第三話
夕食の後、渚は外の気温が下がったのを見計らって、ハーフヘルメットを前後逆に被ると、エイプ一〇〇を駆り忽然と姿を消した市立第三中学校の跡地へと向かった。夜の街をオートバイで走るのは初めてではないが、自分から意識して、自分の出身校に足を向けたのは初めてだった。市立第三中学校の生徒だった時に、夜に出てコンビニや友達と待ち合わせた経験はあったが、それらの思い出は学校そのものの消失と共に過去の物になったはずだった。だが新田惇哉という、同じように悲劇を生き延びた人間が、かなりの社会的身分を手に入れられる環境にいる事を知って、渚は今までの自分と今の自分をもう一度見つめなおしたい衝動に駆られた。その衝動が、すべての転換点となった中学校跡地へと渚を向かわせていた。
五分ほどエイプを走らせると、建築工事用の白いフェンスで覆われた市立第三中学校跡地にたどり着いた。フェンスの囲いの向こう側には、無理やり皮を剥いでそのままにしてしまったような、痛々しいむき出しの地面が広がっている。ここに多くの生徒が通い、成績や友人関係の事で一喜一憂する日々が営まれていたというのに、たった一日、急な天候変化があっただけで消え去ってしまった。もし学校の消失が無く、クラスメイト達と交流を続けていたら、全日制の高校に通い、大学進学を目指して勉強をしていただろうかと渚は考えた。ありきたりな進路から生まれる人生だったが、今となって遠い異世界の出来事を描いたフィクションのように思えた。
校舎と共にいなくなった学校の皆はどうなっているだろうか、この世に居なければ、みんな死んでしまったのだろうか、もし輪廻転生や死後の世界があるとすれば、彼らは何をしているのだろうか?と、渚は胸が苦しくなった。
胸が苦しくなって、このままでは涙が浮かんでしまうと思った渚は、過去に縛られるのは良くないと思って、家に戻る事にした。
次の日の仕事は、渚にとって初めての部品交換の仕事だった。リフターで上げられた三代目アルファードに社外品の四本出しマフラーを、先輩の助手として取り付ける作業だった。機械で持ち上げられた自動車の下に潜り込んで、自動車整備士らしい作業をするのは初めてだったから、不安と興奮が半々で入り混じる、不思議な高揚感を持って作業をする事が出来た。その高揚感は、渚が今までの人生で体験した労働行為の中で、未体験の高揚感とも言うべき、人生に新たな飛躍をもたらしてくれる類の昂ぶりだった。
先輩と共に作業が終わると、渚は乾いた喉を潤す為に事務所の冷蔵庫へと向かった。冷蔵庫から冷えたミネラルウォーターを一本取り出して飲みながら、自動車整備業や中古車販売の許可証と共に壁に掛けられた時計を見る。時刻は午後四時四七分、まだアルバイトの渚にとってはもうすぐ定時の時間だった。
水を飲んで一息つくと、作業服のポケットに入れたスマートフォンがメッセージの着信を報せた。取り出してロックを解除すると、新田惇哉からのメッセージが入っていた。
「こんにちは、バイトは終わりそう?」
メッセージの内容は当たり障りのないものだった。渚は素っ気ないメッセージは素っ気なく返すのが一番だと思い、「もうすぐ終わるよ」と返信した。
「了解、それじゃあここで会おう」
惇哉は返信の後、マップアプリの位置情報が記されたリンクを送信してきた。そこは何年も前に潰れた、地元のパチンコ店の駐車場だった。分かりやすい場所だったが、若い男女が会うにはムードが無さすぎる場所だと渚は思った。
「ここなの?」
渚はもう一度確認のメッセージを送った。人気のない場所に若い女を呼ぶことなど、邪な考えと深く結びついているのは当然の事だと渚は思っていた。
「大丈夫、変な事はしない」
惇哉の返信はすぐにスマートフォンに届いた。もし目の前に彼が居たら、真面目な顔つきで同じセリフを言うだろうと渚は思った。
「会って欲しい人がいるんだ。陸上自衛隊の人で、俺の上官なんだ」
