東海道
6、東海道
お爺さんの車は有能なナビゲーターを乗せたことでそれまでの行く当てのないドライブから目的地のはっきりしたドライブにかわった。栄を出た2人の車は携帯の地図ソフトでナビゲートされ、東へ進み名古屋インターから東名高速道路に入った。
車内で愛はお爺さんに
「お爺さん、名前が分からないから何て呼べばいいかな。2人だけならお爺さんでもいいけど、もう一人お爺さんがいたらお爺さんでは困るから、何て呼ばれたいかな。」と問いかけた。するとお爺さんは
「何でもいいよ。適当に決めてくれ。」と投げかけてきた。愛は
「それじゃ、福井から来ているから福井さんにしようか。」と決めた。随分適当だった。
高速道路は他の車はみんなほぼ100キロで走っている。しかし福井さんは80キロ以上出さなかった。多くの車が福井さんの車を追い越していく。愛は
「福井さん、もう少しスピード出した方が周りとの調和というか、協調というか、同じくらいのスピードで走った方が危なくないような気がするんだけど。」と言うと「年をとって目も悪くなってるから飛ばさないほうがいいんだ。ゆっくり行っても到着時間はそんなに変わらないんだ。」と諭してくる。頑固な爺さんだなと愛は心の中で感じていた。
車は東に進み三河から静岡県に入り浜松を過ぎ静岡に差し掛かった。2023年のNHK大河ドラマは徳川家康だったが東海道は家康が住んだゆかりの場所が多い。元社会科教師の栄吉は岡崎を通った時も浜松を過ぎ静岡に差し掛かった時も、歴史の知識を話さずにはいられなかった。「岡崎も浜松も徳川家康がまだ松平として領地を治めた場所なんだ。元は岡崎の領主の家に生まれたけど、今川を倒してから浜松に移り、秀吉に江戸へ行けと言われるまで浜松が家康の本拠地だ。江戸で天下統一を成し遂げると息子の秀忠に2代将軍を譲り、自分は駿河の国の国府があった駿府に築城して死ぬまで駿府に住んでいる。駿府は今の静岡市だよ。愛知県の三河地方から静岡県にかけては、徳川家のゆかりの地なんだよ。明治維新で江戸幕府が崩壊すると多くの御家人たちが徳川家の斡旋で静岡県の三方ヶ原などに入植してお茶の栽培を仕事にしたのもその流れだ。」と徳川家と静岡県の知識を愛に授けた。しかし当の愛は車の心地良い揺れで話の途中から寝てしまっているのは栄吉には残念だった。
静岡県は東西にとても長く、走っても走っても静岡県が続く。その点新潟県に似ている。やがて日も陰り夜になったが、車はようやく静岡から富士川を越え、箱根の山を右手に見ながら裾野から山間部に入っていく。御殿場を超えるとまもなく神奈川県に入る。この辺りでは時間は夜中になってきた。神奈川県と言えば湘南の海のイメージがあるが高速道路は山の裾野を進んでいく。愛はずっと眠ったままだが、老人ドライバーの栄吉はひたすら走っている。しかしさすがに疲れてきたところで、海老名サービスエリアの看板が見えた。夜10時を過ぎた海老名サービスエリアは平日だが春休みということで多くの人で賑わっていた。駐車スペースに車を停めた栄吉は愛の寝顔を見て素朴な中学生の素顔を見たような気がした。
「おい、愛ちゃん。お腹すいただろ。何か食べよう。」と声をかけると寝ぼけ眼をこすりながら愛が目を覚ますと目の前の老人に何かされてなかったかが心配で、衣服の乱れがないかチェックした。しかし変化はなかったので安堵した。それと同時に80代の老人なんだからという安心感も改めて感じた。
「何にしようかな。うどんかラーメンかな。ところで福井さん奢ってくれるの?」というと福井さんと呼ばれたこの老人は
「財布にはあまりお金はないけど、カードはあるから何とかなるだろう。」と答えてくれた。愛は
「福井さん、学校の先生だったんだよね。退職まで働いていたらそれなりに退職金ももらってるし、毎月年金だってたくさんもらってるんだよね。たくさん食べようっと。」とあけっぴろげに話した。2人は大きなフードコートでうどん屋さんを選んで2人とも天ぷらうどんを注文したが、愛はおにぎりも追加した。春が来たとは言え夜10時過ぎの海老名は冷えた。その寒さから温かいうどんが2人の顔色を赤らめた。熱いつゆからは白い湯気が立ち上がり、2人は鼻をすすりながらつゆをすすった。
「愛ちゃん、新宿の家出少年たちが集まる場所ってどんなところなんだい。」とお爺さんが聞くと愛は携帯で何かを検索して画像を見せた。
