第5話
───……何か、グルグルと回転している。
いつもは下に下に堕ちて行く感覚になるのに、今回は上に急上昇したり、横に吹き飛ばされるような感覚になったり。それがあまりに激しくて、真緒梨は吐きそうになった。いつもの金縛りと違う?
「……真緒ちゃん!」
思いっきり顔を顰めた瞬間に自分の名を叫ばれ、真緒梨はバッと目を開けた。
「真緒ちゃん、良かった!」
途端に抱き着いてくる友だち。事情が呑み込めない真緒梨は狼狽たえた。どこかに寝かされている。白い天井に、少し硬いシーツ。
「ここ保健室だよ。判る?」
友だちの問い掛けに小さく頷く。
「桜庭さん、気分はどう? 吐き気とか、頭が痛いとかある?」
友だちの後ろから、保健医の優しい笑顔が見られた。自分に抱き着いている友だちの肩を少し押して、真緒梨は身体を起こす。どこも痛くない。
「平気です……あ、たんこぶ?」
「男子のボールが飛んできたんだよ。覚えてない? ボールが当たったあと、真緒ちゃん倒れちゃったの」
「……覚えてない。そうなの?」
「桜庭さん、ちょっと立てる?」
「あ、はい」
ベッドから降りて脇に立つ。少し歩いてみたり、両手を前に出したり上に挙げたり、色々な動作を指示される。どこにも違和感はない。
「大丈夫だと思うけど、不安なら病院に行きなさいね。でも今日吐き気とか出たら必ず行くこと。いいわね?」
「はい」
保健医に念押しされてから、廊下に出た。保健室から出たところで「桜庭!」と声が掛かる。そこにはこの前から真緒梨に話し掛けてくるようになったひとりの男子が立っていた。
「桜庭、大丈夫なのか!?」
顔色を青くして、真緒梨の容態を訊いてくる。
「あ、うん。大丈夫」
真緒梨が答えると、男子は一気に息を吐いた。
「あー、良かった! ごめんな、オレがボール当てちゃったんだ」
「ちょっと、謝るんならもっとちゃんと謝ったら!?」
真緒梨の横から友だちが口を尖らす。
「あ、そうだな……えと、桜庭、今回のこと、すみませんでした」
そう言って真緒梨に向かって頭を下げた。
「うん。もう大丈夫だから。もういいよ」
真緒梨が答えると、男子はホッとした表情を浮かべた。
「本当、悪かったからさ、今度何か奢るよ。何がいい?」
まさかそんな風に続くとは思っていなかった真緒梨は思わず男子の顔を凝視してしまった。
「いいよ、そんなことしなくても」
「いや、そんなわけにはいかないからさ。お詫びさせてくれよ」
「いいって」
「桜庭は何が好き?」
「いいってば」
断っても男子は喰いついてくる。本当に、そんなことされたくない。ボールを当てられたとはいえ、友だちでもない男子に何か奢ってもらうのは気持ち悪い。友だちでも、ましてや特別な感情も何も抱いていないのに。ただ同じクラスになって、他の子が言うように少し格好良いなと思っただけ。
「無理に言うの止めなよ。真緒ちゃん困ってるじゃん」
友だちが助け舟を出してくれた。
「……ごめん。この機会に桜庭ともっと仲良くなれたらなって思ったんだ」
男子は困ったように横を向く。
「あの……もう平気だから。お詫びとかそういうのも、気にしないで」
「うん、ごめんな。オレ、先に教室戻るよ」
言うや否や、真緒梨の顔も見ずに走り出して行った。
「アイツ、真緒ちゃんのこと好きなんだね」
「そう、なのかな……」
どう答えればいいのか判らない。
「真緒ちゃんは? どう思ってるの?」
どう思っているも何も……恋愛なんて、判らない。この場でどう答えればいいか、僅かな一瞬で必死に考える。
