第二話
午後の仕事も終わり退勤時間になると、渚は通勤と通学に使っているホンダ・エイプ一〇〇に跨った。跨った瞬間、先程のFZ1フェザーのライダーから投げつけられた嫌な眼差しの事が頭に浮かんだが、気にせず家に帰る事にした。
日が傾いても、渚を乗せたエイプが走る二車線の県道はまだ暑いままだった。水を張った水田や、近くの雑木林の間から風が吹いてくるが、湿っていても生暖かいものだった。
「ただいまー」
渚が珍しく寄り道せずに家に帰宅すると、玄関に見慣れない革靴が一足、綺麗に揃えられて並んでいるのが見えた。気になってその革靴をよく見ると、どこかの私立学校の制服の靴らしい。渚は自分の家にそんなお堅い身分の人間が来訪するだろうかと思いながら、靴を脱いで玄関に上がった。
「ただいま、誰か来ているの?」
渚は何が起きているのかを確認するかのように、声を出してリビングに入った。すると、リビングのソファーでは母と、きちんとアイロンがけされた白い半袖シャツと黒い制服ズボン姿の、見覚えのある後ろ姿の少年が座っていた。
「新田惇哉君?」
渚は座っている少年の名前をフルネームで口にした。新田惇哉と呼ばれた少年は、渚の立つ背後へと振り向いた。
「こんにちは。久しぶりだね、島原さん」
惇哉は渚の苗字を静かに口にした。その物腰は渚が歩んできた生活リズムの世界で育まれた物言いではなく、規則正しく厳しい規則によって生活を送る事で作られた口調だった。そのあまりにも畏まった口調は、渚に再会の喜びよりも驚きを与えるものだった。
「こっちこそ久しぶり」
渚は何かをごまかす様に答えると、惇哉の前に座る母がこう声を掛けた。
「新田君、中学を出た後に自衛隊の学校に入ったのは知っているわよね。三年生になって、今年最後の夏休みだから家に来てくれたんだって」
渚の母はどこか懐かしそうな言葉で、惇哉が島原家に来た理由を答えた。その事をきっかけにソファーの上のテーブルに視線を送ると、陸上自衛隊の高等工科学校の黒い制帽が置かれているのに気づいた。
「わたし、自分の部屋に荷物を置いてくるから、ちょっと待っていてね」
渚は自分でも久しぶりだと感じるくらい、ドギマギした年頃の娘のような口調で語ってから部屋に戻った。
部屋に戻り作業服から部屋着に着替えると、渚はそれまで痛むことのなかった、胸の奥の古傷がしくしくと疼き、やがて鈍い痛みへと変化してゆくのが分かった。
三年前、彼女と惇哉が通う市立第三中学校は、昼頃に急激に悪化した天候の後、雷に打たれて忽然と校舎と中にいた三年生の生徒二十八人が消えてしまったのだ。事件の後、警察や教育委員会にとどまらず、文部科学省に科学技術庁、さらには防衛省までやってきての大調査が行われたが、消えた原因はいまだに解明される事は無かった。
学校が消えたあと、学校に居なかった一年生と二年生はクラスごと別の学校に転入したが、二人だけ生き残った渚と惇哉だけは、市立第三中学校の生徒という事を伏せて、別々の学校に編入された。編入後は特に連絡を取り合っている訳ではなかったから、こんな形で過去のクラスメイトと再会するなど、渚には思いにもよらない出来事だった。
校舎が消失した当日、渚が巻き込まれなかったのは、単に学校に行く気が失せて、学校をズル休みしたからだ。当時の動機としては非常に不純なものだったが、その後に起こった出来事を考えたら、小さなミスで大きな失敗を犯したような衝撃を感じたのを覚えている。学校が消えたのは自分の判断に基づく行動ではないし、学校が消失しろと念じた訳ではないが、実際に起きた事と当時の自分の心情の乖離が大きすぎたせいで、自分だけ仲間を見捨てたような、ひどい罪悪感にさいなまれたのを覚えている。その罪悪感は渚から思春期の輝きを奪って、残りの中学生生活を空虚な物に替えてしまった。地元の友人も消えて進路のことを日常会話として話せる相手が存在しなくなったのだ。
