第40話
「アサ!」
目を開けた真緒梨の眼前には、至って普通の部屋。穢れた異形たちも、飛び散った肉塊も───アサも。
何も無い。何処にでもある、普通の和室。
「マオ!」
「真緒梨さん」
母は号泣し、慈晏はホッとした表情を浮かべている。額からは大粒の汗が噴き出していた。異形に貫かれた手は血に染まり、黒衣の袂で覆っている。弥生叔母は腰が抜けたように座り込み、飛ばされた祖母は廊下で未だ気を失っていた。
「あ……」
普通の室内、普通の状態。これが正常なのに。
「あ、あぁ……」
込み上がる熱いものを止められない。
アサ! アサ!
堰を切ったように、真緒梨は号泣した。判らない。これで良かったのか判らない。何か出来たのか、何をするべきだったのか。流れる涙には何の意味があるのか。
「真緒梨……」
背中を擦る母の手は暖かい。
アサ……アサ! 本当にこれで良かったの? たったあれだけの触れ合いで、もう心は遺してないの?
アサの気持ちはアサだけのもので。もう終わりにする、逝く、と言ったアサ。全てを赦し、全てを受け入れ、償うために。
真緒梨の涙はもう届かない。幼いころに味わった恐怖。身に刻まれたおぞましい刻印。追い掛けてきた穢れた闇、冷たい悪意。
それらから解放された。された、のに……真緒梨の心には、ポッカリと穴が開いていた。
胸の中には、最後に見たアサの笑顔。
狭間で遊んだ時の面影を残し、晴れやかに笑っていた。
アサ……アサ、アサ、アサ!
もう逢えない。当たり前のことなのに、それが酷く辛い。
『マオ! ありがとう! 大好きやで!』
晴れやかなアサの笑顔とともに、ふわりと、どこからか花冠の香りがした気がした───……
* * * *
風が吹き抜ける社の前───真緒梨はそこに佇み、アサの気配を少しでも感じようとしていた。けれどそこには何も無い。
アサは欠片も遺さず、消えた。真緒梨の身体の印も消して。アサの霊魂はどこへ行ったのか……天か、地獄か。恐らく───……
「真緒梨さん」
「……慈晏さん」
微かに音を立てて、慈晏が近付く。
「怪我の具合は如何ですか?」
「大丈夫です。そんなに痛くありません」
真緒梨の身体には、服に隠れているが痛々しい傷がある。戦い抜いた証だった。
「慈晏さんは? 慈晏さんの方が酷い傷だったのに……痛くないですか?」
「大丈夫ですよ。こんな傷すぐに塞がります。邪気避けの札も巻いてありますしね」
慈晏の手には、白い包帯が巻かれている。異形により付けられた傷は用心しないといけないという。異形はこの世の理から外れたもの。その外れたものから付けられた傷は、そこからジワリジワリと穢れが侵入してくる。身体の内へ内へ、闇の触手が手を伸ばして行く。そしてその闇の臭いに引き摺られたものも近寄ってくる。そのために、まずは傷を清めて、傷自体が治ったあともしばらく邪気避けの札を持って身を守らなければならない。慈晏は真緒梨に新しい邪気避けの札を握らせてから、そのまま手を引いた。
「社にはあまり近寄らない方がいい」
アサの社から距離を取る。
「この社は何百年とアサが居た。それ故に雜鬼たちが引き摺られやすくなっている」
慈晏は真緒梨の顔を見た。
「あなたはアサと繋がった。云わば奴等にとってアサの気配がある居心地の好い場所の延長になっている。近付くとどんな障りがあるか判らない」
「……」
止まったはずの涙がじわりと滲む。
「───アサは、どうなったんでしょうか」
「……」
意を決して言葉を発した真緒梨を、慈晏はじっと見つめた。風が吹く。
「あくまで、私の憶測です。あなたには酷かもしれないが……」
「……はい」
「アサは、恐らく地獄に堕とされたかと。己の罪に併せた場に、居るはず」
慈晏の言葉に、真緒梨は動揺した。想像はしていた。していたが、慈晏に、生と死の橋渡しをしている人間に言われると重味が違う。
「あ、あぁ……」
脚がガクガクと震え、立っていることが出来ない。立ち眩みを起こしたように視界が歪む。
「真緒梨さん!」
ぐらりと揺れた真緒梨を、慈晏が抱き留める。自身に触れる人の温もりに、また涙が溢れた。
「アサは……罪を償って、いつかまた命を与えられるかもしれない。それはいつになるか判らない。償いの刻は永遠の刻に近い……けれど消滅は無い。消滅が無ければ、いつかは、と思える」
