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第十六話 キャンバスには収まらない

 筆が紙面をなぞる。部屋を突き抜けるような桜の匂い。外を見れば、思わず声を漏らしてしまうような桜並木が見える。四月。私は高校二年生になった。斜陽が窓枠の影を作る。フローリングに反射した光が、私とキャンバスを淡く照らす。紙面の凹凸に絵の具を入れ込むような感覚。空いた隙間を埋めるよう、私は絵の具を載せていく。

 ──私は、絵を描くのが好きかと問われれば答えない。好きではない、嫌いでもない。でも、私はずっと続ける。私にとっての意味のある行動。現実逃避そのもの。私は現実を直視して、現実から逃げ出す。でも、最近は少し困ったものだ。その現実が、あまりにも甘美なものだから。紙面から筆を離して、隣の筆洗に筆を入れる。水を含んだ筆で淡い色を作り出し、キャンパスに載せる。色を、少しずつ重ねるように。

 ふと、私の筆が止まった。呼び止められたように、振り向く。部員が過去作や没作品を置いているその場所。近づいて、少し探してみると前に私の描いた絵が出てきた。


「まだ、あったんだ」


 あの時、私が見限った絵。温かみがないからと言って、私が見限ったその絵。心を理解していないからと、私は諦めた。けれど、実際はそうじゃない。私は心を理解できていた。あの頃から、ずっと。それでもわからなかったのは、私の問題。私が、引き出せなかった。表現。自分を使って、表現をすることができていなかった。

 今見てみれば、そう卑下するほどの絵でもないように見える。技術的には今の私よりも数段劣っているけれど、その足りないものを探し求めようとするが故の力強さを感じる。


(過去は過去、今は今だけどね)


 キャンバスへ戻って、描きあげた絵を見つめる。学校近くの桜並木。数日前に撮影した写真と見比べる。どこか、寂しさを感じるのに同時に希望を感じる感じ。うん、今の私にぴったりだ。過去は消えない。私が逃げ続けてきた過去はある。それでも、今、私は大丈夫。


「精が出るねぇ」


 海羽先輩が美術室へやってきた。気づいて、入口に顔を向ける。二年生から三年生に変わっただけだと言うのに、少しだけ大人びて見える。まぁ、海羽先輩なら人よりも成熟が倍早いと言われても納得できそうだ。


「あなたも対して描いてる量は変わらないでしょ」


「褒め言葉は素直に受け取っておくもんだぜ」


 きょろきょろと周りを見てから、また私に向き直る。


「四条はいないのか」


「またそれですか」


「こっちの台詞だ。いつも四条と一緒のくせに」


 先輩は、私と桜が付き合っていることを知っている数少ない人間だ。ちなみに美術部員全員も知っている。部員全員というのに、それでも数少ないというのだから悲しい。ついでに言うと、私たちが何も言っていなくてもみんな分かっていたらしい。主に、私と桜の距離感で分かったのだとか。……そんなに近いのかな? 学校では、普通の友達くらいの距離感を保っているつもりなんだけど。


「いつも、って言うほどじゃないですよ」


「いいやいつもだろ。美術部員でもないのに美術室に入り浸ってるし」


「ダメなんですか?」


「……そんなことはないけども」


「まぁ、私の専属モデルですし。大目に見てください」


「はいはい」


 先輩は私の背後に回って、 私の絵を眺めてくる。


「やっぱり、秋原の絵は良いな。好きだよ……っと、四条に怒られるか」


「その程度じゃ桜は怒らないでしょ。何だと思ってるんですかあの子を」


「いや……怒るっていうか……不機嫌になるっていうか」


「……え、そうなんですか」


「彼女だろ、気づいてやれよ」


 気づかなかった。そもそも桜ってそこまで嫉妬深い人間じゃ──いや、あるか。でも、嬉しいな。妬いてくれているのなら、それだけ愛されてるってことだし。今度いたずらでもしてみようかな、なんて。そんなことしたらそれこそ桜が起こりそうだからやらないけれど。

