第一話
島原渚はリフターに上がったダイハツ・ムーヴのタイヤ&ホイールを全て社外品に付け替え終えると、ふうと息を吐いた。空調が申し訳程度に入った作業工場とはいえ、作業を行う工場と車両置き場のシャッターは開いたままだから、空調などあってないようなものだった。作業服屋で購入したファン付きの空調服がなければ、たちまち熱中症で倒れてしまう。だから作業ごとの水分補給と溜息は不可欠だった。タイヤ交換が終わったら、今度はドレンボルトを閉めて新しいエンジンオイルを入れる作業が残っていた。
渚はリフターを降ろしてエンジンオイルを規定量注ぎ、エンジンを掛けてオイルレベルゲージでオイル量を確認し、メーターのチェックランプが点灯していない事を確認すると、作業終了を、事務所にいる店長の熊野に報告した。
「お疲れさま、島原くんは仕事の呑み込みが早いね」
店長の熊野は今年十八歳になる渚をそう言って褒めた。熊野は今年三十五歳になるが、実年齢ほど大人びた印象はない。子どもの頃から自動車関係の仕事に就きたいと思っていた人間だから、それなりの社会的地位があってもあどけなさが残るのかもしれない。と渚は思っていた。
「自動車整備や登録に関係する事は、ちゃんと覚えておきたいですから」
渚はそう答えて、作業工場と事務所を挟んで向かい側にあるシルバーのNB型のマツダ・ロードスターを見やった。あの車は彼女がこの工場に勤めて稼いだ金で買った初めての愛車だったが、渚が免許を持っていない為にナンバープレートが付いて居なかった。一応、ショップの所有する積載車に乗せて、サーキットで走らせた事はあったが公道での運転は、彼女以外の人間が仮ナンバーを付けて運転していた。
「自分で登録から車検までやるんだろう?」
「はい、自分で技術を身に付けたいので」
熊野の言葉に渚は答えた。彼女のロードスターの向こう側にある、熊野が所有する黒いトヨタ・ブレビスも、オーナーである熊野が自分で車検を通し登録した車だった。
「後は免許だけか」
「はい、頑張ります」
渚は朗らかに答えると、事務所から出た。冷房の効いた事務所から灼熱の外に出ると、温度差で一瞬気分が悪くなりそうになった。自分は日差しをしのげる場所で作業できるからよいが、そうでない人は大変だと渚は思った。
すると、工場向かいのコンビニから出てくる一台の白色のオートバイのライダーが、青いフルフェイスヘルメットのスモークシールド越しに、自分の事をじっくり観察するような視線を送っていた事に気づいた。渚は何だと思ってそのオートバイとライダーを見たが、彼女が観察する前に走り去ってしまった。分かったのは、それがヤマハ・FZ1フェザーというバイクだったという事だけだった。