第8話
「あ、し……あし!」
「脚!? 脚が痛いの!?」
里沙の手がストッキング越しに真緒梨の脚を擦る。その中で一部分だけが異様に冷たくなっていることに気が付いた。母は躊躇うことなくその部分を破る。
目に入ったのは、蠢くように見える黒い痣。
「マオ! この痣どうしたの!?」
訊かれても答えられない。嫌だ、来ないで!
何かに引き摺られ、意識が遠くなりかける。里沙の暖かい手が痣を覆う。その小さな温もりを感じた時、気配がすっと弱まったのを感じた。
お母さん! お母さん! お母さん!
必死の想いが通じたのか、身体の束縛が消えた。母にしがみ付く。
「お母さん!」
「マオ!? 大丈夫なの!?」
ここは嫌だ! 帰りたい!
「帰るって何や! 話は終わっとらんッ!」
喚く老夫婦を振り切り、水瀬家を飛び出す。一心不乱に水瀬家から離れて、新幹線に飛び乗った。
真緒梨の身体の震えは収まらない。
怖い……怖い、怖い、怖い! あの感覚は何!?
身体の中身……意識が無理矢理引き剥がされるような、異様な感覚。
私の内側に絡み付いてくる何か。
新幹線の中でも、母の手をずっと握り締めていた。家に着いても、あの恐ろしい感覚は薄まらない。家中の電気を全て明々と灯けて。明るくしていても、部屋の隅の影から何かが飛び出してきそうで。
「お母さん! どこ!?」
「マオ、落ち着いて。お母さんどこにも行かないから、ここに居るよ」
安心出来るはずの家に帰ってきたのに、真緒梨は軽いパニックを起こしていた。幼い子どものように絶えず母を求めた。母はそんな娘を抱き締め、安心させ、落ち着かせた。
「大丈夫……大丈夫よ、マオ」
抱き着いてくる娘の背中を擦る。何とか満たされればいいという程度の食事を済ませ、手を取り合ってベッドに入った。とにかく、娘を落ち着かせなければ。
真緒梨のベッドはふたりで寝るには狭かったが、その狭さに真緒梨は安心感を得た。真緒梨は恐怖に怯えていたが、母の里沙も、娘に降りかかっている何かに震えていた。
眠りに就けるかどうか判らなかったが、眠らないとこの恐ろしい感覚は消えない気がして。寝たら寝たで、あの悪夢も襲ってくると思っていたが、それでも。
必死に目蓋を閉じた。
壁側に向いた背中が空恐ろしい。無防備なそこに、何かが忍び寄ってきそうで……
震えている真緒梨の背中に、暖かい母の手が伸びた。抱き締めて、背中を擦ってくれる温もりに、思わずホッと息を付く。
一度安心すると、心の緊張も緩むもので───互いの体温と暖かい匂いに包まれて、いつの間にか眠りに落ちていた。
それ、が起こり始めたのは母子が眠りに就いてしばらくしたころ。
始まりは、小さな小さな音───……
ピシ、ピシ……ピシ、パキ、パキパキ───
気付いたのは里沙だった。真緒梨は深い眠りに入っている。娘を起こさないように頭を巡らせ、娘の部屋を見回す。
バチン、バチン、バチン、バチン!
バキバキバキバキバキ!
里沙の耳に、家鳴りのような音がハッキリと届いた。
何……これは何!? 里沙は青冷める。娘の部屋の壁紙は白色のはずだった。それが今は黒く染まっている。天井は波打っているよう。引き攣れた声が喉を震わせた。咄嗟に娘を強く抱き締める。その動きに、真緒梨は目を覚ました。
「……お母さん?」
呟いたあと、すぐに部屋の異変に気付く。鳥肌が立つほどに冷えている。異様な気配が充満した部屋。空気さえも粘つくほどに、身体に纏わり付いてくる。
呼吸をするにも息苦しく感じるほどのこの濃さは、水瀬家で遭ったものと同じだった。今までこの部屋で感じたことのないほどのもの。左足首が凍えるほど冷えている。
部屋の中に置いてある物が、バラバラと動き出した。鞄、洋服、本、クッション……固定されていない物が。真緒梨と里沙の眼前で、ただフワフワと漂っていただけのそれは、やがて何かに統率されたかのような動きを見せる。天井近くで渦を巻いて舞ったかと思った瞬間、雪崩のように里沙に向かった。
「お母さん!」
里沙は咄嗟に蒲団で娘と一緒に自身を抱んだ。その背中に、それでも衝撃が襲う。
有り得ない現象。得体の知れない冷たい悪意。
母と娘を取り巻く空気が冷えて、凝り、濃度を増した。
何かが見ている……何かが、来る。
目に見えない何かが舌舐めずりをしている。
悪意が満ちた部屋の中。その中心に何かが寄り集まる。何か意思を持ったその動き。部屋の至る所から伸びてくる、触手のような……蜘蛛の糸のような影がザワザワと凝る。
真緒梨は母にしがみつき、固唾を呑んでただ見ていた。一体何が起こるのか……
黒い靄が、黒い影が、実体を持ち始めた。
里沙が真緒梨を強く抱き締める。母の顔を見ると、青冷めた顔にきつい眼差しをしていた。娘を守る母の顔。こんな得体の知れない悪意に、決して娘を損なわさせたりしない。その決意の力……母の想い。真緒梨も震えるだけの身体に力を入れた。
ううぁ……うぁ──────────
おぉぉおおおぁぁぁおおおおおおおおおおお
咆哮とも呻きとも、何とも形容し難い音を響かせて、黒い触手が方々に伸びた。その中の1本が、真緒梨の左足首に真っ直ぐに向かう。絡み付いた瞬間、焼け付くような痛みを感じた。そのまま身体を引っ張られる。
「離して! 離して!」
「マオ!」
手を振り回し足を振り上げ、渾身の力で抵抗する。それに里沙も加勢して、黒い触手を掴んで引き剥がした。母の手が触れた部分は、触手の勢いが衰えたように感じた。
何が起こっているのか判らない。判らないまま、いいようにされるのは耐えられない! 恐怖に戦いていた心を隅に追いやり、冷たい悪意に向き合った。
互いに抱き締め合い、必死の決意をした母子に反比例して、その異形の動きは消沈して行った。真緒梨の周りをウロウロして触手の先を力なく彷徨わせている。ふたりは一瞬足りとも目を離さず、それを見つめた。
その眼前で、触手は細く、影は薄く、やがて───
消えた。
「……」
「……」
黒い影は消えた。本当に、消えた?
ふたり、互いを抱き締め合って、息を潜めて。消えたと確信出来るまで身動ぎもせずに。カーテンの隙間から、朝日が差す。夜が明けた。
長い時間が経ってから、真緒梨はふらつきながらも立ち上がり、カーテンを開けた。朝日の中で見る部屋の中は、惨憺たる有り様だった。けれどそんなことは、片付ければいいだけのこと。
真緒梨の左足首の痣は、親指の爪ほどの大きさだったものが、今は子どもの手の平ほどの大きさになっていた。
これで終わりではなく、何かが起こり始めたことを直感で思う。
どちらからともなく、重く、長い溜め息が漏れた───