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家出娘とボケ老人  作者: 杉下栄吉
1/12

栄吉

 1、栄吉


 2023年12月、日曜日のNHKの歴史ドラマは大詰めを迎えていた。毎週欠かさず見ていた杉下栄吉は出来るだけ早く見るために、8時からの総合テレビではなく6時からのBS放送で見るほどだった。主人公の男性俳優よりも、脇役の女性俳優の鬼気迫る演技に感心していた。


 杉下栄吉は20年前に津室中学校校長を最後に退職した元教員である。30年近く中学校で社会科を教えてきた彼は歴史に対する興味が深く、退職後は関ケ原の古戦場後を見学したり名古屋の徳川美術館を訪問したり、自由になった時間を満喫していた。


 車の運転が好きで毎年遠出のドライブを楽しみ、車も高速走行の安定する高級車を乗り回してきた。妻の菊子は同じ元教員で主に小学校で教えてきたが、15年前に定年を迎えた75歳だ。息子夫婦も同居していて、栄吉たち夫婦は2人の年金だけで何不自由ない暮らしを過ごしていた。しかし退職して20年、80歳になった栄吉は体力的にも精神的にも老化が進んできた。時々物忘れがあり、固有名詞が出てこない。


 翌日の月曜日、菊子と2人で昼食後にテレビをつけた。栄吉が食卓からソファーに移ると菊子が両手にコーヒーカップを持って隣に座ってきた。栄吉がリモコンでNHKBS放送を選局するとお昼の映画をやっていた。アメリカの空港までやってきた主人公だったが、母国でクーデターがありパスポートが無効になってしまい空港から出られなくなり空港で寝泊まりして生活するという映画だった。映画好きの栄吉はその映画を見ながら

「これは『ターミナル』という作品だったな。」と独り言を言った。菊子は

「この俳優さんはよく見る人だけど誰なの?」と聞いてきた。

「この人は有名な俳優でアカデミー賞の常連だし、『フォレスト・ガンプ』にも出てるし『天使と悪魔』でも主演してるよ。」と言うと

「それで名前は?」と聞き返してくる。

「だから彼は・・・・・。何て言う名前だったかな。」

 いつものことだが名前が出てこない。出演した映画の題名は比較的よく出てくる。しかし名前となると2人しかいない自分の孫の名前でさえもこんがらがって、出てくるまでに1,2秒かかる。


「老化が来てるんかな。」とポツリと言うと菊子は

「気持ちが下向きだとどんどん進んでいくわよ。明るく元気にやって行かないと。」と勇気づけてくれる。トム・ハンクスという名前を思い出したのはエンドロールが始まった時だった。こんなエピソードは日常的だったが、決定的な事件が起きるまでにはさほど時間はかからなかった。


 12月27日、年末が迫る中お昼前に老夫婦はお昼ご飯の話題になり、菊子は

「さっき朝ごはん食べたばっかりなのにまたご飯作らなくてはいけないの? もう、ご飯作ることに疲れたし、飽きたんだけど。」と仏頂面で栄吉の顔を見つめた。家族が多かった時にはそんなことを考える暇もなかったかもしれないが、息子夫婦や孫たちが仕事や学校で出かけていて老夫婦だけになると、家事をするのが億劫になるようだ。栄吉も台所に立つことは嫌いではないが彼女の負担を少しでも減らそうと考え


「それじゃ、コンビニで弁当かサンドイッチでも買ってくるよ。」と言うと菊子の顔が見る見るうちに笑顔になり、一時的にではあるが家事から解放された喜びを表現し「ありがとう。私はサンドイッチが良いかな。」とうきうきしている。


 栄吉はすぐに帰るし車で行くことから、防寒具には薄手のダウンジャケットを羽織っただけで車のカギを手に持ち外へ出ていった。外に出ると栄吉の愛車が青いシルエットで待ち構えている。車体が低く太めのタイヤの車はコンビニに行くというよりも高速道路を疾走するイメージが先行する。80歳の栄吉は颯爽と乗り込むとはいかないが、ゆっくり乗り込みいざエンジンをかけると、重厚な低音の8気筒水平エンジンのサウンドが周りの空気を切り裂く。運転手は高齢だが車はまだまだ若い感じがする。