 時計を見ると、もう夕方の六時を回っていた。桜との予定もあるし、そろそろ切り上げどきだろう。急いで帰りの準備をしていると、海羽先輩が「画材の片付けは私がやっておくよ」と言ってくれた。


「え、でも」


「この絵をもう少しだけ見てたいんだ。いいだろ? それに、彼女を待たせるもんじゃない」


「ん、まぁ……そういうことなら。というかなんで桜との約束ってわかるんですか」


「先輩には何でもお見通しさ」


 本当に、どこまでもこの人は。とは言え、私も私で時間が押しているのも事実。絵の方は先輩に任せて、私は私物を抱えて美術室を出ようとした。


「ああ、そうだ。言ってなかったか」


 先輩が、私を引き止める。


「おめでとう。色々とね。遅れたけど、私の、心からの祝いの言葉だよ」


「……ありがとうございます」


 にこやかに、先輩は笑ってくれた。色々──多分、私と桜のことだけじゃない。本当に、色々なことがこの人には見えている。「笑ってたほうが、先輩は綺麗ですよ」と、浮気になってしまうから言えなかったけれど、私は本心でそう思っている。たん、と足音を高く軽く、私は美術室を飛び出した。


 □□□


 みのりが集合時間になっても校門に来なかったので、美術室へとやってきた。中央で海羽先輩がキャンバスを眺めている。


「すみません」


 声をかけると、ようやく私に気づいたかのように先輩がこちらを見た。驚いたような表情をして、私の方へとやってくる。


「どうしたの? さっき、秋原が四条との予定があるからってここを飛び出して行ったよ?」


「うげ、じゃあ入れ違いになったんですね……」


 すぐに美術室を去ろうとして、ちらと見えた海羽先輩の顔が気にかかった。寂しげ、というかどこか元気がない。この人にしては珍しい。

「絵、何見てたんですか」藪から棒に話題を振ってみる。


「秋原の絵だよ。急いでいたみたいだし、片付けを私から引き受けた。まぁ、本音を言えばもう少し秋原の絵を見てたかった、ってだけなんだけど……おっと、そういう意味じゃないんだ」


「いいですよ、別に。私、そんなに心狭くありませんし」


「ほんとか……?」と懐疑的な言葉が小さく聞こえてきた気がするけど、無視をする。美術室の中に入って、中央に置かれているキャンバスを覗き込んだ。桜並木の絵。水彩チックで、透明感のある絵。桜並木の奥に、小さく人影が見える。これが誰なのか、判別はつかない。顔もわからなければ、背丈も男女どちらともとれるから、あえてこういう風に描いているのかもしれない。みのりらしいな、と苦笑した。


「……私は、勝負に負けたわけだ」


 聞いたことのない声音だった。勝負──きっと、みのりが精神的に追い詰められていたあの時のことだろうか。私と先輩でカフェに集まって、みのりについて話したことがあった。私は一人の人間として、先輩は一人の絵描きとして、みのりが大成することを望んでいた。結果としては両取りだったわけだけど、それでも、やはり過程を見つめると私に天秤が傾いているのかもしれない。

 ……いや、本当は分かっている。海羽先輩が勝負に負けたと言っているのはきっと、別の話だ。最初こそわからなかったけれど、先輩がどういう形であれみのりに好意を寄せていたのは、朧気ながらも察していた。それでも、私は無視をした。それが、恋愛という形ではないと自分に言い聞かせた。多分、それが間違っていたんだろうな。先輩は、そういう意味でみのりを好いていたのだと思う。言葉を返せないでいると、先輩が言葉を続けてくれた。


「この絵は、多分、私望んだみのりの形じゃ作れなかったと思うよ。四条、お前だからだ。四条と、秋原だから。悲しいようで、嬉しいよ。一応、私の思い通り秋原は私を超えてくれるだろうし」


「私の、力じゃないので」


「優しい奴め」


 同情でもない。憐憫でもない。少し何かが違っていたのなら、私が先輩の立場になっていたと思うから。そう考えると、やるせないのかもしれない。けれど、ここで私が背中をさするのは全く持って違う。勝ち取ったのなら、その責任を持つ。幸福なのに、不幸のフリをする必要などどこにもない。


