愛、以上のもの 四
「大旦那様、境が焼け野原になっても良いのですか?」
「知ったことか。那由が家族のために儂に会わないと言った日から境なんぞどうでも良いわ」
パチン、と扇子を閉じて大旦那はその歪んだ笑みを表す。
小春の喉が掠れた音を鳴らした。
まるでその刹那、本来の妖と人間の関係を見せつけられているようだった。
相容れない存在がそこにはいたのだ。
「ならば娘のお前が死ねば那由がここに来るかもしれぬじゃろう?」
例え人間の姿を象っても心までは象れない。
今までに受けてきた嫌悪を超える嫌悪というのは小春の心を落ち着かせた。
心の芯まで冷水を掛けられたように冷えていく。
境に足を踏み入れてから命日かもしれないと何度か思ったが、どうにも命日にするには惜しい日になってしまった。
「母は私の前で一切貴方様のことを話しませんでした。忘れられているのにそれでも母が来ることを期待するんですね」
「…ならば今、儂がお前を殺して、その後で確かめてやろうぞ」
刹那、小春の体が大きな虎の腕に攫われる。
あと一言で起きそうになった新たな火種は灼司の手によって消されてしまった。
そんな灼司は小春を抱え、屋根の上を走りながらグルルと唸っている。
この音は怒りを表す音だ。どれだけ月日が流れようと唸り声も怒る理由も変わらない。
「言いたいことは分かるがああいう煽り方はやめろ。本当に那由さんがここに殴り込みに来ることになるだろうがァ」
「…腹たったんだからしょうがないだろ」
「肝が冷えたぜ…おめェのそういう揺るがねぇ度胸、いつまでも変わらねェな」
例え嫌われていたとしても自分の願望の為に死ねと言われて流せるほど小春は大人じゃない。
だからこそ小春にとってあの場で言い返さないという選択肢は取れなかった。
灼司はふくれっ面の小春を下ろし、その頭を豪快に撫で回す。
「灼司、痛い」
「へェへェ、どうもすいませんねェ。そんで、あの魔女さんはどうすんだ?今更捕縛も難しいだろあれ。最大火力で暴れてるしよォ」
「手はある。五分だけ時間稼ぎできる?」
白夜軍の紬師として魔女の捕縛は小春の仕事に含まれてしまった。
しかも見えた魔女の残りわずかの糸と仇の首を差し出されるという事態。最悪のミスマッチが起きてしまった。
よしんば魔女の捕縛ができたとしても大旦那率いる妖から守りながら境を脱出するのも難しい。
加えて凉斗や千子もいる。圧倒的に不利である。
そう、『小春の力だけ』なら。
力添えを願いたいパートナーは今頃、自由ヶ丘にある本邸にいる頃だろう。
「何すんのか知らねェけど、俺が殺られる前に頼むぜェ!」
「任された」
互いに顔を見合わせ、悪ガキのように歯を見せて笑う。
夕暮れの中、灼司と疲れるくらい走って笑いあった過去を思い出し、小春の心が軽くなる。これから命のやり取りをするというのに。
そして灼司は雄叫びを上げて、魔女の元へと駆けていく。
それを見届けた小春はニシキを起動させ、禄士郎へと電話を掛ける。
コール音が三回鳴らずしてイヤホンから禄士郎の穏やかな声が響いた。
『もしもし。大阪観光を楽しんでいる最中かな?』
「残念ながら任務中です。しかも禄士郎様の力を借りないといけない事態になりました」
『…あらら。聞きたいことは沢山あるけど、相手は妖?化け物?』
「魔女と契約した一般人です。ただ糸が残り僅かなので早く捕縛したいところです。妖達に横取りされても困りますし」
『ふぅん、結構めんどくさいことになっているね。こうして頼ってくるってことは緊急事態ってことだもんね?』
「分かってるなら助けてください」
小春はバッシキを起動させ、全身に妖力を巡らせていく。