慈晏の言葉が胸に染みる。いつかは───いつかは。慈晏の腕の中はとても暖かい。抱き締めてくる腕が力強い。真緒梨は涙を流し、しばらくその腕の温もりに身を預けた。
「ご苦労やったの。嬢ちゃん」
「おじいちゃん」
柔和な笑顔で老僧が歩いてきた。
「ほ、嬉しい呼び方してくれるのぅ。普段坊主どもに堅い呼ばれ方しとるで嬉しいわ」
「ありがとうございました」
真緒梨は涙を拭って慈晏の腕から抜け出し、お礼とともに頭を下げる。
「よう頑張ったわ。嬢ちゃんも、お母さんもな。傷はどうや。痛ないか?」
この老僧の助けがなかったら、こんなものでは済まなかっただろう。
「大丈夫です」
老僧はうんうんと頷き、アサの社に視線を向けた。
「ここはの、このまま祈っとくわ。アサが永い間居った場所や。ここはこの世であって、この世ではない。違う場にも通じとる。ここからの祈りが、もしかしたらアサに届くかもしれん」
「はい……私、アサに会いにきます」
「そうか……そうしてやってくれ。アサも喜ぶやろう」
3人の上に、しばらく沈黙が漂う。吹き抜ける風が気持ち良い。風に任せて髪を撫でさせていると、どこかで幼いアサの笑い声が聴こえてくる気がした。
「儂らもな、全く窺い知れんのや。神仏の世界は広く深く、儂らには到底及びもつかん」
「……」
「アサはその中で、己を見つめ、受け入れ、相応しい罰を受ける。時にそれは非情なほどの無慈悲を持ってしてや。けどもの……それは誰も逃れることは出来ん」
静かな声が風に乗って社の中に吸い込まれて行く。
「神仏も罰を与えるばっかではない。果てしない道やけど、償った者には転生の輪廻に組み戻してくれる時もある。この世もあの世も、結局は儂ら次第なんや」
老僧の深い思い。
「儂もな、これで良かったのかどうかは判らん。やっぱりアサは消滅させるべきやったかもしれん。けどもの、その場その場で、最良の選択をしたはずや。嬢ちゃんもアサを消させたくなかったんやろうが、アサも嬢ちゃんを助けたかった……その心を大事にしてやりたいな」
「はい」
老僧の言葉が、傷付いた心に僅かに光を灯した。
アサ。ありがとう───あなたが助けてくれたから。私の想いは、届いたかな。
* * * *
「伯母さん、ありがとう」
「お義姉さん、お世話になりました」
僅かな滞在だったのに、随分濃い滞在だった。
「ありがとう……里沙さん、真緒梨ちゃん。大変だったけど、解決して良かったわ。もうこれで変なことは起こらないわね」
祖父母にも声を掛けるべきだろうが、当の本人たちが引き籠っているために却下した。祖母はあれほどの勢いで叩き付けられたにも関わらず、骨折はおろか、打撲程度で済んでいるのは驚きだった。自分の受け入れ容量を遥かに越えた現実に、どうすればいいのか判らないのだろう、と弥生叔母は言う。
「あの人たちのことは気にしないで。連絡もさせないようにするし、もうここには来ない方がいいわ」
弥生叔母のその言葉に甘えて、さっさと荷物をまとめる。そして、仏壇に手を合わせただけで出てきた。
「お母さん、いいの?」
真緒梨は思わず聞いてしまった。母がかつて愛した人───真緒梨に命を与えた父親。過去の悪夢から解放されたくて水瀬家に来たが、父の存在も無視出来ない。
「いいのよ。マオこそ、いいの? あなたのお父さん……もう会えないのよ」
記憶にない父。一緒に暮らした覚えも、遊んでもらった覚えもない。不幸を願うほどではなかったけれど、今まで生きてきて、そしてこれからの人生の中で、必要のない人。小さく手を合わせて、別れを訃げた。
───きっと、もう、ここには来ない。
「ありがとうございました」
見送りに出て来た弥生叔母に、深々と頭を下げた。
「さて。マオ、帰ろうか」
「うん」
「お土産買ってく?」
「何を?」
「やっぱり駅の売店でういろうとか? お饅頭もいいわね」
「ういろうは一口サイズのならね。そんなに買っても食べきれないでしょ」
「帰る前に煮込みうどんも食べてこっか!」
「お母さん、それ好きだねー」
アサ───アサ。
水瀬家には来ないけど、アサには会いにくるよ。
美味しい物たくさん持ってくるから。色んな話もするから。
私、精一杯生きるよ。
アサが守ってくれたから、今私は生きてる。
ねぇ、アサ、待っててね───必ずくるよ。
吹き抜ける風は、真緒梨の元に爽やかな匂いを運んできていた───……
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