 ゆっくりと発信し道路に出ていくと、住宅街なので音を控えて走り出しエンジンが温まる前に集落の端のコンビニの駐車場に着いてしまった。


 静かにあいているスペースに車を停めると、栄吉はゆっくりと車から降りて赤と緑と黄色の3本ラインが目立つコンビニ店内に入っていった。店内をぐるりと見わたし、お弁当やサンドイッチやおにぎりが置いてあるコーナーに進んでいった。その時栄吉に声をかける人がいた。

「先生、杉下先生ですよね。お久しぶりです。わかりますか。」という声がしたのでその中年男性の方を見るとおぼろげながらに記憶がよみがえってきた。学校祭の時にステージ発表で箒を持ってエアギターを披露して会場の拍手喝さいを浴びた生徒だ。栄吉が担任したクラスの隣のクラスのサッカー部の生徒だ。しかし津室中学校か二本松中学校かがはっきりしない。一番まずいのは名前が出てこない事だった。しかし栄吉は


「覚えているさ。学校祭のステージ。かっこよかったし、サッカー部だったっけ。」と覚えていることを適当に並べると彼は

「覚えていてくれたんですか、学校祭のステージ。懐かしいな。あれから40年以上たちますね。松下です。」と名乗ってくれた。そこで間髪入れずに栄吉は

「名字は知っているよ、下の名前だよ、出てこないのは。」とうそぶいた。

彼は

「健吾です。松下健吾です。田中先生のクラスでした。」と正解を教えてくれた。栄吉はほっとした。名前が出てこないのは生徒たちに失礼に当たるような気がするし、自分のプライドもずたずたになりかねない。でも今回は何とか切り抜けることが出来た。


 栄吉はかなり冷や汗をかいたが、彼はレジで支払いを済ませると栄吉に軽く一礼してさっさと店から出ていった。栄吉は彼を見送ると彼の中学生の時のエアギターを思い出して思わず吹き出してしまった。そのままレジ近くに立っていると


「次の方どうぞ。」と店員から声をかけられた。しかし栄吉はまだ何も籠に入れていなかった。栄吉の頭の中には

『松下君はエアギターを披露した生徒だったが、自分は何を買いにこのコンビニに来たのだろう。』という疑問が湧きあがってきた。何か用があってここに来たはずなのだが、何を買うために来たのかが思い出せない。映画俳優や教え子の名前を思い出せないのとは次元の違う記憶喪失だった。40年前に彼が箒でエアギターしたことは覚えていたのに、ついさっき家を出る前に妻とした会話を思い出せないのだ。


 途方に暮れた栄吉はレジ待ちの列から離れ、全体が見渡せる入口付近に立って店全体を見渡した。入口から見て右手にはイートインスペースがあり、右手奥はレジが2つ。左手1列目は生活雑貨、その奥には雑誌コーナーとコピー機やATMなど、2列目はお菓子3列目はパンとお酒、一番奥におにぎり、弁当、サラダなどが並んでいる。棚に綺麗に並んだおにぎりを見て


「そういえばおにぎりか弁当を買いに来たような。」とおぼろげに思い出した。その記憶をもとに籠におにぎり2個とお弁当を1つ入れて、レジに並んだ。順番が来ると若い店員が何やら早口で言っている。しかし高齢者にはほとんど聞き取れない。


「何だって。」と耳に手をやり聞き取れなかったことをアピールするとその若い店員は

「袋いりますか。」と大声で切り返してきた。耳が悪いわけではない栄吉は

「そんな大きな声で言わなくても聞こえるよ。早口で言うからわからなかったんだ。袋くれ。」と小さな声で答えると、その若い店員は何事もなかったようにレジを打ち始めた。

「822円です。お支払はどうしますか。」と聞かれたので

「現金で」と答え、財布から1000円札を取り出して払おうとした。若い店員は

「前の機械に入れてください。」と困り顔で答えた。言われた機械をよく見ると822円と書かれていて、モニターには現金・電子マネーなどの選択肢が用意されている。若い店員は手を伸ばして現金と書いてあるところを、奥から手を伸ばしてタッチして面倒くさそうに