「私は、意地汚い子ですよ。じゃないと、こうなれなかった」


「そういうことにしておくよ」


「そろそろ、行ったほうがいいんじゃないの」と先輩に言われて、私はハッとする。みのりと入れ違いになったのならもう校門で待っているはずだ。早く行かないと。荷物を背負い直して、私は美術室を出る。振り返りそうになったけれど、ダメだと思った。先輩の気持ちと表情を、予想できてしまったから。私は、それを見るべきじゃない。校門へと続く道に、斜陽が差している。


 □□□


 校門で待っていると、桜が遅れてやってきた。彼女が遅れるなんてことないだろうし、多分──


「ごめん、美術室まで行ったんだけど、入れ違いになったみたい」


「いいよいいよ。だと思ったし。というか、遅れてたの私の方だしね。遅れてごめん」


「それで、行きたいところってどこ?」


「決めてない」


「あれれれれ? 行きたいところあるって聞いてたんですけども」


 嘘でもないし、本当でもない。桜とどこか出かけたかったからそういう風に声をかけたのだ。場所なんて、それこそどこでもいい。桜と行く場所がそのまま私にとっての特別になるのだから。でも、まぁ……そうだな。


「じゃあ、海にでも行かない?」


「海ぃ……?」


「いや?」


「ん、いいんだけどさ……今からじゃ帰りが遅くなりそうだなって……」


「じゃあ泊まっていこうか?」


「むぐ……」


 妙な反応をされてしまったので、私は一瞬怪訝な表情をしてしまった。あぁ、とすぐに思い至る。そう言えば、私たちが初めてをした時もこうやって海に行ってから泊まって……って流れだった。もしかして、そういうお誘いって捉えれてるかも?


「……すけべ」


「えっ!? いやいやいや、今のはみのりが悪いって!」


「ふーん」


「その『ふーん』やめて!」


 そうは言ってみたものの、やはり桜が乗り気だというのなら私も別にいいかな、なんて思ってしまう。大丈夫かな、私。本当に、付き合ったのが桜で良かったとつくづく思う。これでもしも、強情な男の人とかと付き合っていたのならどうなっていたことか。


「いや、たださ──描いてみたかったんだ」


「え?」


 あの海で、あの場所で、あの時の光景に近いものを。私の記憶に刻まれた、あの特別な日。それを、絵として残したいと思った。だって──あの時の桜は、星よりも海よりも綺麗だと思ったのだから。色褪せないうちに、あの時の思い出を、私の形で残しておきたい。そして、思い出したい。私の転換点。ターニングポイント。それが、あそこに眠っていたのだと。


 □□□


 静寂をともにできる時間というのは、相当な相性が必要になると、私は考えている。例えば、そう。それこそ電車での移動時間とかがいい例だ。移動している間に、ずっと喋り続けるのか、そうじゃないのか。恋仲でも、そうじゃなくとも喋る人はいるだろうし、喋らない人はいる。でも、お互いにその静寂を心地よいと思えて、口を開く必要がなくとも伝わる、というのは奇跡に近い相性だと私は感じている。


「久しぶりに海辺まで来たかも」


 まだわずかに夕暮れが水平線を照らす頃、私たちは砂浜までたどり着いた。電車は長いようで、短かった。利用者の少ない電車だし、端っこだったし、平日だし。なんだか、二人占めできたみたいで、もう少しあの時間が続いても良いかもなんて思ったけど、やっぱりこの海は特別だ。なんてことない、ただの海。それでも、私と桜にだけは特別な景色。

