第十四話 みのる果実は甘美な毒で溺れゆく
お風呂は、入れ替わりで入った。私が先に入って、桜が後。お風呂場から出てきた桜は、いつもよりも控えめな感じで、薄着で……なんて言えば良いのかわからないけど、動揺した。私も勢いでここまで来ていたような節があるから、ようやく今の状況を現実として飲み込み始めてきた。
それでも、桜に、一瞬見惚れていた。動揺を超えて、視線を奪われていた。恐らく今の彼女に演技らしい演技が入っていないとは言え、その所作は流麗。身体に染み込んでいる、人に見られる動作。桜が何年も自分の本心を隠さなければならなかったことを物語っていて、苦い感触があった。
「……見すぎ」
「そうかな」
咎められてしまった。そういう桜も、ちらちらと私の方を見てくれてるのはわかるんだけど。ふと自分の姿を確認するが、私は比較的厚着だった。さっきまで着ていたものを、ほとんどそのまま着ている。対して桜は備え付けられていたであろうバスローブ。身長が高いから、妙に似合って本当にセレブに見える。ずるくない? と言われるが、こればっかりは私は悪くない。だって、桜の方が後からお風呂に入ったんだし。
なかなか桜がベッドに近づいてこない。待つのももったいなく感じてきたので、私は桜に抱きついてそのままベッドへ持っていった。
「ちょ、ちょちょ……!」
慌てふためいているので「何もしないよ」とだけ言う。すぐに、大人しくなってくれた。私と、桜の視線が真正面からかち合う。いつもは身長差でこういうことはないから、新鮮だ。
「みのり?」
「桜はさ、もう、今は演技じゃないのかな」
私は、素朴な疑問を投げかけた。私はトラウマを乗り越えた。私は私の逃避行を許せるようになった。ようやく、人の気持ちに目を向けられるようになった。それでも、桜がまだ演技を続けているのかはわかりかねる。絵描きとしての私の目は、まだ桜が演技を続けていると言っている。けれど、今までのような強固な演技ではない。悪いことじゃないんだけど、なんだか、少し寂しい。
「演技……じゃないけど、ううむ、そう聞いてくるってことは、まだ私に演技が入ってるってことでしょ?」
「うん」
「そういうつもりはないんだけどね……」
うーん、と唸ってから、桜は私に説明してくれた。
「なんというか、みのりだからかな」
「私だから?」
「仲が良いからこそ、言えないことがあるというか。なんというか」
「私はそういうの、桜にはないよ」
「……ふーん」
実際、桜に隠しごとはない。元々私は何かを隠すのが苦手だ。七面倒臭い、というのもあるけれど、相手があの桜だ。私が桜に対して何か隠しごとをできる気がしない。
「じゃあ、それを私が引き出せたらいいってわけだ」
「……やだ」
「やだ?」
やだ、というのは珍しい。桜は演技が得意という都合で、自分がいやだと思うことに関しては婉曲的な表現をする。上手く説明はできないが、ともかく「いや」という直接的な表現は使わずにその対象を避けられるだけの能力がある。それなのに素直に言ってくれるという嬉しさと、疑問。
「やだって、なに?」
「だって……その」
もごもごと桜が口を動かしている。よく聞こえないから、私はもっと桜に近づいた。すると、桜が急に唇を重ねてきた。驚いて、目を見開く。そのまま、桜が寝返りを打つようにして私の上に乗る。手をがっちりと握られて、身動きができない。脚も、私よりずっと長い桜の脚で抑えられてしまっている。やがて、桜は顔を離す。
「わ、たし……その……」
桜の赤っぽい髪の毛が、彼女の表情を隠す。口元だけが見えていて、震えがちにその桜色の唇を動かしているのがわかる。
「……みのりが、すきだし」
──嬉しい。なによりも、嬉しい。なんとなく、分かっていたような気もする。私みたいに、現実から逃げた人間を見捨てないでくれたし。何より、これまでの桜の行動を思うと、あれが、桜の本心だった。そして、その内容には私への好意が含まれていた。でも、こうして言葉にしてくれるというのが、たまらなく嬉しい。
「私も、好きだよ」
「うん……」
桜の頬に手を伸ばした。柔らかい感触が、そっと指の腹に伝わってくる。
「でも、すきだから、こういうことも、したい、し」
遠慮がちに、桜は呟く。同時に、桜の手が私の服の下へと滑り込んできた。へその横のあたり。少し、くすぐったい。ほんのり冷たい。
「……あぁ、なるほど?」
「なにがなるほど……?」
「いや、もしかして、それが言えないことなのかなって」