惇哉は続けてメッセージを渚に送った。送られたメッセージに入っていた「陸上自衛隊」「上官」という言葉を見て、渚は惇哉が甘やかされた一般人ではなく、自衛隊という国家組織に属している人間なのだと改めて自覚した。
「へんな勧誘とかじゃないよね」
渚はさらに質問した。お互い突然の消失を免れたとはいえ、当時から特別に仲が良かった訳ではない。〝生存者〟という共通点が、渚と惇哉の結びつきを強くしているに過ぎなかった。
「違う。信じて」
短いメッセージの後、惇哉はさらに続けた。
「俺と君が唯一生き残った、第三中学校の事についてなんだ」
スマートフォンに現れたその言葉を見て、渚は胸を射抜かれるような衝撃を覚えた。三年間、ずっと埋め合わせようとしていた喪失感の核心的な部分が、自衛隊という組織に所属した惇哉によって掴めるかもしれないと渚は思った。
「簡単には、話せないような話なんだね?」
探るように渚は返事を送った。自分だけでなく惇哉の過去にも関わる事だから、慎重になるのも当然だった。
「そう、だから来て」
惇哉の言葉に、渚はこう答えた。
「仕事が終わったら、必ず行く」
仕事が終わると、渚はエイプ一〇〇に跨って指示されたパチンコ店跡地へと向かった。何時に終わるか分からなったので、母親には「出かける」とメッセージはあらかじめ送っておいた。日は西に傾き始めて、多少日差しと暑さは和らいだが、快適に過ごせるほどの気温と湿度ではなかった。
仕事の工場から交差点を二つ曲がり、国道から二車線の県道に入る。県道に入ってミラーを確認すると。背後に昨日、仕事場の前からフルフェイスのスクリーン越しに嫌な視線を送ってきたFZ1フェザーが、ぴたりと五〇メートルの距離を保って追ってくるのが見えた。この距離を保ちながら後を追いかけてくるのは、あのバイクも関係者だろうと渚は思った。
五分ほど県道を走ると、惇哉が来るように指示した潰れたパチンコ店の前にたどり着いた。どんな理由なのかは分からないが、普段なら入れないようにロープが張られている駐車場入り口にはロープが張られておらず簡単に入ることが出来た。駐車場に入ると、私服姿の惇哉ともう一人の男が、駐車場の真ん中に停められたパールホワイトのプジョー・3008の脇に立っているのが見えた。惇哉は渚の事を見つけると、親しげに手を上げた。その様子を見て、渚は惇哉にまだ少年の心が残っているのだと少し安堵した。
渚がエイプを止めると、後を追いかけてきたFZ1フェザーも駐車場に入ってきて、渚のすぐそばで停まった。渚がエンジンを切ると惇哉が駆け寄ってきて、背後のFZ1フェザーも同じようにエンジンを切った。
「ありがとう、来てくれて」
ジーンズに陸上自衛隊の迷彩Tシャツという姿の惇哉は昨日とは打って変わってしおらしい様子で、やって来た渚を出迎えた。昨日会った時、彼は制服姿で整った印象があったが、自分より上の人間が居ると、少年らしさが出てしまうのだろうと渚は思った。彼女は釈然としない様子でヘルメットを脱ぐと、惇哉の傍らにいた、二十代後半らしき男が近づいてきた。
「こちらの人は?」
渚は近づいてきた男を見て質問した。
「俺は陸上自衛隊陸上総隊所属、中田翔壱一等陸曹だ」
男が中田一等陸曹と名乗ると、今度はFZ1フェザーから降りてきた人間がフルフェイスヘルメットを脱いで近づいてきた。渚が振り向くと、自分を追いかけてきたライダーが女であった事に、彼女は驚いた。
「同じく陸上自衛隊は陸上総隊所属、二等陸尉藤原美咲。よろしく」
藤原美咲と名乗った女性自衛官は得意げに自分の所属と声明を名乗った。まるで映画に出てくる女スパイのようだと、渚は思った。
二人の視線を感じながら、渚は惇哉の事を見た。自己紹介をした二人はすでに成人しており、海外で任務に従事した経験がある人間なのだろう。眼差しや言葉に〝本物〟だけが持つ凄みが宿っている。それに比べれば、自分と同世代の惇哉はただの雑兵、初陣で武器を抱えて震えている小童のような弱々しさがあった。