喪失感に支配され、高校、大学へと進学する未来を描けなくなった渚は進学や学歴を持つことに興味がなくなってしまった。それでも高校は卒業しておいた方がいいと周囲から勧められ、とりあえずそれまでの学区から離れた地域の定時制高校に入学した。
入学した定時制高校では、渚とは異なる事情で凄惨な環境に追い込まれた同世代の人間たちが多く居たが、逃げ出したくなるような恐怖や体験は起きなかった。むしろ、同世代でありながらエレキギターやドラムなどの楽器の演奏技術を身に付けてバンドを組みステージの上で演奏を披露したり、暴走族OBの家庭に生まれたという理由で幼少期からバイクや自動車に親しみ、それに関する技術や知識を身に付けている同世代の人間がいる事に渚は衝撃と尊敬の念を抱いた。制服を着て学校に通う事が出来なくとも、自分たちで目標や生きがいを作り出して日々を過ごせるという事実に気づいた渚は、今までの淡白な自分を書き換えるべく、以前から興味があった自動車関係のアルバイトを始める事にした。そうして今のアルバイト先を見つけ、アルバイト先で稼いだお金で普通二輪車の免許を取り、普通自動車免許を取る前に、一六〇〇の二代目ロードスターを購入して、無免許だが積載車に搭載してサーキット等で乗り回す行為や、その事を新たに知り合った仲間たちと話す日常を送る事は、渚にとって三年前の衝撃、喪失感と罪悪感を覆い隠すための行動であり、これからの人生を歩んでゆくために必要な行為だった。
過去の自分からは想像もつかないような判断を下して、それに基づいた行動を重ねて過去と決別したはずの渚にとって、同じように消失を免れた新田惇哉という同級生が、陸上自衛隊の高等工科学校の生徒という形で目の前に現れたのは、覆い隠したはずの過去をよみがえらせるのに十分な衝撃を持っていた。
着替えを済ませて、渚は再びリビングに降りた。ソファーでは、先程よりも表情が柔らかくなった制服姿の惇哉が渚を待っていた。
「お待たせ」
渚は小さく言って惇哉の前に座った。初め真正面から見た惇哉の姿はとても凛々しく、礼儀正しさを身体に叩き込んでいるような印象があった。きちんとアイロンがけされた襟付きの白いシャツ、短く刈り込まれた髪型が、惇哉がストイックな環境にいる事を強く印象付けさせた。具体的な事は分からないが、惇哉もこの三年間、過去の自分と決別するための判断と行動を必死に繰り返しているのが、渚にも分かった。
「悪いね、最近どう?」
最初に口を開いたのは惇哉だった。同じクラスにいた時は、惇哉が自分から話を切り出すようなタイプの人間ではないと思っていたので、渚は少し驚いた。
「最近?順調だよ」
渚は当たり障りのない返事で濁した。自分が定時制高校に通いなら、自動車販売と整備を行う工場で働いている事を口にするのは、抵抗感があった。
「車屋さんで働きながら、定時の高校に通っているんだってね」
惇哉は渚が今送っている日々の概要を、さらりと彼女に伝えた。その事に渚は少し驚いた。
「どこで知ったの?」
「お母さんから聞いたよ。バイクの免許も取って、一〇〇ccのバイクで通勤と通学をこなしているって聞いたよ。車も買ってこれから免許も手に入れるとか」
惇哉は渚がこの三年間で手にしたものの多くを、本を読んで覚えた知識を披露するように答えた。渚は勝手に自分の事を語った母を少し恨めしく思ったが、惇哉が自分の事を知っていると思うと気が楽になった。
「まあね、機械とか操ったり、自分で移動できる手段が手に入ると結構楽しいよ」
渚は簡潔に答えた。今の自分を自慢するほど、自分が光り輝いているとは思えなかったからだ。そうして惇哉の言葉に応えると、渚は彼のシャツの左胸に付けられた学生のバッジらしい物を見て、こう質問した。
「そっちはどうなの?自衛隊の学校ってどうなの?」
「いろいろな刺激に満ちているよ。全寮制で外部との接触が限られるし、仲間と一緒に共通の課題を達成するのはやりがいがあるし」