「……ちょっと違う」
伏し目になりながら、桜が私を見てくる。
「わからなくていいから」
「いやだよ? 桜のことは、たくさん知りたい」
「…………」
無言で桜が私を見てくる。私は、服の上から桜の手に自分の手を重ねる。大きい。私よりも、指が長くて、到底覆えそうにない。
「私にとっての”好き”はね。んー、なんだろう。付き合いたいとか、こういうことをしたい、とかじゃないんだ」
「え……」
桜が離れようとするので、咄嗟に服越しに手を握り込む。相変わらず、私は言葉選びが下手だ。でも、気持ちを素直に伝えたい。絶対言葉選びを失敗するって分かっていたから、あらかじめ桜を捕まえる準備をしていたんだもの。
「したくない、ってわけでもないよ。えと、私にとって、好きっていうのはさ」
桜が少しだけ落ち着くのを待ってから、私は続ける。
「相手のことをたくさん知りたい、って気持ちだから。ストーカーみたいになる気はないんだよ? ただ、今日みたいに海を見て、星を綺麗だと思ったり、暗い海はそんなにだったり……そういうのを、一つ一つ私たちの関わりの中で見つけていきたい。たくさんたくさん知って、もっともっと好きになりたい。きっと、相手の嫌なところを知っても私は好きなままだと思う。好き、というよりも愛している、かもしれないね。全部、ひっくるめて好きだから」
桜の手を、上へと持っていく。しゅるしゅると、衣擦れの音に混じって聞こえる、肌が擦れる音。
「その中で、相手がこういうことをしたいっていうのなら、私もしたい。その人がやりたいことを知りたいし……どんな顔をするのか、知りたい」
やがて、桜の手が私の胸元に届く。どうすればいいのかわからないらしくて、少し力が籠もったり、反対に逃げようとしたり。とても、演技が得意な桜とは思えないくらいに動揺が手に現れていた。
「だから私は桜の全部が知りたい。まだ、本心を全部出すのが不安だっていうのなら、それはきっと私のせい。桜が安心してもらえるように、もっともっと、桜が好きって言い続けるから」
桜は、きっと不安なんだ。私には絵がある。意味がある。それがある限り、迷わない。けれど、桜が手に入れた演技という逃げ場所は、本当にただの対処療法だった。本心を隠すための、ただのカーテン。だから、それがなくなってしまえば本来の桜が見え隠れする。不安になる。
「でも」
「でもじゃないよ。私は、桜だから、こういうことされてもいいって言ってるんだよ?」
私が好きだから。好きな人が、求めているから。私はいいよって言う。これが、私の全てだ。私が、桜に対して言えることの全て。私は桜が好きで、好きだから桜を知りたい。少しだけ言葉のない時間が流れた。破ったのは、桜の方から。
「みのり」
「なぁに」
「わたしは、さ」
する、と胸元に置かれていた手が私の背中に回る。軽く持ち上げられるような感覚。私はそれに合わせて、上体を起こす。もう一方の腕も、私の背中に回ってきた。とても柔らかいハグだった。私も、そっと腕を回す。
「私は、みのりの熱の籠もった視線が好き」
ぎゅ、と抱く腕に力が入ってくる。
「キャンパスに向ける刺すような視線が、景色を見るときのあったかい視線が、貫くほどの、世界に穴を開けるほどの、その熱の籠もった視線が、好き。その情熱が、かっこよくて、すごくて、すき」
「うん」
「でも、私は、欲張りだから。いい子じゃ、ないから」
「私は好きだよ」
ぶつ切りの言葉が、桜にとってどの程度の重みを持っているのかを表している。対面でハグをしているから、桜の表情は見えないけれど、見られたくないんだろうなというのは分かった。
「その、視線が、熱が、私にも向いてくれたらなって……それだけ。何番目でもいいから、私を見てほしいって……それだけ」
それが、きっと、桜の私に言えないこと。
「んー、それだけ、か」
「…………」
「なら、大丈夫。確かに、私はいろんなものに目移りするけど──」
これまで、いろんな物を私の目で見てきた。人によって見え方が違うのは当たり前。それでも、私にとっての世界の見え方っていうのは、人とかなりズレているんだろうなって思っていた。前までの私にとっては、全てがキャンパスの中にあるもの。キャンパス越しに見ていた、色彩とタッチだけの世界。今の私には、そこに逃げるべき対象というのも加わっている。現実逃避、私の原点。それでも──。
「私の専属モデルは、桜でしょ?」
「それは……」