今の男子は、恐らく自分に好意を持っているんだろう。けれど自分にはそんな感情はない。迂闊なことを言って女子たちの反感を買うのは良くない。目の前に居る子は、高校に入学してから出来た一番の友だちだ。この友だちが豹変するとは考えにくいが、友情に恋愛感情が拗こじれると碌なことにならない。これは中学生のころから周りを見てきた真緒梨の感想だ。それは間違いではない。
「私……他に好きな人居るの」
嘘も方便。欺くことに違いはないが、これで高校生活が円滑に過ごせるのなら、悪いことではないだろう。
「え!? 真緒ちゃん、好きな人居るの!? 誰!?」
目を輝かせた友だちからの追及に、必死に思考をフル回転させた。
「誰、誰!? もしかして同じクラス!?」
背中に厭な汗を掻きながら、しどろもどろに話を続ける。
「……小さいころに会った人。今はどうしてるか知らないの」
「え、何で!? 今は会えないの!?」
「前の家の時だから。うち、親が離婚してから引っ越ししてるし、もう今の状態だとどうしてるか判らないの」
「じゃあ、真緒ちゃん、ずっとその人のこと好きなの!?」
「う、ん……」
架空の人物像を描くのは難しい。友だちの剣幕に圧されながらも必死に話を繋げる。
「知らなかったー。真緒ちゃん、普段あんまり恋話しないもんね。初めて聞いた。一途なんだね」
「う、うん」
「そっか。だからさっきも困ってたんだね。大丈夫だよ、またアイツが何か言ってきたらあたしたちが断ってあげるから!」
「でも、でも、みんなには内緒にしてね。恥ずかしいから」
「あ、そっか。判った!」
納得はしてくれたらしい。全くのでたらめを言ったことに罪悪感はあるが、これでクラスメイトと揉めることはないだろう。あの男子のことを、女子のうちの誰かが好きかもしれない。揉める種は潰すに越したことはない。だけど……ごめんね、ごめん。心の中で謝罪する。
「ね、あのさ。話変わるけど……」
真緒梨にとって興味のない話をこれ以上しているよりも、確かめたいこと。
「さっき、体育館の天井に何か煙みたいなのなかった?」
「煙?」
友だちはきょとんとした表情を浮かべて訊き返してくる。
「そう、煙。天井に溜まってなかった?」
「えー、知らない。あたしは見てないよ」
「そっか。じゃあ、私の見間違いかも」
この子には見えていない。他は? 他の友だちも見ていない? アレを見たのは私だけ?
胃の中に鉛を詰め込んだような不快な思いを抱えながら、教室まで戻る。他の2~3人にも同じことを訊いてみたが、返ってくる答えは同じだった。
何かは判らない。何が自分の周りに漂っているのか、真緒梨には判らない。いわゆる霊感なんてものもない。悪夢なんて誰でも見るだろうし、金縛りだって経験することだ。一度も経験したことはない、という人の方が圧倒的に多いだろうが。
痣だって、どこにあっても何も奇怪しくない。だから、みんな気のせい。目の錯覚。視界の隅で何かが動くように感じても。黒い靄があっても。何もないところに黒い煙なんて立たない。
だからみんな気のせい。気のせい。気のせい。
どうして自分だけがこうなのか。どうして自分だけが日常生活を楽しめないのか。自分も友だちと気兼ねなくお喋りがしたかった。物心ついた時から、この悪夢は真緒梨に憑いて回っている。いつもいつも、心臓が締め付けられる。
気を強く持とうと決心して眠りに就いても、いざ悪夢に捕らわれると恐怖に雁字搦めになる。
これからどうすればいいのだろう。このままずっと悪夢を見続けるのだろうか。それとも悪夢が黒い靄のように実体を持っていつか真緒梨を蝕むのか。
こんなこと、友だちにも相談出来ない。
考えても考えても───答えは出ない。
自身に纏わり憑く黒い影。恐ろしさだけが積み重なっていく。