惇哉は質問内容に臆することなく答えた。普段から指名されて、答えを返す事が日常の一部になっているからだろうか、惇哉の言葉には澱みが感じられなかった。
「どんな事をするの、自衛隊の学校って?」
渚は畳みかけるように惇哉に質問を続けた。定時制高校に通う女子は珍しい存在ではないが、高等工科学校に通う男子は珍しい存在だった。
「学校と言っても、自衛隊には色々な学校があるからね、幹部学校とか需品学校とか富士学校とか、俺が行っている高等工科学校という学校は、高卒の資格と一緒に自衛官になるためのスキルを身に付ける学校。まあ、昔で言う幼年学校みたいなものかな」
惇哉は淡々と自分が身を置いている環境の事を話した。一つ一つの言葉がぶれずに、自分の言葉で話せるという事は、惇哉がそれだけ一人の人間として成長し、能力を高める事で過去の悲劇を克服しているのだと渚は思った。
「そうなんだ。すごいね」
渚は浮足立った言葉で答えた。渚自身は失った物を新しい物を手に入れる事で克服しようとしている自分が、急に弱くて情けない人間のように思えた。
「戦闘訓練で銃とか撃つの?」
「三年目からね。俺も一応、戦闘訓練と実弾射撃は行ったよ」
「そう」
さも当たり前のように話す惇哉の言葉に、渚は余計に引け目を感じてしまった。実銃に実弾を装填して射撃する行為など、日本では限られた人間にしか許されない。そんな選ばれた環境にいる惇哉という人間に、大差をつけられたと渚は思ってしまった。
「それで、私の家に寄った理由は?」
渚は話題を切り替えようとして、惇哉にまた質問した。
「いや、せっかく地元に戻ったのだから、知っている人に挨拶したくなって」
惇哉はそこまで続けた後、言葉に窮してしまった。彼にもやはり三年前の過去を思い出す事は、自衛隊で実弾を撃つような身分になっても、心に負担を掛けるものらしかった。
「それに、みんなが居なくなって今年で三年だろ、いわゆる三回忌をまだやっていなかったからさ」
「ああ、そうか」
惇哉の愁いに満ちた言葉につられて、渚も同じように頷いてしまった。忽然と、何の痕跡も残さずに校舎ごと消えてしまったかつての同級生たちの事を思うと、もうこの世にいないと思うのが当然だった。
「そうだね、何か弔いの事がしたいよね。このまま就職してさ、社会人になる前に」
渚は独り言のように続けた。彼女は大学に通わず、普通自動車の免許を取得したら自動車整備士の資格を取り、そのまま世話になっているアルバイト先に整備士として就職し、資金が溜まったら独立して自分の店を持とうという、ささやかな目標を彼女は持っていた。
「大学へは、行かないの?」
惇哉は意外そうな声で渚に質問した。もし惇哉の中での渚のイメージがそのままだったら、高卒で就職という手段は取らない。と考えていたのだろう。
「行かないよ。言っても競争にもみくちゃにされて息苦しいだけだもん」
渚が吐き捨てるように答えると、惇哉は納得したのか無言でうなずいた。
「そうだ」
惇哉は思い出したように一言漏らして、こう続けた。
「島原さんの休みは、何時まで?」
惇哉の意外な言葉に、渚は今日が木曜日で土曜日と日曜日が休みである事を思い出した。普段の寮生活で、貴重な夏休みを同世代の異性と過ごしたいのだろうか、と一瞬考えたが来年にはそれぞれの道を歩んで社会人になるのだから、少しくらい付き合っても悪くはないだろうと思い、彼の提案を受け入れる事にした。
「土曜日と日曜日は休みだよ。それがどうかした?」
「それならいいんだ。明日の金曜日は、仕事は何時に終わる?」
「今日と同じ時間。それが何か?」
「仕事が終わったら、来て欲しい場所があるんだ。場所は追って連絡するから」
〝仕事が終わったら来て欲しい場所がある〟という内容の言葉に渚は少し疑問を抱いた。仕事の後に自分を呼びつける場所があるという事は、デートやその他の類ではなさそうだった。
「別に変な事をしたいわけじゃない。会って欲しい人がいるんだ」