「それに」
言うのが恥ずかしい。私だって、こういう感情はある。いっつも感情表現が苦手なだけで、いざこうやってやろうとしてもストレート以外の球を投げられないから、本当に下手くそなんだと思う。だって、数年前から私にとって感情表現は創作だったわけだし。ずっと、あの頃から止まったままだ。それでも、私にできる最大限の愛してるを。
「”好き”の視線を向けられるのは、桜だけだから」
綺麗だとか、不思議だとか、興味深いだとか──そういう視線を、私は色々なところに向けているのかもしれない。桜が言っているのは、きっとそういうことだと思う。けれど、私が”好き”の視線を向けるのは、後にも先にも桜しかいない。私にとっての好きは、桜が全部だから。
今度は、私の方からキスを落とした。優しく。できるだけ、優しく。私の気持ちが、じんわりでいい。少しでいいから、伝わるように。
「ねぇ、桜」
私は、桜が好きだよ。
「私は、好きな人のしたいことを知りたい。本心を見せたくないのかもしれないけど、私はさみしいよ。私は、絶対、桜のこと嫌いになんかなれないよ」
私しか、いないでしょ。
「私も、もう」
桜しか、いないよ。こんな私を、好きでいてくれるのは。ずっと、一緒にいてくれるのは。その言葉に、桜はキスで応じてきた。普段するよりも、深い。厚い。熱い。視線を塞がれる。桜は、たまにこういうキスをしてくる。感覚が唇に集中するから、少し、恥ずかしい。手を握られる。逃さないとも言われているようだし、甘えられているようでもある。
「私は、不器用だから」
桜が、小さな声でそう言った。本当に、真正面で、近距離で聞いている私にしか聞こえないような声。そばに誰かがいたとしても、きっと誰も聞き取れない。私たちだけの、会話。
「いい子でいなきゃって……そう思ったら、自分の全部を覆い隠すくらい、細かい調整ができない。そんな、不器用な子だから」
「そう?」
「うん。だから、私、がんばる」
全力を出すという決意表明と言うよりも、今から私に対して尽くそうという意思表示に感じられる。
「いいんだよ? そんな気を遣わなくても、私は、桜のしたいを知りたい」
「そうはいかないでしょ。こういうのって、絶対、お互いを満足させるようにしたほうが”いい”だろうから」
「……詳しいね?」
「詳しくない」
まぁでも、桜の言うことにも一理ある。私がいつまでも受け身だと、桜も大変だろう。それに、こういうのって、自分の愛してるをたくさん伝えるいい機会だろうし──。
「じゃあ、私もがんばる」
そっと、私は桜の肌を撫でた。
それからは、全部が流れるように過ぎていった。全部が初めての感覚。最初は理性的な接触のやり取り。柔らかいもので、温かいもの。でも、段々と熱が籠もってくる。特に桜はその熱が高いみたいで、私が灼かれてしまいそうなくらいだった。理性がどんどんと熱によって奪われていって、私たちはより素直になっていく。普段はいわないようなことも言う。普段はしないようなこともする。お互いがお互いを大切に大切にと思っていたが、やがて何かの跡が身体に残されていく。それを愛おしく思う。これが消えるまではずっと心まで繋がっている気がして、そこからはお互いに跡をつけていったりもした。やることなすこと全てがむちゃくちゃで、でもそれがきっと私たちのやりたいことだから。
唇を重ねたり、首を舐めたり、鎖骨を噛んでみたり。それだけじゃないけれど、こうやって一つ一つ相手のことを知覚する、というのが幸せだった。そうやって相手の全身がどうなっているのかを確かめて、頭の中に描き出す。「すき」と、どっちが言ったのか、わからないけれど。それを皮切りに好きだとか、桜とか、みのりとか。段々と、言葉は今必要なものにだけ絞られていく。名前と、気持ちを伝える言葉だけあればそれでいい。
どれくらいの時間、お互いを求めたのかわからない。冷めやらない灼熱が、やがて満足したように萎んでいく。交換した熱が定着するように、そこで落ち着くようになると、ようやく私たちは眠気を受入れ始めた。その心地よい熱にもたれるように、ベッドへ倒れ込む。その心地よい熱を保つように、ハグをする。緩く、意識が落ちていく。
「おやすみ……」
自分の口から出たのか、桜の口から出たのか。その判別すらつかないくらいの小さな言葉。疲弊し茹だった頭は、枕へと沈んでいく。
「こうだったらいいなって」
「ふーん、君は小説を書くのが上手い!」




