第六話 それしか選択肢がなかったから
勉強会、兼お泊まり会は地獄の様相を呈していた。肉体的にしても、集中力という点においても異常なタフネスを誇る佐伯先輩は、教材を机に広げて淡々と私と四条に教え込む。途中から理解度と学習深度で私たち個人に合った指導法に変更。マルチタスクな脳の使い方を求められるはずだが、一切の疲れが見られない。
時計が九時を過ぎた頃、私も四条も後ろに倒れ込んだ。マットの柔らかい感触が、受け止めてくれる。
「おろ、休憩?」
「そりゃそうですよ……一時間とは言え、内容が濃すぎますって……」
どこか虚ろになりながら、私は苦しそうに呟く。自分が今何を言っているのか、どこを見ているのかもよくわからない。集中力がエンジンを吹かしまくって意識を空転させているような感覚。時間が引き伸ばされているようでいて、その早さについていけないふらついた感覚。
「まぁ、秋原は多少集中しての作業に耐性があったみたいだね。四条を見てみろ」
「みそすーぷ」
「こんな腑抜けた四条を見たことがないんですけど」
隣を見てみると、四条の顔がとんでもないことになっていた。普段美少女と呼ばれているとは思えない。私の言葉ではとても形容しがたい表情で、どこを見ているのかもわからない目がぐるぐると回っている。それでもどうやら演技が入っているみたいだから、恐ろしいものだ。多分、私が無意識に絵のことを考えているように、四条も無意識で演技を行っているのだろう。この、過集中が行き過ぎてオーバーヒートした脳で。
「ふむ、私がこうしたと考えるとなかなか興奮するものがあるね」
「勘弁してくださいよ」
私に集中しての作業への耐性があって本当に良かった。けれど、先輩の勉強の密度は異常だ。私とて、集中力にはある程度の自信がある。絵を描いているときは時間を忘れて熱中しているし、気がついたら三時間位描いていたなんてことはざらだ。そんな私でもこの勉強はなかなか堪える。隣の四条に向かって南無三と手を合わせて、身体を起こした。
「さすがに少し休憩しましょう。いくらなんでも二時間で五教科全部を完璧に叩き込むなんてやりすぎですって」
「そう? まだ現実的な範囲だと思ったんだけど」
「あなたほどの吸収スピードと理解力と記憶力とマルチタスクの能力があればの話ですけどね」
「いいや、私は二人のことを考慮してこのスケジュールを組んでる。本当にギリギリにはなるだろうけど、食らいついて来れるはずだ」
……確かに、私はギリギリだが食らいつけた。その内容を全て理解しているとは言わないが、そのへんは反復学習だろう。これから定着させていけば良い。だが、四条の方はかなりきつそうだった。ちょっと勉強して平均かそこらのレベルになればいい私とは違って、四条はスタートが中の上だ。そこからさらに成績を上げるために細かなところまで叩き込まれていた。加えて、四条と話すことが少ないから彼女の集中力がどの程度が把握できていなかったというのもあるだろう。終わり際からずっと「みそすーぷ」だの「けんちんじる」だの言っている。汁物のレパートリーが凄まじい。私の聞いたことがない郷土料理も口にしていた。
「先輩と四条って、よく話すんですか」
「ん? あぁ、たまにね。絵のモデルをお願いしたりかな。秋原だってよくやってるだろう」
「私の専属モデルですから」
四条の『演技』については誰にも明かしていないが、私と四条が絵描きとモデルの関係だというのは説明している。とは言え、佐伯先輩もモデルを頼んでいたのは初耳だけど。あんまりお願いしないのかな、さっき久しぶりだと四条が言っていたし。
「いつから、そうなったんだ?」
「いつからって言われても……五月くらい?」
「ふーん……けど四条が専属モデルの話で首を縦に振ったって言うのも不思議だな。周りに合わせるのがめちゃくちゃ上手い美人さんってイメージだったし、誰か一人に肩入れするとかなさそうだったけど」
「それは私も知りませんよ」
脅したから専属モデルになってくれました、なんて言えるわけがない。
「ふーん?」
「なんです」