「どんな人?」
渚が重ねて質問すると、惇哉は周囲を見回して、渚の母親が居ない事を確認した。だが、どこで耳をそばだてているか分からない様子だったから「ここでは言えない」と小さく答えた。
「一応、俺の方からスマートフォンのメッセージアプリの二次元コードを送るから、友達登録をして」
惇哉はそう答えると、黒い制服のズボンから自分のスマートフォンを取り出して、メッセージアプリの読み取り用二次元コードを画面に表示させた。渚は自分のスマートフォンを取り出して、その二次元コードを読み込ませると、新たに『新田惇哉 自衛官』という名前がメッセージアプリ内に登録された。
「これで大丈夫だ。今確認のメッセージを送るね」
惇哉が「確認用」とメッセージを送ると。渚のメッセージアプリに惇哉からのメッセージが届いた。渚も「大丈夫」という返信を送って、やり取りが完了した。クラスのグループトークでお互いの名前を確認した事はあったが、渚と惇哉がこうやって二人だけのトークルームを設けたのはこれが初めてだった。
「ありがとう。それじゃあ、また」
惇哉はそう答えると、制帽を手に取り帰宅の準備を始めた。要件が済んだらすぐ帰るなんて、ドライではあるが規則正しいなと渚は思った。
渚は母と共に玄関先に向かい、帰宅する惇哉の事を見送った。持ち歩く物が少ないのか、持ち物は標準的なサイズのリュック一つだけだった。
「また後で連絡するから、今日はありがとうございました」
「いいえ、気を付けてね」
送り出した渚の母の言葉に、惇哉は敬礼ではなくお辞儀で答えて、自分の家へと帰って行った。日はすっかり落ちて、夜の帳がすぐそこまで来ている。渚は小さくなってゆく惇哉の背中を眺めながら、彼は何か隠しているという疑問を抱くと同時に、自分の中の三年間の喪失が、急に自分の中で明確な質量を持って自分の心に伸し掛かるのを感じた。
惇哉は渚の家から離れ、彼女の視野から完全に消え去った場所に来ると、ポケットからスマートフォンを取り出し、自衛隊内部のみに置いて使用可能なメッセージアプリを開いて、「終わりました。お互いの連絡先を交換してもう一度会う約束を取り付けました」とメッセージを送った。すると二十秒も経たないうちに、「了解、ピックアップするから予定した地点へ」と返信が届いた。
惇哉はそのメッセージに従って、ピックアップ地点である畑と水田の境目にある雑木林へと向かった。すでに夜の帳が周囲を支配して、聞こえてくる音は未舗装の道路を歩く自分の足音以外何もしない。こういう場所では敵が潜んで、暗視装置で自分の事を狙っている奴がいるから気をつけろと、戦闘訓練時に教官が教えてくれたのを惇哉は思い出した。
まだ誰もいないピックアップ地点にたどり着くと、オートバイのエンジン音が近づいてきた。惇哉はその音が聞こえた方向に振り向くと、オートバイのヘッドライトの明りが見えた。惇哉は手に持っていたスマートフォンのライトを起動し、手を振って輪を描いて合図すると、オートバイは確認のパッシングを二回送った。
やがて白いFZ1フェザーが惇哉の前に停まった。バイクに乗っていた藤原美咲二等陸尉は、スモークスクリーンを開けたフルフェイスヘルメット越しに、惇哉を見た。
「上手く行った?」
「一応は、でも」
「でも?」
口ごもった惇哉に対し、藤原はしかりつけるような眼差しになった。
「何だか、友人を騙すのは気分がよくありません」
まだ幼さが残る惇哉の言葉に、藤原は安堵とも失意にも思える溜息を漏らした。
「人間というのはね、清濁を一緒に飲み込めるようになって成長してゆく動物なのよ。コーヒーが砂糖ミルク無しで飲めるようになるのと同じでね。さあ、くよくよしないで乗りなさい」
藤原に促されると、惇哉は被っていた工科学校の制帽をリュックに入れ、バイクのリアシートに取り付けられていたハーフヘルメットを被り、リアシートに跨った。そうして惇哉は闇に消えて行った。