e-3 ただ静かに鼓動を刻む
「少しの間、会えなくなるかもしれないんだけどなあ。ねえ、起きてよ」
アイリが肩を揺さぶっても男は反応しない。
「もう……」
そっと唇を近づけ、頬に軽く触れる。
「傷は治っているんだよ……。ねえ、早く目を覚ましてよ、アッシュ……」
男の名前はアッシュ。ロアヴィエ皇国の捕虜になり、魔銃使いバルヴォワに胸を貫かれたラガリア王国の兵士だ。アイリは捕虜の遺体を片付けるときに、召喚銃の視界を通して、血まみれの幼馴染みを発見した。最大六体の天使を操るアイリは二体に命令し、周囲の目を盗んで治療させた。通常軍の輜重隊から荷馬車を一台借り、アッシュを自宅に運んだ。有事の際に己の身を護る手段が減ると分かっていても、天使を二体、常にアッシュの傍に起き続けた。
「偉くなれば戦争を止められると思って頑張ってきたけど……。そろそろ限界。ねえ、どうして、こんなことになっちゃうの? ずっと探していて、ようやく会えたのに……。ねえ、アッシュ、起きてよ」
返事はない。胴体に空いた穴も、欠損していた右手の親指も治した。見た目は完全に戻っている。アイリはアッシュの胸に頬を重ねた。鼓動が聞こえる。しかし、意識だけが戻らない。
「起きてよ……」
アイリの回復能力は、無から血や肉を創りだすことはできない。体外に散った血肉が、肉体へと逆行することにより、再生している。フランギースのように、こぼれた血が地面に吸収されようとも炎で焼かれようとも再生する。バーンの腕のように野犬に喰われたとしても、野犬の喉を逆行して血肉は霧となり本体の元へ帰る。
遮られない限り、アイリの能力は血肉をあるべき場所へ帰して再生するのだ。
「ん?」
暗澹たる想いに沈んでいたアイリは、不意に外から近づいてくる者の気配を感じとる。暁暗にすらまだ早く、人が訪れるような時間帯ではない。
(現場からは離れているんだけど、火事場の泥棒?)
アイリは室内の洋灯を消すと魔銃を構えて玄関へと向かう。銃口をドアへ向け待ち構えていると、ノックもなしに開け放たれる。現れたのはボサボサ髪に分厚い眼鏡の女。精霊教団のファンタズマだ。
アッシュは親友ユシンを亡くした時、その遺体が知り合いの元に届くように祈り、自らの血で額に名前を書き残した。遺体はバーンに焼かれ、血文字は灰と化した。後にアイリがアッシュを治療した際、ユシンの遺体に付着していた灰が血に戻った。血は、あるべき肉体へと帰ろうとしている。
「わお。精霊の家に到着」
「動くと撃つわよ」
アイリは物陰から腕だけを出し、威嚇になるか分からないが魔銃をファンタズマに向ける。
「おやおやあ、そこに隠れているのは、もしかして精霊使いですか~? 貴方に導かれてやってきましたよ」
ファンタズマが玄関内に侵入したため、アイリは気配を頼りに最小威力で足元に威嚇射撃。しかしファンタズマは臆することなく進む。
(女が一人。なら制圧できるか)
アイリは物陰から飛びだし、相手の白衣に一瞬戸惑うが、鳩尾に膝蹴りを叩きこむ。
「あっ」
「あぐっ!」
蹴りが当たる寸前、アイリの視力は暗がりでも相手の顔を認識できた。それは、ラガリア王国侵攻時に皇弟バルフェルトから、十分な便宜を図れと言われていた相手。出陣式のときに顔を合わせているし、名前も聞いている。だが、頭では分かっても、体は止まらなかった。
ファンタズマの手から小瓶が落ちて割れ、床に中身が零れる。
「の、のぉぉおう……」
鳩尾を押さえながら蹲り、ファンタズマが苦悶の声を上げる。
血は一瞬で蒸発し気体になり、拡散して見えなくなった。瓶の中にあったため遮断されていたが、開放されてしまえば、アイリの魔銃能力による影響を強く受ける。
だが、起きた現象は、ただ、それだけ。
魔銃で強化したアイリの視力でも、赤い霧が広がったように映っただけ。宙に溶けた血がアッシュの元へと飛んで行くのは視認できない。数滴の血が肉体に戻ったからといって、アッシュに変化はない。彼の意識は他人の肉体へと移っている。
「えっと。ファンタズマさん、ごめん。私の家とは知らずに来たようだけど何の用?」
アイリが抱き起こそうと試みるが、ファンタズマは気絶していた。もともと意識を断つつもりで鳩尾に膝蹴りを叩きこんだのだから、当然の結果だ。
「アッシュと同じベッドに寝かせるわけにいかないし……。どうしよう」
床に倒れた半裸の女。胡散臭いが、バルフェルトに紹介されるほどの人物なので身元は確かなはずだ。精霊教団の噂を知らないペールランド出身の田舎娘は、ファンタズマを強盗ではなく客として扱うしかない。
「はあ……。しょうがない。魔銃起動」
アイリは『灰色の天使』を二体召喚し、普段自分が使用しているベッドに意識のない女を運ばせる。
「運び終えたら、この人が起きるまで見張っておいて。……さて」
やや緊張した表情でアイリはアッシュのベッドがある部屋へと向かう。
「嫁入り前にはしたないかもしれないけど……。ベッド、ないんだもん、しょうがないよね。……寝てるうちにキスしたり、同じベッドに入ったり、私、変態だぁ……」
アイリはベッドでアッシュに寄り添い、瞼を閉じる。しかし、胸が高鳴っていつまでも眠ることはできない。
「暖かい……」
撫でた胸板はかつて知る頃より鍛えられており分厚い。愛おしい人の体温は確かに、命を感じさせてくれる。肉体は完治している。全身に血が通っている。だが、目覚めない。
「ねえ、起きてよ、アッシュ……」
アッシュは、ただ静かに、鼓動を刻む。




