第6話
母の里沙が休みの土日は、真緒梨が唯一リラックス出来る日だった。そんな日常を送っている中の、朝食の時間中里沙の元に掛かってきた1本の電話。
「はい、もしもし。桜庭です」
真緒梨はリモコンを取り、テレビの音量のボリュームを下げた。
「はい……里沙です」
真緒梨には母の声が緊張したように聞こえた。
「……そうですか。それで時間は? 今日がお通夜ですか?」
誰かが亡くなったのだろうか?
「はい、判りました。取り敢えず私は行きますが……娘には自分で判断させます。はい、では……」
母の返事を聞き、真緒梨も僅かに緊張する。亡くなったのは誰か身内なのだろうか? 身内だとしたら、桜庭の親族しかいない。
「お母さん?」
スマホを置き、里沙は娘に向き合った。
「マオ、あなたのお父さん。亡くなったって」
「え」
「スピードの出し過ぎでカーブを曲がり切れずに、崖から転落したそうよ。雨でスリップしやすくなってたらしいわ」
「……」
「お母さんは明日のお葬式に顔を出してくるけど、マオはどうする? 無理に出る必要はないのよ」
桜庭の親族ではなかった。なかったが……
真緒梨の父。
母が父と離婚したのは、真緒梨がまだ4歳のころ。それから13年。一度も会っていない、電話すらしたことがない。希薄な父娘関係だった。その父が亡くなった。
「……お父さん、なんだよね」
「そうよ。あなたはまだ4歳だったから、余り覚えていないかもしれないけど」
「うん……ほとんど覚えてない」
その当時の記憶は、あの異形の何かに追い駆けられた恐怖によって塗り潰されている。
「明日、お母さんが行くなら私も行く」
思考を振り払うように、軽く頭を振る。
「マオ」
「最後くらい顔見とく。ほとんど覚えてないんだし」
「無理しなくてもいいのよ。良く寝れてないんだし」
母のその言葉は、真緒梨を気遣ってのもの。悪夢のせいで一緒に眠っているくらいなのだから。
「最後だもん。平気。それに泊まらないでしょ? 少し居るくらいなら大丈夫だよ」
「……そう、判った。じゃあ制服でいいから用意しといてね」
「うん」
両親の離婚以来、全く会っていなかったとしても、産みの親としては代わりない。最後くらいは、キチンと会ってみよう……最後の挨拶だけはしておこう。真緒梨はそう思った。
真緒梨は、今まで母に離婚の理由を明確に訊いたことはなかった。小学校の父兄参観、運動会、様々な行事の参観には周りの友だちはお父さんが見にきているのに、真緒梨を見にきてくれるのはいつもお母さんだけだった。
それを見ると、確かに淋しいとは思った。思ったけど……
それを言って、母を困らせたくなかった。
父が居なくとも、いつも優しい母が見守ってくれていたし、母の両親、桜庭の祖父母も真緒梨たちを助けてくれていた。母とのふたり暮らしは何の不満もなかった。元々真緒梨は母のことが大好きだったし、反抗期らしい反抗期もない。母との関係が、居心地良かった。
そんなに仲が良くとも、それでも離婚理由は訊けなかった。訊くタイミングを逃したということもあるが、今のこの環境を変えたくなかった。
真緒梨はあまり友人は多くない。元々の性格もあるだろうが、広く付き合うよりも狭く深く付き合うタイプだった。強がりではなく、特にそれが淋しいとは思わない。家に居ることも好きだ。平凡な毎日。取り立ててこの生活を変えようとは思わない。
不満があるのは、ただひとつ。
あの悪夢。黒い影。
それが凝りのように、身体に重くのし掛かる。
新幹線に乗り、父の実家に向かう。真緒梨は車内でずっと何かしら喋っていた。変に緊張しているのが自分でも判る。新幹線のホームに着き、乗り換えのバスに乗ってからはまた1時間ほど。アレは何でもないことだ。きっと野良犬にでも追い駆けられたのを、何か大袈裟に覚えているだけだ、と思い込もうとしても。
近付くにつれ、緊張感が尚一層高まる。
「マオ、無理しなくてもいいのよ。行くの止める?」
「……大丈夫。少し居るだけだもん……平気」
今ここで逃げたら───目を、背けたら。一生、あの得体の知れない黒い影に捕らわれる気がしていた。
あの悪夢をよく見るようになって、黒い影の錯覚を覚えるようになって、全く縁のなかった父の実家に行くことになったのは、何か意味があることなのかもしれない。元凶と思える場所に行き、向き合い、乗り越えたかった。
「里沙さん……真緒梨ちゃん?」
「お義姉さん、お久し振りです。ご無沙汰してます」
父の実家の水瀬家に着き、声を掛けてきたのは伯母である弥生だった。
「この度は急なことで……ご愁傷様です」
「わざわざありがとう……ごめんなさいね、いきなり電話したりして」
「いえ……」
「私も迷ったのよ……報せることがいいことなのか悪いことなのか。でも弟も人の親だからね。真緒梨ちゃんも最後くらいは顔見てやって」
伯母の言葉に、真緒梨は無言で頭を下げた。促されて進んだ部屋の中には、異様な光景が広がっていた。
古い畳が敷き詰められた続き間の和室。そこに。
三基───
部屋の中には、三基の棺が並べられていた。
どうして……どうして、三基もあるの?
「……お父さんと、今の奥さんと、息子さんよ」
母の言葉に、真緒梨は息を呑む。てっきり、亡くなったのは父ひとりだと思っていたのだ。それが家族もろともだったとは……
父が母と別れたあと、再婚していた事実さえ知らなかった。
「3人で食事に行った帰りだったんですって……雨で滑りやすくなってたのに、油断していつものようにスピード出したんでしょうね……」
伯母の言葉に、母は無言で手を合わせた。真緒梨もそれに倣う。柩の中の3人は、無機質な青白い肌を晒していた。
お父さんて、こういう顔をしてたんだ……
思うことは、ただそれだけ。こう感じることしか出来ない私は冷たい人間なのかな……
父の顔から目を移し、真緒梨は自分と対して歳の差を感じられない息子の顔を見た。胸に僅かな疑問が芽生える。この人、幾つなの……?
「ありがとう、里沙さん……この家にくるのはあなたも辛かったでしょうに」
「……お義父さんとお義母さんはどちらに?」
「葬儀場の方に行ってるわ。ふたりとも倒れちゃってね……3人を目の当たりにすると余計に興奮しちゃうから、先に連れて行ってもらったの」
母と伯母の会話に、真緒梨は小さな疑問を奥に押しやった。母は、この家で結婚生活を送っていたんだ。真緒梨も記憶にはないが、この家で暮らしていた。
離婚したということは、それなりの葛藤……苦しみがあったはず。真緒梨はそれについて考えていなかった。自身のことにしか目を向けていなかった。恐らく、別れたとしてもかつて愛した人だ。その人を見送る哀しみ───自分以外の妻を見る苦しみ……
母の思いを、想像出来なかった。
「お母さん……ごめんね」
「何が?」
「だって……苦しくない? 今の奥さんに、会って」
亡くなっているけど、という言葉は飲み込んだ。その言葉は言っては駄目だ。
「別にそんなことはないわよ。もう終わってることだしね。でもありがとう。お母さんを気遣ってくれたのね」
真緒梨の言葉に、母は小さな笑顔を見せた。
その笑顔には、けれど哀愁が漂っている気がして……
真緒梨は少し俯いた。