「ここだよ。新宿トーヨコ、TOHOシネマズの横の広場だよ。」と言って画像の説明をした。老人は
「どんな子供たちが集まるんだ。」と聞くと愛は
「家族に虐待されたり、学校でいじめられたりして、居場所がない子供が全国から集まるらしいんだ。私もいろいろあって家に居場所がないんだよ。だから同じような境遇の子と話がしてみたいんだよ。」と初めて自分の境遇をお爺さんに話した。
「そうかい。じゃあ行こうか。」と言ってうどんの丼ぶりを返却所に持って行って、駐車場に戻ると停められている車の多さにびっくりしたが、愛が自分たちが乗ってきた車の場所を覚えていたので、無事に車を発見して乗り込むことが出来た。また車を走らせ海老名を出発して東名高速の本線に戻った。
空は真っ暗だが、道路の脇のライトがまっすぐに伸び、滑走路のようになった夜の高速道路をゆっくりと運転しながらお爺さんは愛に声をかけた。
「愛ちゃん、お父さんやお母さんは何をしてるの?」と聞くと愛は
「2人とも東大出身で豊田の大きな会社の社員だよ。お兄ちゃんも東大目指して勉強中だし、私だけが家で落ちこぼれなの。両親とも毎日忙しくて、朝は早く出ていくし、夜も10時過ぎにしか返ってこないし、お兄ちゃんも塾から帰ってくるのは10時過ぎだし、私は毎日一人だよ。仕方がないからネットのゲームで知り合った仲間と仲良くしてるんだよ。」と彼女自身が感じる生きづらさを吐露した。お爺さんは
「兄妹で比較されるのは辛いかもしれないね。でも人生は勉強だけじゃないからね。愛ちゃんはどんなことが好きなんだい。」と彼女の興味がありそうなことを聞き始めた。愛は今までそんなことを聞かれたことがなかった。
「何が好きって、難しいな。ゲームは好きだけどそんなこと誰だってそうだし、まだ好きなことを決めきれてないのかもしれないよ。将来どんなことをしたいか、もっとじっくりと考えたいな。」と助手席で真っ暗な中に浮かび上がる前の車のテールランプを見つめながらゆっくりと話した。
車は横浜インターを過ぎ東京都へ入っていった。多摩川を渡るあたりで老人が教員だった時代によく言っていたことを思い出したのか
「人は苦手なことを頑張るよりも好きなことを楽しむほうが伸びるんだ。平均点なんか高くなくてもいいんだ。1つのことだけ得意な方が強いんだ。」と先生のような話し方で諭した。言われた愛は老人の方を見ながら興味深くその話を聞いて
「福井さん、良いこと言うね。私みたいに学校へ行かなくなってしまった子でも希望を持てそうだね。みんなそんな風に言ってくれたらいいのに。うちの両親ときたらお兄ちゃんと成績を比べて“お兄ちゃんは5教科で450点よりも落としたことはなかった”とか言うんだ。私は数学だけは得意なんだけど、国語とか英語とかが足を引っ張るんだ。数学だけで受験できるならいいのに。」とやや投げやりな雰囲気で言った。しかしお爺さんは
「数学が得意なんてカッコいいな。みんな数学が出来なくて理系を諦めるんだ。君には才能があるんだよ。」と言ってくれた。愛はそんなふうに褒められたことなんかなかったから何か恥ずかしいようなくすぐったいような感覚で、苦笑いした。
車は東京インターから首都高速に入り都心へと向かっていく。料金所では一瞬金額が見えたが、2人とも気にする様子はない。ETCカードで引き落とされるのでどちらもお金を払っている感覚などなかった。
暫くすると新宿方面左という看板が見えた。
「福井さん、次左だよ。」と愛がナビゲートするとそこは大橋ジャンクション。左に曲がってしばらく行ったところで高速道路を降りた。老人が運転して東京都内に来るなんて無謀極まりない感じがする。しかもナビゲートは14歳の世間知らずの少女。危険だが強い味方はスマホの地図アプリ。愛がTOHOシネマ新宿を目的地に設定すると、高速から降りて一般道を通って20分と出た。深夜2時を過ぎていたが、新宿歌舞伎町の夜は朝まで人通りが途絶えないことを愛もネットの情報でよく見ていた。
車は新宿駅近くの駐車場を探して駐車し、そこからは歩いて歌舞伎町に向かった。
お爺さんは愛の言うままについて歩いているだけだが、愛は所詮14歳の中学2年生なので、そこが日本一の繁華街は目的地ではあるが、恐ろしい伏魔殿でもあることをよく知らなかった。