沈黙の色彩
高校三年生の秋、千尋は美術室に一人こもることが多くなった。
彼女は美術部に所属しているが、絵を描くことが好きというよりも、教室の静けさに魅かれていた。
筆を持ち、キャンバスに向かうときだけ、自分の思考がまとまり、日々の雑音が消えるような気がしていた。
だが、その絵はいつも未完成だった。描き始めるたびに手が止まり、
最後の一筆を入れる勇気が持てない。
何かが欠けている。
けれど、自分が何を描きたいのかすら言葉にできない。
そんな彼女の目に留まったのが、
隣の席で描いている男子生徒――黒川だった。
黒川は、少し変わった雰囲気を持つ人間だった。
無口で誰とも話さず、黙々とキャンバスに向かっている。
だが、彼の描く絵は不思議と目を引いた。
線は荒く、構図も独特だが、そこには感情が満ちていた。
怒りや悲しみ、そして光のような希望が混じり合っている。
「黒川君の絵って、なんだかすごく…伝わるね。」
ある日、勇気を出して声をかけた千尋に、彼は一瞬驚いたように振り返ったが、すぐに視線を落とした。
「そうかな。」
それだけだった。
千尋は少し気まずくなり、それ以上話しかけるのをやめようと思った。
だが、数日後、黒川の方から声をかけてきた。
「君の絵、途中で止まってるの、いつも気になってた。」
「えっ?」
「完成させないの、理由があるの?」
その問いに、千尋は返事ができなかった。
自分が絵を描く理由も、途中で手が止まる理由も、自分でも分からない。
ただ「描きたい」という気持ちはあるのに、最後の一筆を入れるときにどうしても怖くなるのだ。
黒川はそんな彼女をじっと見つめ、ぽつりとつぶやいた。
「僕も怖いよ。でも、君の絵、もっと見たいと思う。」
その日から、二人は少しずつ話をするようになった。お互いの絵について、好きな色、描きたいもの。
黒川は言葉を選ぶのが苦手だったが、話すたびに自分の中にある感情を探しているようだった。
一方で千尋は、彼との会話を通じて、
相変わらず絵に最後の一筆は描けないが
自分が感じている「欠けたもの」が何なのかを少しずつ知っていった。
ある日、黒川は自分の絵を持って千尋の前に来た。
「これ、君に完成させてほしい。」
それは、彼が途中まで描いた絵だった。
荒い線で描かれた街並みの中に、何かを待つような人物が一人佇んでいた。
だが、その人物の顔が描かれていない。
「どうして?」と千尋が問うと、黒川は静かに答えた。
「僕には描けない。でも、君なら描けると思うから。」
千尋はその言葉に目を見開いた。
――これは私を試している訳ではない。
普段何の表情も読み取れない黒川の、私を見る真剣な眼差し。
その中に微かに写る不安の色。
自分が感じている不安や迷いと、黒川が抱えるものは似ているのかもしれない。
それでも彼は、完成できない絵を自分に託してくれた。
その信頼が、心を揺さぶった。
数日後、千尋は彼の絵に自分の色を重ね、顔を描き加えた。
絵を持って黒川に見せると、彼は初めて彼女に向かって笑った。
「やっぱり、君にしか描けない。」
その瞬間、目に映る全て、そして心の中にある景色の全てが
極彩色の絵の具で彩られていくのを感じた。
それからというもの、二人は互いの絵を補い合うように描き続けた。
黒川の大胆な線と千尋の繊細な色彩が混ざり合い、
二人の絵はどちらか一方だけでは生まれないものになった。
卒業間近、二人は美術室で一つのキャンバスに向かっていた。
描き終えた絵を見ながら千尋はぽつりと言った。
「完成するのが怖かったのは、多分…自分の中にないものを描こうとしてたからだと思う。」
黒川は頷き、静かに答える。
「僕も。君がいたから、やっと完成できた。」