「会って欲しい人は、この人たちなの?普通の自衛官には見えないけれど」
渚が惇哉を見つめたまま漏らすと、渚の背後に立っていた藤原が小さく噴き出した。
「まあ、こんな登場の仕方をしたら普通じゃないって思われるわよね。一応オフィスは朝霞駐屯地にはあるけれど」
藤原の言葉に、渚は敵意を抱いた。この人間がどんな自衛官なのかは分からないが、公務員の税金を使った冗談に付き合う事には、渚は付き合いたくなかった。
「会って欲しい人は車にいるんだ、こっちに来て」
惇哉はそう言って、駐車場に停められたプジョー・3008に向かうよう促した。今時流行りのミドルサイズのSUV、それも白のフランス車をチョイスするあたり、自衛官らしくないセンスの持ち主だろうと渚は思った。
渚は後部座席に乗り込もうとしたが、惇哉が助手席のドアを開けて入るように促されたので、助手席に乗り込んだ。促した惇哉が後部座席に乗り込むと、運転席に三十代半ばらしい男が座っていた。この人が会って欲しい人物なのかと渚が思うと、助手席の傍らに藤原が立って、渚は簡単に逃げ出せなくなった。後部座席に座った惇哉が銃を突き付けて来る事は無いだろうが、返答次第ではそういう事になるという事を、渚は過去に観た犯罪映画で知っていた。
「この人が、会って欲しい人?」
渚は後部座席に座る惇哉に質問した。
「そう。もしかしたら俺のボスになるかもしれない人」
惇哉がそう答えると、運転席に座っていた男は小さく鼻で笑った。
「今後の展開次第では使ってやってもいい」
男が小さく答えると、彼は渚の方を向いてこう続けた。
「陸上自衛隊の岡谷一俊三等陸佐だ。所属は先程自己紹介のあった二人と同じ」
「プジョーのSUVを選ぶなんて、なかなかいいセンスですね」
渚はやや憮然とした態度で答えた。テロ容疑者のように扱われるのは、人生で初の体験だったから仕方なかった。
「ありがとう。こいつは四台持っている内の一台なんだ。他にS15シルビアとE38のBMW・750ⅰLに、EP3のシビックタイプRも持ってる。それに大型バイク二台と二五〇のバイクも一台」
「すごいですね、自衛官ってそんなに儲かるんですか?」
「俺が平和の為に担当する任務は、ハイリスクハイコストでね。自衛官としての基本給以外にもリターンがあるんだ」
岡谷は自慢するように渚にいうと彼女の方を見た。渚は岡谷の相手を観察する眼差しに気圧されて、それまでの不満や疑念が吹き飛んでしまった。
「君にも、俺みたいにハイリターンの仕事を引き受けて貰いたい。もちろんそのリターンに見合うだけのハイリスクはあるがな」
岡谷はごく自然に渚に迫った。人生経験がまだ浅い渚はハイリスクという言葉に怯えたと同時に、ハイリターンという言葉に興味を引かれた。
「どんな仕事ですか?テロリストのアジトに潜り込むとか?」
渚は動揺を押し殺して、岡谷に質問した。
「まあ、似たようなもんだ。だがテロリストのアジトではなく別の場所だ」
「それじゃあ外国?」
「違う」
「何ですか?」
もったいぶって返事をしない岡谷に向かって、渚はじれったくなった。
「君が通っていた市立第三中学校がある場所だ」
岡谷が冷静な口調で切り出した言葉は、渚のじれったい心情を落ち着かせるのに十分な力を持っていた。昨日、同じクラスだった新田惇哉が現れたのも、過去を思い出して学校の跡地に向かったのも、全てはこの瞬間を迎えるための物だったのかもしれないと渚は思った。
「俺たちが通っていた、市立第三中学が消えた理由が判ったんだ。そしてその場所に、唯一残った君と俺が行くことになった」
後部座席の惇哉が続けた。一緒に中学時代を過ごしていたクラスメイト達が校舎ごと消失した理由はいまだに不明だが、消失した後、校舎があった場所を調査した組織に自衛隊があったが、その後も調査を続けた結果、新たな事実が分かったのだろうかと渚は思った。