「この紙幣を入れるところにお札を入れてください。」と教えてくれた。言われるままに機械の紙幣投入口に1000円札を置くとお札は勢いよく中へ吸い込まれていき、決済ボタンを押すと下からおつりが勢いよく出てきた。若い店員はレジに立っているがお金を触る事はないのである。まったく老人たちにはついて行けないスピードで世の中は変わりつつある。老人は買い物もできなくなってきている。そんな思いを持って店を後にして外に出ると、彼の車が彼の帰りを待っていてくれた。彼が車に近づいていくと自動的に「ガシャ」と言ってドアのロックが開く音がした。彼のポケットには車のカギが入っていてワイヤレスで車に近づいたことを知らせている。車のドアを開けて運転席に乗り組むとエンジンをかけた。いつものような低重音のエンジンサウンドが心地いい。車をバックさせ、切り返して駐車場から出ようとしたとき、再び大きな問題がのしかかってきた。

「おれの家はどっちだ?」

 コンビニから家まで帰る道がわからなくなってしまった。右だったのか左だったのか。頭の中がパニック状態に陥り、しばらく駐車場から道に出ることが出来なかった。しかし後ろから車がクラクションを鳴らしている。焦った栄吉はとりあえず右に行ってみれば何とかなるだろうと考え、右折サインを出して進んだ。左右を見ながら一軒一軒確認してゆっくり進んでいった。しかし見覚えのある家は出てこない。不安に押しつぶされそうになってくる中、もう一つの考えが浮かんできた。


「どこまでも進んでいってしまうと、家から遠く離れてしまうかもしれない。」そう考えた栄吉は車を停められそうな場所を探した。するとちょうど家を取り壊した空き地が目に入った。兎にも角にもその空き地に車を停めると運転席から周りの様子を見渡した。自分の家の近くなら子供の頃から見慣れた風景のはずだ。80年もこの地区で暮らしてきたのだ。藁をもすがるような気持ちで見開いた眼で周りをゆっくりと見渡した。すると進行方向の先に鉄の青い建造物が目に入った。

「橋だ。うちのちかくの津室橋だ。」

 津室橋を見つけると記憶がよみがえってきた。あの橋は子供の頃に学校へ通うために毎日渡っていた橋だし、あの近くに俺の家はある。そう確信して再び車を走らせた。100mほど進むと見覚えのある懐かしい白い家に帰ってきた。青い鉄の橋を一望できる川沿いだった。車を駐車場にバックで止めると、コンビニでの恐怖体験を思い出した。記憶喪失状態になった数分間。もし津室橋を見つけられなかったらおれはどうなっていたのだろう。認知症が始まったということなのだろうか。いろいろな考えが不安と共に頭の中を駆け巡った。しかしこのことを家族に話すのは気が引けた。


 車から降りると買ってきたお弁当とおにぎり3つが入ったビニール袋を持って家に入った。菊子はサンドイッチではなくおにぎりを渡され不満もあったが

「ありがとう。」と言って受け取り、夫のわずかな変化の一部を感じていた。


「このおにぎり、新製品ね。高級感があるわ。お父さん、いいセンスよ。」と言ってポジティブに反応した。栄吉は何のことか見当がつかなかったが、妻が喜ぶ姿が嬉しかった。しかし、コンビニとコンビニの駐車場での出来事は話せないでいた。



「家出娘とボケ老人」は現代の大きな課題となっている高齢社会の問題点について考えてみたものです。作者は高齢化と少子化、さらにはストレス社会がもたらした不登校や引きこもりなどの社会的な問題について多数書き上げています。「80-50問題」なども同時にお読みください。よかったら評価やブックマークをしていただけると幸いです。

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