 ここで、私はスケッチをする。キャンバスを持ち運ぶのは物理的に難しいから、スケッチブックと、画材を少々。簡易的ではあれど、納得のいく完成度を出せるはずだ。


「じゃ、桜、この先に立って。太陽と……重なるのは嫌だな。少し腕を開いて、胴体と腕の間にあの日差しを入れる感じ。砂を蹴るイメージで」


「はいはーい」


 この説明でわかってくれるのだから、ありがたい。私はすかさずスマホを取り出す。本当はもっとちゃんとしたカメラを使うのが良いのだろうけれど、持ち運びや高校生で扱える財源を考えるとこのくらいが限界。完璧な位置取りで、桜は砂浜の砂を蹴り上げる。本当に、私の想像した通りの画角。多分、卓越した演技をもっているからこそ、カメラがどこにあって、どのような見え方をしているかが手に取るようにわかるのだろう。

 舞う砂すら、とても美しく見えた。さすがにここまで調整できるとは思えないが、桜ならできてしまいそうなのが恐ろしい。


「おっけー、今回も一発だね」


「でっしょー。というか、写真でいいの? せっかく私も時間があるのに」


「んー、本当はちゃんとモデルを参考にして描きたいけどね。動的なシーンを描きたかったからしょうがない。……まぁ、一応、その場所で立っててもらえる? 影とか回り込みの光とか、色々参考にしたいし。そんなに時間はかからないから。余力があるなら、ポーズもさっきの感じで」


「はーい」


 私の説明通り、桜はさっきの位置で砂を蹴り上げるポーズをとった。ほとんどさっきと変わらないポーズ。本当、桜で良かったと思う。大まかな形を取って、それからディティールを作り込んでいく。陰影をざっくりとつけて、細かいところや線の段階で強調する必要のないところは後で色の段階で詳細を書き込めば良い。写真も見比べながら、大まかに完成させる。辛いポーズだろうし、あまり時間はかけたくない。

 本格的に日が暮れ始め、スケッチブックにも影が落ちる。茜色とも、藍色とも言えない。いいや、そのどちらも含んでいる空が私たちを見下ろしている。まだ納得のいっていない完成度ではあったが、そこで切り上げた。手元もよく見えなくなってきたし、色彩もこの逢魔が時でフィルターがかかったように色味が変わってくる。続けるのは悪手だろう。ひとまず完成したスケッチブックを掲げて、風景に合わせる。もう、日は向こう側に。ほとんど藍色に染まった空の、一部。夕暮れがあったであろうところに、スケッチブックを重ねる。


「はは」


 どうしてだろう。この絵で一番明るいのは、この夕暮れなのに。どれだけ色彩を凝って描いても、どれだけ光を強くしても、やっぱりあなたが一番私の目を惹きつける。


「どうしたの?」


「んー? いや、いい絵ができたなって」


 全く、本当にあなたという人は。


「私の視線が欲しい、か」


 小さく、口に含む。熱の籠もった私の視線。そんなの、とっくに桜は達成してるっていうのに。むしろ、私が困るくらいだ。この程度のキャンバスじゃ、桜を描き切るなんてこと、叶わない。


「日が暮れてきたし、ご飯でも食べに行こうか」


「いいねぇ! 私、この辺のお店さっき調べたんだ」


「さすが、気が利くね」


「桜ちゃんはできる女の子なのです」


「ふふ、そうかもね?」


 この程度のキャンバスじゃ、足りない。だから、私はこれから何枚も何枚も桜の絵を書き続ける。私に見えている桜は、これだけ大きいんだよって、こだけ特別なんだよって。それを伝えるのに、どれだけのページをめくれば良いんだろう。もしかしたら、私が人生で描くだけの量じゃ、足りないのかもしれない。


「ご飯食べたらどうしようか。まだ、電車も残っていると思うけど」


「……へぇ?」


「はいはい。じゃあ、今日は星もみたいな。それで、もう一枚」


「ふぅん」


 愛おしくて、私は桜に近づいて手を握る。ほんのり、桜の方が手が冷たい。指を絡ませて、しっかりとお互いを握り込む。


「ほら、案内して?」


 私のキャンバスを、埋めてくれたあなた。今まで逃げ続けて、向き合おうとしなかった私自身のまっさらなキャンバス。私を染め上げてもなお、桜の勢いは止まらない。きっと、私を塗りつぶす。収まりきらない、極彩色の世界で。

完結です。ありがとうございました。

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