「いや、なにか知ってそうだなって」
「四条に聞いて下さい」
こういう勘も鋭いから佐伯先輩は恐ろしい。四条の優れた観察眼とはまた別の才能を感じる。私や四条のような突出した観察能力はないけれど、知識量や経験から総合的に私を見ている感じ。これが、あらゆる分野で力を発揮できる人の片鱗。バトル漫画みたいなことを考えていると、佐伯先輩が大きく伸びをした。私たちより優れているとはいっても、お互いに違う内容を指導していたのだ。倒れるほどじゃなくとも、疲れているだろう。
「暇だし、四条が起きるまで散歩でも行きますか」
「お、いいねー賛成」
一応四条に一言残してから部屋を出たが、返事がなかったし意識を取り戻しても覚えているか怪しい。大丈夫だろうか。アプリでメッセージを送っておいて、私と佐伯先輩は家を出た。涼しい夜だ。まだまだ夏の暑さが残っているとは言っても、そろそろ落ち着いてきた。昼もこのくらいだったら過ごしやすいのに。手のひらで風の温度を確かめながら、私は行く宛もなくぶらぶらと歩き始める。
「どっか、この近くに公園とかないんですか」
「おこちゃま」
「散歩だしどこ行ってもいいでしょ」
散歩なんだから公園くらいは行くはずだ。もしかして、佐伯先輩や四条と比べて私の身長が低いから子供扱いしてるのか? 四条もその傾向が少しあるし、先輩もそんなことを思っていそうで怒り心頭である。
「ちなみに公園はちょっと歩いたところにあるよ。片道で十分弱かな」
「ちょうどいいくらいじゃないですか?」
往復して二十分程度。ちょっと公園でたむろすることも考えたら、三十分くらい。四条も十分休めるだろうし、私としてもそのくらいの時間休憩が取れると助かる。これ以上勉強はあまりしたくない。もう九時すぎているし。
「しかたない、お風呂の時間もあるし今日はこのくらいで許してあげるか」
「やった」
「でも、最後にまとめだけはするからね」
「えぇ……」
「記憶は寝る前と起きた後にやると定着しやすいんだよ」
豆知識を教えられながら、私たちは一緒に歩く。佐伯先輩が歩幅を合わせてくれるからか、かなり歩きやすい。なんか、すっごいゆったり歩いているみたいだからそれはそれでずるいなと思う。私だって身長が高くて足が長い人間になりたかった。静かな街。先輩が住んでいるところは、散歩に向いていた。電車で一駅先というだけだけど、だいぶ様相が違う。田舎、とまではいかないけれど自然もほどよくあって、少し薄暗いくらいの道が心地よかった。わくわくとした刺激と、閉鎖的な安心感が感じられる。街灯の下に入ると、ゲームのチェックポイントに入ったような感じがする。
「……秋原って」
一拍置いて、何でも楽しめるタイプの人間? と先輩が聞いてくる。どういう意図だろうか。まさか、この暗がりでちょっと私が楽しんでいたのを咎めようとしているのか? 子供っぽいとか言って。
「んーどうでしょう」
「わからないんだ」
「まぁ、なんせ、自他の気持ちを考えるのが得意じゃないもので」
「なんかごめん」
佐伯先輩には、私の中学の事情を少しだけ話している。その全てを話したことは、親にもないけれど、先輩は別。絵を描き始めた理由についてお互い話したりする以上、その話を避けて通ることはできなかった。佐伯先輩は口が硬そうだし、何よりこういう話をばかにするような人じゃないから信用した。
別にいいですよ──先輩の謝罪には軽く返した。もう、公園が見えてきた。遊具は少ないし、大して大きくもない公園。でもなんだか楽しそうだった。いくつになっても、この手の公園に来ると少しばかりの懐かしさを感じる。特別遊んでいたというわけでもないのに、童心がくすぐられるのだ。そういういみでは、私は子供っぽいのかも。
「さっき」
入口にある背の低い柵を跨ぎながら、佐伯先輩に視線だけをよこす。
「なんで、あんなこと聞いたんですか」
「いや、少し、羨ましいと思って」
その言葉に、私は首をかしげるしかなかった。どういう意味だろう。私は、言葉がないとわからない。そういう人間だから。わかろうとはしてみているが、それでもまだまだ難しい。これが、私のよくないところなんだけど。でもこれくらいなら別にいいんじゃないのか。そう思って、聞き返してみた。
