よもやここまで特殊性癖だったとは。
「怒ってるんです。喜ばないでもらってよろしいですか、禄士郎」
「そ、そうなんだとけど、小春に怒られるとやっぱり嬉しくて安心するんだ」
「性癖暴露は他所でしてください。あと、次の実技訓練まで私は裏庭にいますので何かありましたらお呼びください。それでは」
「待って!俺も行く!ジャムクッキー作ってきたから!」
「…ほぅん、なるほど」
刹那に湧き上がった食欲と既存していた怒りの感情が混じりあって変な返答になってしまった。
妙な返答をした小春とは反対に機嫌が戻った禄士郎は後ろに隠してあったクッキーが入った包み袋をを取り出す。
丁寧にリボンでラッピングがされており、それを笑顔で見せる姿は小春より断然愛らしい。
謎の敗北感はクッキーのお陰でどこかへ行き、小春の瞳はクッキーに魅せられてしまった。
袋の中でジャムが鮮やかにクッキーの魅力を引き立てている。
(意地の張り合いしてもしょうがないしな)
いらない意地の張り合いで微妙な空気が流れるのは幼い頃に涼斗との喧嘩で経験済みだ。
「それじゃあ、クッキー持って」
「え、あ、はい。かしこまりました」
禄士郎のお願いに困惑しながらも右手で預けられたクッキーを持つ。
刹那、禄士郎は手を鳴らし、小春と自身を囲うように妖力を円状に地面へと流した。
描いた円から妖力の霧を生み出していく。
「禄士郎様、これは一体…?」
「移動術式だよ。この間ようやく習得したんだ」
「なら大阪までこれで来てくだされば良かったのでは?」
「さすがにそこまでは無理だね。せいぜい、ここから裏庭程度の距離が限度かな」
霧は視界と小春達の体を覆う。が、それもほんの数秒。次に視界が開けた時にはそこは見慣れた裏庭の景色だった。
いつものベンチに座り、膝の上に包み袋を置く。
数日前までは命が羽よりも軽い戦場で戦っていたと言うのに、今は澄み渡る青空を眺めている。
もうすぐ帝都に夏が訪れようとしているのか、吹く風がどことなく暑い。
またこうして無事に夏を迎えることができるのは奇跡なのかもしれない。
小春は大旦那や魔女のことを思い出し、一人心の中で何度も頷く。
「クッキー食べながら聞いて欲しいんだけど」
そう言いながら禄士郎も隣に座り、包み袋を小春から取り上げて開封する。
そしてそのままクッキーを掴み、小春の口元に寄せた。
至って禄士郎の表情は穏やかだが、対してクッキーを差し向けられた小春の眉間には皺が寄せられている。
動作があまりにも慣れていて待ったをかけられなかった。
何故、禄士郎が小春に対してクッキーを食べさせようとしているのか。
クッキーが口元に運ばれたことに疑問を抱くことが悪いのか、主従関係を理解していない禄士郎がおかしいのか。
「禄士郎様、話をする前にまずこの手を引いてもらえませんか?クッキーくらい一人で食べれます」
「でも怪我させたのは俺だから、ね?手伝わせて」
「駄目です。今は完全な主従関係でないから大丈夫、なんてこと思ってませんよね?」
「思ってるけど。あ、でも小春が正式に桃坂家に奉公に来たら弁えるさ。…それはそれとして俺ができることや差し出せるものは全て小春にあげたいんだ。今はそれが俺の幸せでもあるからね」
何がそれはそれとしてだ。この男はすぐ矛盾を吐く。
もしかしたら主従関係を理解してない後者なのかもしれない。
「新手の脅しですか」
「脅しじゃないよ。もし兄さん達に何か言われたなら俺のせいにして」
「その割には随分嬉しそうですね。反省してますか?」
「かなりしてる、本当に。次はもっと上手くやるから」
そう言いながら禄士郎は再びクッキーを小春の口元へ運んだ。
この男は乙女の心を通り魔のように突き刺す。
美しい顔と耳から離れない声で全てを差し出したい、なんて言われたら乙女はたちまち化け物へと変貌するのだろう。
だが相手は小春だ。差し出すと言われても生きていけるだけの給金がもらえれば充分。
ふと差し出されたクッキーに疑問を持つ。これは給金以上の欲なのではないか、と。
とりあえず菓子かご飯を貰うことをコンビとしての条件にしたがもたらされる美味な料理を楽しみにしている自分もいる。
というかコンビになることは元々決まっていたことだ。
(あれ?これって私の方が悪か…?)
客観的に見れば小春が響介の知らないところで要求してるに変わりない。
不躾なのは自身ではないのかと改めて焦りが生まれる。
だとしても食べさせることを要求した覚えはない。
「好みじゃなかった?」
頭の中でぐるぐる考えていると禄士郎は不安そうに小春の目を見つめた。
食べ物に罪はない。そして食べたいという欲求も生きる上での自然の摂理だ。
本人も自ずと食べ物を差し出してくれている。
などと並び立てて小春は差し出されたクッキーを口に入れた。
最初にハンバーグを受け取った時点で響介にお叱りを受けることは確定していた。ならもういいか。小春は諦めた。
「どう?美味しい?」
「美味しいです」
禄士郎は嬉しそうに頬を染めて笑う。
白桃のジャムの柔らかな甘みがバターが香るクッキーと混じり合って小春の心を満たしていく。
バターはこのご時世、高価で貴重な食材だと言うのに。
小春は人が作った料理が好きだった。一人で大きな台所に立つ寂しさと作っても食べる人間が自分しかいないという現実を幼い頃の小春がうけいれられなかったことが大きな理由だ。
だからこそ当時は必ずと言っていいほど凉斗と一緒にご飯を食べていたし、凉斗の家に通っていたお手伝いさんが作るご飯が好きだった。
(なんて言ったら余計に持ってくるお菓子を増やしそう)
言えない心の声なんぞつゆ知らず、嬉しそうに禄士郎はクッキーを頬張る小春を眺めている。
そしてひとしきり見て満足したのか、真面目な顔つきになり、妖術を発動させた。
これから話す内容を人に聞かせるのはまずいからだろう。発動した術は遮音術だった。




