第9話
朝日が降り注ぐ明るいリビング。
「マオ、具合はどう? どこか痛いところある?」
「ない、と思うけど……」
夜は明けたが、暗く沈んだ心は晴れない。壁に架かった時計の針が8時を差した。リビングに置かれたソファにふたり……ただ無言で座り、時間だけが流れる。
朝が来ても食欲などない。里沙はココアを淹れて、真緒梨に飲ませた。疲れた身体に甘味が優しく染み渡る。
「お母さん。昨日のって……夢じゃないよね」
真緒梨の左足首、踝にあった小さな痣。母と祖父母と暮らし始めたころにはすでにあったと思う。それが今では手の平の半分くらいの大きさに広がっている。そしてその形は、まるで子どもの手跡のそれのようで───
「マオ」
「お母さん、教えて。ここまで奇怪しくなったのお父さんの家に行ってからだよ。あんな風に怖くなったのも。何か知ってるなら教えて」
「……」
「お母さん」
里沙は下唇を噛み、わずかに逡巡を見せる。しかしそれはほんの一瞬のこと。黙っていても、すでに娘は何かに狙われている。迷いを見せている場合ではない。
「判った。お母さんが知ってること全部話すわ」
聞きたいけど、聞きたくない。だけどこのままではいられない。
「話すけど、その前に朝食にしましょう。取り敢えず栄養を摂らないとね」
食欲はなかったが、母の言い分はその通りで、真緒梨は異論もなく従う。恐らくその話は長くなる。昨日は急いで帰ってきたためあまり食材はなかったが、冷凍してある白米やおかずで有り合わせで用意した。
「いただきます」
「いただきます」
変わらない母の味のはずだが、あまり味は感じられない。場はもちろん盛り上がらない。テレビを点ける気にさえならない。機械的に箸を動かして、黙々と食べる。飲み込むのが酷く難しい。食道の途中で引っ掛かり、お茶で流し込まないと飲み込めない。
気持ちがここまで身体に影響を及ぼしている。
「……ごめん、お母さん。もう食べられない」
控えめによそったご飯の半分も食べられていない。おかずも同様だ。
「無理はしなくていいけど、もういいの?」
「うん」
「吐き気とかある?」
「うぅん、ない」
吐き気はない。痛む箇所もない。母が守ってくれたから。
逸る気持ちを抑えて片付けをして、歯を磨き、顔を洗い、ココアの次はカフェオレを淹れて───それから、ようやく母とソファに座った。
* * * *
水瀬 貴士───真緒梨の父であり里沙の夫。その水瀬家は、いわゆる地主だった。
古くからの村の実力者───支配者。水瀬家が在ったからこそ、この村は存続していたといっても過言ではない。この村の全ては水瀬家から始まっていた。
村中の畏怖、思慕を一身に集めていた水瀬家には、いつのころからかある噂が立ち始めた。
『子どもが育ちにくい家』
何世代にも渡って立て続けに子どもが夭折したらしい。しかし育ちにくいといえど、4~7歳までの年月を余所で過ごせばそのあとは変わりなかった。
真緒梨の父、貴士は、姉の弥生とふたり姉弟だった。真緒梨にとって伯母に当たる弥生と父も、幼いころ遠縁の家に預けられていたという。
真緒梨の母、里沙はこの一連の話を義姉である弥生から聞いた。
『───どうしてもあなたに言っておかないといけないと思ったの。私はあの家から逃げ出したけど』
里沙は何ひとつ聞かされていなかった。里沙の夫、貴士は自身の家に纏わる話を何も伝えずに結婚したのだ。
弥生は親の勧める見合い話を断り、自分の望む相手と駆け落ち同然で結婚したため、水瀬家と絶縁していた。里沙は貴士と結婚する際にも、弥生と顔を合わせなかった。病院からの帰り道、突然目の前に現れ、強引にこの話を聞かされたのだ。
『大事な時期にこんな話を聞かせてごめんなさい。私の話が信じられなければ、近所の人にも訊いてみて。私たちの祖父母世代ならたぶんみんな知ってるはずよ』
里沙は自身のお腹を無意識に庇う。つい先日、妊娠8ヶ月に入ったところだった。
『全てを承知の上でならいいのよ。私の勝手なお節介。でもそうじゃないなら、よく考えて。このままでいたら確実に子どもとは引き離されるわ。あの家では嫁は奴隷なの。娘もそう。大事なのは家の名前と男だけ。人の意思や感情なんて無視よ』