「羨ましい?」
「そう。羨ましい」
「私は先輩が羨ましいですけどね。なんでもできるし高身長だし美人だし」
「私を口説いても何も出てこないよ。それに、秋原だって可愛い」
「私を口説いても何も出てきませんよ」
「知ってるよ」
話がそれてしまった。私のどこが羨ましいのか聞きたかったのに。佐伯先輩とか、そういう憧れとか羨望とかの感情は抱かないと思っていたから気になるのだ。
「……まぁ、その絵の才能が羨ましいって話だよ」
「私の? 絵の? 才能? それで言ったら先輩だって十分あるでしょ」
「そうじゃなくてさぁ」
公園の中央に来ると、先輩は空を見上げた。私も釣られて真上を見ると、満点の星が見える。広い公園じゃないが、明かりは他の道路なんかと比べてかなり少ない。穴場なのかもしれない。
「私は、これをみて綺麗だと思った」
「急になんですか。何かの日本語訳?」
「違う違う……秋原は、どう思った?」
「そりゃもちろん、綺麗だと思いましたよ」
私にだって、そのくらいのことを感じる気持ちはある。というか、感情表現の力が乏しいだけで感情そのものはちゃんとあるのだ。なぜか「どうして?」と先輩に綺麗だと思った理由を求められたので説明をする。夜空を指さしながら、くるくると指を回す。
「コントラストが綺麗だ。じっと見ると、黒と藍のグラデーションが見えてくるし、そこに乗っている星たちが点滅するように輝やいてる。星は白っぽいから、すごく映えて見える。でもよく見るとちょっと彩度があったりして、それに──」
「それだよ、それ」
先輩はくすくすと笑いながら近くのブランコに腰をおろした。ひとしきり笑うと、どういう意味がこもっているのかわからないため息を吐いた。
「やっぱり、私は、秋原には敵わない」
「ぜんぜん話が見えてきません」
「絵のインプット能力の問題だよ。それと単純な練習時間」
それを聞いても、私にはピンと来なかった。インプット能力と練習時間。どちらも羨まれるほど私が優れているとは思えなかったから。勉強をしていればいやというほどわかるけど、先輩のインプット能力は異常だ。理解力と理解深度が群を抜いている。言われたことは一度でできるタイプ。練習時間は、私も先輩もさほど変わらないだろう。大抵放課後はどこかで絵を描いている。家ではどうか知らないが、デジタルイラスト向きな先輩の絵柄なら家でも絵を描いていると考えていいだろう。
「どういう意味か分かってなさそう」
「だって、先輩のほうがすごくないですか」
「いいや、秋原は自分がどれだけすごいのか分かってないな」
先輩は私の言葉を待たずに話し始めた。
「絵がどうこうの問題じゃないんだ。私が言っているのは、それ以外の全部」
「全部って、そんな適当な」
「いいや、本当に、全部。日常の全て。そこで、大きな差が出てる。秋原は、日常の全てを絵に繋げられる」
先程の私の言葉を借りて先輩は話し始めた。私の観察眼は優れている。自覚はあった。けれど、佐伯先輩が認めるほどとは思っていなかった。私の目は、特別らしい。現実世界を絵に落とし込める。言語化ができる。どんなにささいなことでも、それを絵につなげて出力ができる。ここが、最大の強みだと。
「インプットは随所から常にできる。ちょっとした光の当たり方とか、さっき言ってた夜空の観察にしたって、言ったことをそのまま出力できる。その技術もある。時間も、必然的に増加する。一日中と言っても過言じゃない」
「いやいや私は……そんなすごい人間じゃ……」
「それを無意識でできるからすごいんだよ」
過剰評価されているみたいで、なんだかむず痒くなってしまった。先輩に背を向けて、遠くをの方を見てみる。暗闇が、道の先を隠している。飛び飛びで街灯に照らされた場所だけが見えて、そこに目が引かれる。……視線誘導をここから無意識に学習していると言われれば、そうなのか? こういうささいなことの積み重ねを言われているのか?
