第六話
身体が破裂するのではないかと思うような轟音が鳴り響くと、渚は自分が空気と同化するような不思議な感覚を味わった。まず自分の肉体が消えて、そこから生まれ出る五感が消えた。真っ暗で温度も感じない空間にいる事を自覚すると、自分は死んでいないという自覚が目覚めた。渚は目を開けたが、視界は真っ暗で、自分がシートに包まっているという感覚だけがあった。
転移の衝撃を和らげるために、保護シートを被った事を思い出した渚は被っていた保護シートを剥いで、周囲の状況を確認した。転移の時に周囲の空気の温度が変化したのか、辺り一面は白い靄に覆われていた。すると隣でシートに包まっていた惇哉も姿を現して、取り付けていた耳栓を外した。惇哉の行動に気づいた渚も続けて耳を外すと、音の通りが良くなって急に感覚が鋭くなったような気分になった。
「ケガはない?」
惇哉が渚に訊いた。
「大丈夫。私たち、異世界に転移したの?」
「おそらくね。転移装置のタイマーの確認をしよう。それとウェアラブルカメラのスイッチも入れないと」
惇哉がそう言うと、二人は左腕に付けた腕時計型タイマーと、背後にそそり立つ転移装置のタイマーの数字を確認した。両方とも液晶板タイマーの数字は七一時間五六分三四秒を表示している。異世界に転移してまだ五分も経っていない事が判った。
「タイマーが作動しているから、間違いなく異世界に転移しているはずだ」
惇哉はそう渚に言い聞かせると、転移装置のタイマー表示板のタッチパネルを操作した。すると転移装置は開かれたアンテナ部分を油圧で閉じて、そのまま折り畳み傘のように縮んで、地面に埋め込まれた部分に埋まった。
「これって小さくなるの?」
突然知った転移装置の機能に、渚は思わず声を上げた。
「ああ、島嶼部や海底に設置する埋め込み式の電波傍受装置試作一号機を改造した奴なんだ。内部バッテリーは、同じく開発中徘徊型潜水ドローンの動力装置を改造した奴を使っている」
惇哉はそう渚に説明しながら、マガジンポーチから実弾入りの弾倉を取り出して89式小銃に取り付け、チャージングハンドルを引いて初弾を薬室に装填して構えた。靄が晴れるまで、何が起こるか分からず、二人は身構える事しか出来なかった。
次第に靄が晴れてくると、頭上から太陽らしき光星の光を感じた。異世界の光は地球の光と大差がないらしいと渚が思うと、彼女はF1コンストラクターチームのキャップと日焼け止めスプレーを持ってきた事を思い出し、被ろうと思って転移装置の傍らに置いた自分のリュックサックを手に取った。それと同時に、それまで二人の周囲を覆っていた靄が急速に晴れてゆくのが気づいた。
靄が完全に切れると、そこははるか遠くまで地平線が広がり、青空と雄大な草原が続く場所だった。ユーラシア大陸の中央部、イランから黒海にかけての地域によく似ている光景だと惇哉は思ったが、自分たちが知っている日本の光景とは全く異なる物だった。
「ここが、異世界なのか」
惇哉は思わず感想を漏らした。自分たちの住む地球と似た環境がある可能性があると知識として習っていたとはいえ、ここまで地球と似ているとなると、地球上の知らない何処かへとテレポーテーションしてしまったかのような錯覚になった。それくらい、惇哉の目の前に広がる光景は雄大で、美しかった。
渚が自分のリュックサックからキャップを取り出して被り、スプレー式の日焼け止めを腕と首に散布して視線を上げると、見覚えのある建物が彼女の目に映った。風雨に晒され、外壁の清掃を何年も受けていなかったせいで、酷く外壁が汚れて廃墟のような外観だったが、それは渚と惇哉が通っていた市立第三中学校の鉄筋四階建ての校舎そのものだった。
「新田君、見て」
渚は大声を出したつもりだったが、驚きの感情と喉の歯車がかみ合わず、奇妙な声で惇哉を呼んでしまった。その声に異変を感じた惇哉が渚と同じ方向を振り向くと、惇哉も姿を現した市立第三中学校の校舎を見て、喉を凍り付かせた。惇哉から言葉が出なかったのは、自分の中で必死に埋め合わせようとしていた喪失感の象徴が、突然風化した姿で目の前に現れたからだった。その押しつぶされるような驚きは渚も同じだった。
「あれ、三中だよね?」
渚は目の前に現れた校舎を凝視しながら、探るように惇哉に質問した。
「ああ、間違えるものか」
惇哉は自分を落ち着かせるような口調で渚に応えた。
「何か、すごく荒れ果てているみたいだけれど、人はいるのかな?」
「わからない」
渚の疑問に惇哉が答えると、彼は一呼吸置いてからこう続けた。
「とりあえず、中に入って調べてみようか?」
「そうだね。何かわかるかも」
「俺が先頭に立つから、着いて来て」
惇哉が言うと、渚は彼の後に続いて校舎へと向かった。二人にとって三年四か月振り、それも異世界に転移して初めての母校訪問だった。