愛
2、愛
横沢愛は14歳。愛知県豊田市の中学2年生。父の健二は大手自動車メーカーに勤める東京大学出のエリートエンジニアで、母の佳子も同じ東京大学出身だが東京の有名企業でのOL生活を経て、結婚後は同じ自動車メーカー系列の部品メーカーの企画部門でキャリアウーマンとして働いている。兄の剛は名古屋市内の有名私立進学高校の2年生で父や母と同様に東京の有名国立大学を目指して受験勉強に励んでいる。
愛は小さいころから父も母も仕事が忙しく、帰りが遅いので兄と2人で食事することが多かった。母は8時には帰宅するように心がけていたが、父は12時を過ぎることも日常茶飯事。愛が保育園の頃には熱を出して両親のどちらかが休まなければいけない時などは、2人で朝から言い争いが始まり、その声を聴くのが愛にとっては苦痛だった。
愛が中学生になって熱を出すようなことは少なくなったが、中間管理職の年齢になり夫婦のすれ違いがさらに多くなってきた。当然、2人とも家庭を顧みず仕事中心の生活になっていった。高校生で受験勉強一色の剛はほとんど毎日塾に通うので、両親の不在にも影響はあまりなかったが、中学2年生の愛はまだ両親の愛情が必要な年齢だった。
この日も愛が一人で夕飯を済ませると一人寂しく部屋で宿題を済ませてゲームをしていた。「荒野行動」というゲームで集団で戦いあうチーム戦の戦闘ゲームである。ネット上で多くの仲間と知り合いになり、毎日のように同じ時間にネット上で集合して対戦相手を見つけると、激しい戦闘を繰り返した。愛がゲーム機の電源を入れてゲームを立ち上げるとすぐにチャットが入った。
「おはよう、ラブ。元気だったかい。今日も頑張ろう。」というメッセージは怪人28号というハンドルネームの人でどこの人かは知らない。ラブと言うのは愛のハンドルネームだ。しばらくするといつもの5人が集まり、フリー対戦に登録するとすぐに対戦相手のチームが見つかりゲームがスタートした。夜9時に始まり、朝方の5時まで相手を変えながら8時間、15回戦った。精神的にも体力的にもくたくたになった愛は起きられるはずもなく、学校は休んでしまう。両親ともに前夜帰って来たのは10時過ぎで、愛の部屋を覗くこともなく自室で就寝し、朝も早くに出ていってしまった。
愛が不登校状態になって2週間近く経っている。学校が嫌いで行かないのではないが、何日か休むと学校に行っても周りのみんなと合わなくなってくる。愛が久しぶりに学校に行っても、授業中も寝てばかりだし、休み時間にも死んだような目で上の空なのである。元気な中学生の中でハブられるのは当然の結果である。
愛が学校を休むようになって母親の所に学校から連絡が入った。
「愛さんのお母さんですか。担任の浅川です。実は愛さんがこのところ休みがちで、先週は3日、今週も2日お休みです。今日は来ましたが、授業中寝てばかりいます。一度学校の方へ来ていただけませんか。」という電話だった。そんなに休んでいた事実を初めて知った佳子は
「いつもご迷惑をおかけしております。では本日、夕方6時には学校の方へ伺います。」と返答した。佳子にとっては仕事を最大限早く切り上げて行けるぎりぎりの時間を言ったつもりだった。若い女性担任の浅川先生は勤務時間を過ぎてからの個人面談なのでいい加減にしてほしいという気持ちも働いたが、とりあえず了承して、顧問を務める文芸部の様子も見ながら学校で放課後待つことになった。
佳子は会社を出たのが5時半だったが、名古屋から豊田市内までは30分以上かかり、中学校に到着したのは約束した時間から15分も遅れてしまった。職員室を訪ねると浅川先生は座席での事務作業の手を止めて
「横川さんですか、どうぞこちらへ。」と言って隣の相談室へ案内してくれた。