「で、でも、やっぱり佐伯先輩の方が絵は上手いじゃないですか」
「私の持論だけど、創作において巧拙は些末な問題だ」
とてもはっきりとしていた言葉だった。
「大事なのは、そこに何の意味が込められているか。どれだけ人に響くかだとか、数字がついてくるかとかも関係ない。そこに矜持と意味はあるのか。それが、作品に問われている」
それに、巧さという点で見るにしても、秋原は私と比肩しているし──佐伯先輩は、そう言った。
「秋原は意味を込められる。そこに矜持がある。秋原は、正しく創作を始めたから」
その言葉の意味を私は噛み砕くことができなかった。先輩と私は互いに絵を描き始めた理由を知っている。その上で、それが正しかったと言えるのだろうか。現実逃避のために、私は筆を走らせた。歩みを止めてしまった私の足を務めたのは、いつからか筆先になっていた。どこまでも走っていく筆に、私は全体重を乗せることができた。それが、心地よかった。初めて正しく走れたと思ったから。
「なんで……」
なんで、そう思うんですか。聞こうとしたけど、聞けなかった。怖かったんだと思う。何が? 多分、現実逃避を肯定されてしまうことが。それがどうして怖いのかは、私にはわからない。
「ま、だから秋原はすごいよねって話」
笑いながら、先輩は締めくくった。……珍しい。というよりも、らしくないというほうが正しいかもしれない。佐伯先輩は自分の強みを人に押し付けられるところが人間的な魅力だと思っていた。女帝とも錯覚するような芯の強さ。それが、先輩にある。でも、先輩だって人間だ。誰かと比べてこんなことを言うことだってあるかもしれない。
──そして、先輩はこんなことを意味もなく言う人じゃない。なにか意図がある。そして、話の続きがある。他人の才能を褒めるだけなんて、あり得ない。先輩は、そういう人だから。
「美大を受けようと考えていてさ」
唐突に、切り出してきた。
「まだ二年生だけど、逆に言えば二年生の九月だ。ぼんやーり、将来のことを考えてみた。そしたら、その選択肢が浮かんできた。イラストレーターかデザイナーかアニメーターか……そういうのはこれから考えるけどさ。私は、絵を仕事にしたいと思ったんだ。……ほら、私が絵を描き始めた理由、知ってるだろ?」
……先輩が絵を描き始めた理由。それは、とっても”らしい”理由だ。
「もったいないと感じたから」
天賦をほしいがままにする人間の、その脳内。溢れ出るインスピレーションを、何らかの形で放出しないともったいないと先輩は感じたらしい。こんな小さな世界の一角なんかじゃ収まりきらないくらい、いくつもの世界を頭の中に作り出せるのだから。
「ま、高校生が世界の広さを語るなって話かもしれないけどね~」
だけど、その世界の狭さを確証を持てるくらいに先輩の世界は広かった。もったいないと思ってしまうくらいに。
「私の世界をもっとたくさんの人に知ってほしい──から、そういう将来を考えてみた。みた、んだけれどね」
「上には上がいると」
「ははは、まぁ、そういうこと」
にへら、と笑っているがちょっと、下手くそだった。四条の演技に慣れてしまっているからだろうか、今の私には他人の愛想笑いがとても滲みる。あまりにも、わかり易すぎるから。
「でも、じゃあ、なんで私の話を?」
「一緒の美大に行かないかって誘おうとした」
「え」
その提案に、私は硬直することしかできなかった。
「まだまだ一年生。将来のことなんてこれからだろうけどね。一つの提案だよ」
「いやいや……佐伯先輩が苦戦するほどじゃあ私は……」
「いいや、秋原は絶対に余裕だね。保証する」
どこからその自信が湧いてくるんだ。
「……むぅ、そんなこと言われても分かりませんよ。将来のことなんて」
「ふふ、どうかな~」
「なんですか、私のこと知ってるみたいに」
「ちょっとは知ってるとも」
確信めいたその言い方は、予言に近いものがある。しかも、言っているのは佐伯先輩だ。臨場感と言うか、ともかく迫真である。
「なんにせよ私は楽しみだな」
「まだ何も決まってないのに……」
「いいや? 大体わかるよ。だって、秋原は──」
何かを言いかけて、口をつぐんだ。デリカシーが欠如している先輩にしては珍しい。思ったことをなんでも言うような人なのに。
「んー、ま、帰ろっか。そろそろ四条も元気になってるでしょ」
「そうですね。いい気分転換になりましたし。なんか、将来のことも考えることになったし」
「あはは」
ブランコを降りて、背の低い柵を跨いで。少し早足で、先輩は先に進んでいる。「早く早く」なんて急かされたりして。追いつくと、ぐっと腕を引っ張られた。行きと違ってだいぶ子供っぽい気がする。どうしたんだろう。呆けていると、先輩が顔を近づけてきた。咄嗟に手を口元に持ってきたが、違うらしい。
「私のこと、これからは海羽先輩って呼ぶんだぞ?」
「はいはい、海羽せんぱ──」
気が緩んだ瞬間に、先輩がキスをしてきた。唇じゃなくて、頬だったけど、いきなり。
「ちょっ、先輩!」
「へへーん、騙されてやんの」
この人はいつもこうだ……! と追いかけてみるが、全然追いつけない。歩幅が違いすぎる。本当に、行きと同じ人とは思えない。遠くに逃げた先輩を眺めながら、私はその場にへたり込んだ。
──さっきの言葉の続きは、何だったのだろう。「だって、秋原は──」、その答えを、聞こうと思ったのに。私はしかたなく諦めた。
そういえば、佐伯さんの下の名前は海羽でした。
佐伯 海羽です。「さいき」ではありません。
あと「海羽」のルビは振り忘れました。けど、名前は読みやすいものを考えがちなので大丈夫だと皆さまを信じています。