夫の姉と名乗るこの女性。面識はないのだから、信用しなければいい。振り切って帰ればいい───そう思うけれど。弥生の話は、今里沙が置かれている生活そのものだった。だから……だから、振り払うことが出来なかった。それに弥生の纏う雰囲気が、これは真実だと如実に語っている。
『里沙さん。あんたまだ妊娠しんのか。私らいつになったら孫が抱けるんや』
『やることやっとるんやろうなぁ? それとも貴士が受け入れられんようなみっともない身体でもしとるんか』
『嫁の務めって何か知っとるか? 里沙さんとこは随分と自由に子どもを育てたんやなぁ。親を敬うことは嫁の務めの中で一番大事なことって、何で親さんは教えんかったんかなぁ。お陰でこっちで躾し直さなあかんのやで、本当にええ迷惑や』
決して里沙を労る言葉ではなく、ただただ里沙を傷付け、陥れる言葉たち。けれどそれは里沙が妊娠した途端に、手の平を返したように鳴りを潜めた。
悪意を包み隠しているつもりが、全く隠れていない。薄っぺらい笑顔の下で、顔が引き攣っているのが判る。表面上、取り繕っているだけの優しさは、酷く気持ち悪いものだった。
しかし、里沙が一番許せなかったのは暴言を吐いていた義両親よりも何よりも、伴侶である貴士だった。これからの人生を共に歩む者として、全てを分かち合い、全てを支え合う者として結婚したのだ。なのに、実情はどうだ。
貴士は隠し事をしていた。里沙が問い詰めなければそのまま惚けていたに違いない。ましてやそれはこれから産まれてくる我が子に関することだ。到底許せることではない。
腹の底から怒りが湧いてくる。しかし里沙と貴士との間にある溝は深いものだった。
『何で怒ってるんだ? 別に預けるって言ったって、少しの間だけだよ』
弥生から聞いたことを貴士に問い質すと、貴士は全く悪びれることなくそう言い放った。貴士は子どもを数年余所に預けることに何の不満も持っていなかった。自身もそう育ってきたから。
『何で自分で産んだ子を自分で育てられないの? この家に居たら駄目だって言うなら、その間は私の実家で暮らす。何でわざわざ遠くの親戚に預けなくちゃならないの?』
『そんなのお袋が許さないよ、きっと』
里沙は例え数年でも、我が子を手放すつもりなど毛頭なかった。母として当然の思いだ。病気で、治療のために入院するわけでもない。経済的に不便があるわけでもない。だというのに、何故我が子と離れなければならないのか。到底納得出来るものは、何ひとつない。
子どもを余所に預けるくらいならその間だけ実家に帰ると言う里沙の申し出は、貴士が言った通り義母の猛反対を受けた。
『里沙さん! あんたは何を言っとんね! あんたの腹に居る子は水瀬家の跡取りやで! あんたの腹から出てきてもあんたのもんやあらへん! あんたは水瀬の家に嫁に来たんや。嫁に来たからには実家なんてもうあらへん。あんたは黙って言うこと聞いとればいいんやッ!』
『お義母さん! だったら私も子どもと一緒に行きます。離れたくありません!』
『何を阿呆なこと言っとんね! あんたは嫁やで!? 嫁は婚家の世話しんといかんやろッ! 10歳になりゃ帰ってくるんやで、何も心配あらへん!』
義母の主張に欠片も納得出来るはずがない。
『お袋の言うこと聞いとけばいいじゃん。うるさいんだから、イチイチ喧嘩するなよ。ちゃんと帰ってくるんだからさ、そう目くじら立てるなよ』
味方になってくれると思っていた夫は、水瀬の人間だった。こんな男を夫としてしまったことを、里沙は激しく後悔した。
『昔から危ないって言われてるんだからさ、素直に言うこと聞いとけよ。ここに居て死ぬよりいいだろ?』
『何でそんなこと言われるようになったの? 何でここに居ると死ぬなんて話があるの?』
『知らないよ、そんなこと。でも昔からそう言われてるんだから、素直に聞いとけよ』
自分が無い男。
未だに母親に管理され、その支配から逃れようともしない。母親の意見が全て。口では母親のことを疎んじていながらも、それにどっぷりと甘んじている。そこに己の意思は────無い。
『な? 子育てって自分の時間削んないと駄目だろ? でもその間だけはゆっくり出来るんだからさ、かえってラッキーだろ』
里沙は離婚を決意した。