3-18 エナクレスの涙
昨晩、エナクレス・マレンは挫折と恐怖で眠れなかった。涙で濡れた枕に額を押し付け、歯を食いしばった。
エナクレスは弟と共に騎士学校に通い優秀な成績を収めた。二年前に魔銃が登場し、騎士学校でも適性検査が行われた。エナクレスは合格し、最年少の銃士隊員になった。今では、総数一千四百の凱汪銃士隊で、副隊長補佐を務めている。いずれ隊を新設する際には、指揮する立場になるとも言われるほどの評価を得る。それが年下のシルフィアに手も足も出ずに、圧倒的な力量差を見せつけられた。
僅か十六歳で副隊長補佐を務めるまでに抜擢されたマレン姉弟に、常日頃から年上の銃士や軍人から向けられる恐怖や嫉妬の視線があった。それこそ、まさにエナクレスが現在、シルフィアに抱いている感情でもあった。大した努力もしていない年下が、ただ才能があったというだけで自分の上に立つ。許容しがたい事実だ。認められない自分の矮小さが惨めでならない。
(悔しい! 私は、シルフィアに恐怖した! 違う! 私が弱いわけじゃない! 私はまだ十六だ。成長できる。もっと、もっと強くなれる……! だから……。だから、父上……)
マレン家は魔銃の登場と共に家庭崩壊を起こしている。エナクレスの父ジョージ・マレンは優秀な騎士であったが、エナクレスとイナグレスが魔銃に適合した結果、一瞬で立場が逆転した。銃士隊と通常軍の模擬演習で、姉弟は父の率いる騎兵百騎を壊滅させた。父に成長した姿を見てもらいたかった、褒めてもらいたかった。
結婚の持参金を用意するために苦労させることもない。有力貴族に嫁ぐことにしか使い道のなかった娘が、軍で出世するのだ。魔銃に選ばれたことを誇ってほしかった。だがそれは叶わない。子に負けた父は騎士の誇りを傷つけられ、酒に溺れ、家族に暴力を振るうようになった。
(もっと強くなれば、私に勝てないのは当然のことだと悟り、認めてくれますよね……)
「エナクレス。包丁が止まっているわ」
さ迷っていた思考を現実に引き戻す一言。昼間にシルフィアやアッシュがいた小屋の炊事場だ。エナクレスは今、火にかけられた鍋の隣の台で野菜を切っている。
「あ、すみません」
「急に連れてこられた貴方には同情するわ。でも、料理だけは丁寧にね」
「はい」
エナクレスはユウナ・ルドフェルと共に夕食の準備をしていた。マレン家は貴族とはいえ、使用人を二人雇う程度の貧乏貴族だ。父が酒に溺れて、家政と社交を任されていた母が実家に帰ってしまえば直ぐに立ち行かなくなる。エナクレスの料理は必要だったから覚えたことだ。
「シルフィア様は好き嫌いしないから。ただ、あまり豪華なものは用意しないように。不興を買うわ。贅沢が嫌いなのよ」
「はい」
「貴族は天のものを、庶民は地のものを食べる、ということも気にしなくていいわ。無理して、鳥を用意しなくてもいいし、地中になる野菜をお出ししてもいいわ」
「え……。はい。分かりました」
ロアヴィエ皇国に限らず、広く貴族社会では空に住む神様や天使は鳥を食べていると考えられている。逆に、地中になる野菜や海底の貝などは貧しい者やドワーフが食べる者なので貴族は忌み嫌う。
「パンや食材は近くの村に買いに行くの。明日、案内するわ」
奇妙に思える指示もあったが、エナクレスはユウナの言葉を子細に記憶していった。直ぐに銃士隊が身柄を引きとりに来てくれるはずだが、エナクレスはそれまでは侍女に成りきるしかない。演じることには慣れている。銃士になるまでは、男として騎士学校に通っていたのだ。男女の双子は不吉とされるから幼い頃から男として過ごした。男子生徒、優等生ぶらない新兵、実直な部下、母親代わりの姉、様々な役を務めてきた。
囚われの間は、年下のエルフに才能の差を見せつけられても、けして挫折を表に出さず、その命令を全うする大人を演じるだけだ。問題ない。エナクレスがなりきれなかったのは、父にとって都合のいい無能な子だけだ。
「ユウナさん、色々とご指導、お願いいたします」
「ええ。こちらからも改めて、よろしくお願いするわ」
寝食を共にするのは銃士隊へ復帰するまでの僅かな期間だろうから、完全に心を許すわけにはいかないが、エナクレスは一歳年上のユウナに好意を抱いた。どことなく自分と近い境遇にあるように思えたのだ。時が経てば友情を育むことができただろう。しかし、一週間もすれば一方が肉体を失うため、齢の近い二人に友情が芽生えることはない。