そしてバッシキから禄士郎の思念、妖力が流れ込み、小春の体を侵食する。
本邸にいる禄士郎の声や意思が小春の全てを包み込んでいくような感覚に肌が粟立つ。
これは禄士郎が傍にいないかつ、小春に命の危険が及んだ時のみに行う手段だ。
二週間前、一度だけ実験として禄士郎と行ったがこの相手の妖力で全てを侵食されていく感覚は好きには慣れなかった。
「やっぱり小春の体に入り込むのは慣れないね」
(慣れなくていいです)
体を乗っ取った禄士郎が小春の声で呟き、小春は思念で禄士郎に話す。
人間の祓魔師と紬師にしかできないバッシキを用いた妖術の一つ、『憑依術式』である。これは普段から互いの妖力の繋がりを持っている人間同士でしか行えないのだ。
便利ではあるがデメリットもあり、長時間行うと分離ができなくなる危険性がある。故に憑依術式を行うコンビは少ない。
だが今の小春はこの方法を選ぶしかない。それは視界を共有し現状を見た禄士郎も理解していた。
普段少ししか動かない小春の表情筋が禄士郎が憑依したことにより機微に動く。
「魔女の契約がすごいのか、糸の効果おかげなのか分からないけど、これは随分厄介だね」
(このまま放っておいては彼女は糸が消えて死にます。そうなる前に保護したいところですね)
「頑張るよ。ここに俺がいたらすぐに終わらせることができるけどバッシキを使うと威力が半減するからやり辛いんだよねぇ…」
(そんなこと言って制限があればあるほど禄士郎様は楽しんでいるじゃないですか。戦うのは私の体なので丁重にお願いします)
「…」
(無言やめてもらっていいですか)
憑依術式のもう一つの悪い点が戦闘における怪我は体を貸す紬師が負うことである。
特に小春は運動が得意というわけではない。加えて表情も乏しい。
おかげで後日やってくる筋肉痛と怪我の痛みに悶絶することになる。
「大丈夫大丈夫。ちゃんと小春の体は守りながら戦うよ」
(くれぐれもお願いします。それでは急ぎましょう)
小春は心臓から自身の糸を引き抜き、禄士郎の妖力で武器を紡ぐ。
糸は螺旋を描きながら大鎌を作り上げていく。
だが今回、大鎌を扱うの禄士郎の体ではなく、小春の体だ。それに合わせて大鎌の形、重さを調節していく。
そして作り上げられた大鎌は笑みを浮かべる禄士郎の手に収まる。
その感触を楽しむように禄士郎は笑みを浮かべながら軽々と大鎌を振り回した。
「鎌も問題なし。楽しめそうだ」
足に妖力を巡らせ、空高く跳躍する。
目と鼻の先では灼司が魔女の炎を喰らいながらもその喉元に噛みつかんと戦っていた。
禄士郎も大鎌も振るって立ち上る業火の炎の竜巻を切り裂き、魔女に蹴りをいれる。
突如として現れた小春の体に憑依した禄士郎の攻撃を避けることができず、魔女は瓦礫の中に叩きつけられた。
攻撃の巻き添えにならぬよう体を退かせた灼司が目を見開かせて、信じられないものを見たかのような表情を浮かべている。
「小春!?おめェ…いや誰だテメェ」
「初めまして、パートナーの桃坂禄士郎です」
「あァ!小春が言ってた相棒の坊ちゃんか!なるほどな、人間は妖術も魔改造するってわけかァ!乗っ取りとはたまげたもんだ!」
小春の中にある禄士郎の糸が見えている灼司は腑に落ちたのか、手を叩いて感心した。
本来、人の体には糸は一本しか存在しない。
だからこそ、妖から見た今の小春はとても奇妙で異物に見えるはずだ。
「そういうことですので詳しい話は戦闘が終わった後に小春から聞いてください」
「助太刀はいるかい、坊ちゃんよォ?」
「お気持ちだけで結構です。楽しみが半減するのは嬉しくないので」
そういった禄士郎はニヒルに笑い、瓦礫の山で呻く魔女の元へと歩き出した。