「愛さんですが、電話でお話ししたように、ここのところ休みがちですがご存じでしたか。」と聞かれ、佳子は返答に困った。この2週間、あまり顔を見ていなかったのだ。食事に困らないようにお金は与えていたが、佳子自身が台所に立てるような余裕がなかった。会社でのこのところの仕事がこれからの佳子のキャリアに大きく反映するような、重要な仕事だったからだ。
「恥ずかしい話ですが、そんなに休んでいたなんて知りませんでした。夫も私も仕事が忙しくて、愛のことをあまりかまっていられなかったんです。学校ではどんな様子でしょうか。」と聞き返すと浅川先生は
「ここのところ休む日の方が多かったので学校での様子はあまり見られていませんが、3週間前までもそんなに友達が多いほうではなかったと思います。休み時間も一人でいるところを見ています。さらにこの2週間は学校に来ていても授業中に寝てしまうことがあり、教科担任から叱られることもありました。夜中にゲームをしているというようなことはありませんか。」と心配した表情で浅川先生が聞くと佳子は
「夜中遅くまで起きているんでしょうか。私たちは確かめていないので今日帰ってからあの子に聞いてみます。どうもご心配をおかけして申し訳ありません。」と言って頭を下げ、佳子は帰路に着いた。
家に着いた佳子は夫の健二の帰宅を待って愛との話し合いに備えた。夫の健二は佳子からの電話を受けて会社を早めに抜け出し、家には7時30分に着いた。早速2人そろって愛の部屋をノックした。
「愛、いるの。入るわよ。」と言って佳子が部屋のドアを開けた。中に入ると愛はベッドに寝そべりながら本を読んでいる。両親が入ってきても気にする様子もなく、青い表紙の本を読み続けている。学習机の椅子には健二が座り、佳子はベッドの端に座って話し始めた。
「愛、ここのところ学校休みがちなんだってね。お母さんたち、ちっとも気が付かなくてごめんね。何か心配事でもあるの?」と佳子が問いかけると愛は無言のまま本を読み続けている。返事をしない愛に健二は
「愛、返事くらいしなさい。お母さんは学校へ行って浅川先生と話してきたんだよ。」と言って」愛が話し合いに応じるように促した。父の言葉に愛は無表情で本を下ろして、母の方を見て
「そうよ。先生の言う通りここのところほとんど学校に行ってないわ。朝方まで仲間たちとゲームで戦っているから朝方に寝るから学校はいけないの。学校に行っても眠たくて勉強にならないし、仕方ないでしょ。」と悪びれる様子もなく平然と語った。佳子は学校に行かずに不登校になっていた娘の生活状況に気が付かなかった後ろめたさはあったものの強い語調で
「いい加減にしなさい、中学生が学校で勉強するのは当たり前でしょ。ゲームしている仲間って言うのはどんな子たちなの。悪い生徒とは付き合っちゃだめよ。」と諭すように言うと愛は
「私がどんな人と遊んでいても、あんたたちには関係ないでしょ。今更親面するのはやめてよ。」と吐き捨てるように言い放った。この言葉には父の健二も切れ気味に
「それが親に対する言葉か? 誰のおかげで生活できていると思ってるんだ。」と発した。間髪入れずに
「子供の頃から親らしいことなんかしてこなかったじゃないの。与えてくれるのはお金だけ。いつもお兄ちゃんと2人で夕飯食べてたし、私はお兄ちゃんほど勉強できないから、お父さんもお母さんもお兄ちゃんほどには私に期待もかけてないでしょ。」と子供の頃から感じてきた不満を初めて言葉にしてぶつけた。母は
「とにかく明日からは学校に行くのよ。今日は早く寝なさい。時間になったら私が見に来るからね。」と言って部屋から出ていった。健二もその後に続きリビングで今度は夫婦で話し合った。しかし2人に解決策はなく、明日からも再び朝早くから夜遅くまで企業戦士として昇進を目指し働きづめる生活が続いていくのだ。娘のことに構っている余裕などないのが実情だ。娘は10時には布団に入ったが、12時過ぎには再び起きだしていつもの仲間に加わっていた。