「消えた理由が判ったんですか?建物とそこにいた人間が消えてしまった理由が」
渚は自分の動揺を押し殺すように、岡谷に質問した。昨日と今日に起きた様々な出来事によって渚の感情は乱れ、高ぶっていた。
「消えた理由は判ったが、すぐには話せない」
岡谷はまた意地悪をするように、渚が求める答えを遠ざけた。渚はさらにじれったくなった。
「なぜですか?」
「今から言うハイリターンの仕事を引き受けて貰う事に、イエスと答えなければ教えられない」
岡谷は、じれた渚を落ち着かせるような言葉で語った。彼の言葉の「ハイリターン」の前にある「ハイリスク」という意味に気づいた渚は、またしおらしくなった。渚が落ち着いたのを確認した岡谷は、前を見てこう続けた。
「まず引き受けてくれた後に支払う報酬から言おう。君は免許がないのにロードスターを持っているな、それの免許取得費用と、向こう十数年分の維持費と改造費。最低でもベンツ・SLのAMGが新車で帰るだけの報酬を約束しよう」
「大金ですね」
「そうだ。何時までも二十年以上前の一八〇〇の国産車という訳にはいかないだろう?」
「私のロードスターは一六〇〇です。それに車名が三桁までしかないオープンカーより、私はグレードに四桁の数字がある車が良いです」
やや憮然とした態度で渚が答えると、岡谷は何を思ったクスクスと笑みを漏らした。後部座席の惇哉は、渚と岡谷だけが繰り広げる会話についてゆく事が出来ず、ただ茫然と見つめる事しか出来なかった。
「俺の知り合いにも、未だにセミオートに切り替えずボルトアクションに固執する奴がいるんだが、似たような価値観だな。気に入った」
岡谷は自信に向けられた渚の言葉に対しての感想を述べたあと、渚の事を見てこう続けた。
「他に何か質問したい事は無いか?」
「仮に仕事を引き受けたら、どれくらいの時間その仕事に私は拘束されますか?」
「三日間だ」
「ずいぶん開きがありますね」
渚はさらに続けた。
「消えた第三中の所に行くからな、まだ細かい日程とか段取りが決まっていない」
「つまり、すごいハイリスクな案件なんですね?命の危険が伴うような」
「まあな」
「それなら、報酬は成功ではなく前金で半分ください」
急な提案をしてきた渚に、後部座席の惇哉は驚いて声を掛けようとしたが、出来なかった。
「前金で半分、終わったら成功報酬で半分か?」
岡谷が答える。
「はい、それなら引き受けます。私には家族が母一人しかいないので。それに消えたクラスメイト達の事が判るなら、多少のリスクは覚悟します」
覚悟を決めた渚の言葉には、硬い決意が宿っていた。その横顔を見た惇哉は、自分が高等工科学校に入校した時、ここまで覚悟を決めた人間の表情だっただろうかと思い返した。
すると、そんな惇哉の疑問を見透かすように、渚が後部座席の惇哉を見た。目が合うと、渚の真剣な眼差しに惇哉は気圧された。
「新田君も行くんだよね?」
渚の質問はシンプルな内容だった。死ぬかもしれない事に身をささげる。それは自分が人間として、自衛官として試されていると惇哉は思った。
「行くよ。自分の過去に関わる事だから」
惇哉も静かに答えた。その返事に納得した渚は、岡谷の方を見て「引き受けます」と答えた。
「よし、それならさっそく取り掛かろう。詳しい説明をするからシートベルトを閉めろ」
岡谷がそう告げると、渚はシートベルトを締めた。それと同時に岡谷は窓を開けて周辺警戒に就いて居た藤原二尉にプジョーに乗るよう指示した。藤原二尉は後部座席のドアを開けて、惇哉の隣にあった黒いフルフェイスヘルメットを中田一曹に手渡した。
「バイクじゃないんですか?」
渚は乗り込んできた藤原に訊いた。
「あれは中田一曹の私物なの。これ、あなたのバイクのカギね」
藤原はいつの間にか引き抜いた渚のエイプのキーを渡した。渚がそれを受け取ってポケットにしまうと、四人を乗せたプジョーはどこかへと走り出した。