第4話
止めて。
止めて、来ないで。気持ち悪い、何かドロドロしたもの。
ザワリ、ザワリと……何かが自分の周りに忍び寄る。気のせい、気のせいだ。そんな感覚になるのは錯覚。全てが気のせいなのに、酷く落ち着かない。
何かが見ている。何かが自分に悪意を向けてきている。どれほど日が経とうと変わらない。授業中も、教室を移動している時も、お弁当を食べている時も……何かが、自分を見ている。
「何か、真緒ちゃん、最近ソワソワしてない?」
「え、そうかな?」
なるべく変に思われないように振る舞ってきたつもりだが、誤魔化しきれていなかったのだろうか。
「好きな人でも出来たんじゃない?」
「そういえば、真緒ちゃんちょっと痩せたよね! 告白に向けて準備してるとか!?」
「誰だれ!? 同じクラス!?」
友だちに質問責めにされて、真緒梨は絶句した。誰にも相談出来ないあの悪夢に悩まされているのに、周りからは恋愛事情に悩んでいると思われていたのか。
「そうじゃないよ。最近ちょっと体調悪かっただけ」
「えー!? そう!? 絶対痩せたよ!」
夜、熟睡出来ていないのだから、多少はやつれているだろう。彼女たちが言うように、恋愛事情で悩んでいるならばどんなに幸せだっただろう。どうして自分はみんなと違うのか。この痣のせい? 痣なんて誰にでもある。この痣とあの悪夢を関連付けて考えても意味なんかない。
友だちが他愛ないお喋りをするのを聞きながら、口元が引き攣らないように注意する。
例え今───この時も。
この時も、どこからか視線のようなものを感じていても。
それが、本能で感じてしまう人間ではないものの視線だとしても。
───絶対に、気のせい。
体育の授業中、真緒梨は体育館の隅で見学していた。コートの中では、真緒梨のクラスと隣のクラスの女子合同でバレーの練習試合をしている。隣のコートでは同様に男子が。ボールを弾く音、クラスメイトの掛け声、シューズが叫ぶ甲高い音、体育教師のホイッスル……様々な音が響く中で、真緒梨は小さく体操座りをして縮こまっていた。ジャージに着替えてはいるが、運動なんてする気になれない。体育教師も、真緒梨が見学の申し出をした時の顔色の悪さを見て、全く不審がることはなかった。
やる気にならないのは体育の授業だけではない。教科全般について、真緒梨の成績は落ち始めている。教師に叱責されたわけではない。自身でそう感じる。次のテストではそれが如実に現れてしまうだろう。そう感じて判っているのに、打開出来ない。
学校に居ても、家に居ても……全く集中出来ない。集中出来るとすれば、母の里沙が居る時だけだ。母と一緒にリビングで勉強している時だけは、リラックスして集中出来る。
どうすればいいのか判らない。気のせいなのに、無視出来ない。もういい加減にうんざりだ。心配を掛けたくないが、もう夜はずっと母の部屋で寝させてもらおうか……あまりの寝不足に耐えかねて、あのあとも2回ほど母の隣で寝た。そんなことを考えていて。
頭を振って、ふと───体育館の天井を見上げた時。
そこに……何かが、居た。
そこに居たのは───黒い靄。
黒い靄が、体育館の天井に漂っている。
───あんなのは、何でもない。ただの煙だ。きっと校舎裏の焼却炉の煙が流れ込んできたんだ。それがたまたまあそこに集まっているだけで。そうに違いない。異常でも何でもない。あぁ、でも、あんな風に煙が溜まるのは良くないから、先生には言わなきゃ。そう思って、視線をほんの少しそれから外した刹那。
何かが動いた。
真緒梨の視界の外れで、何かが蠢めいた。
瞬間に鳥肌が立つ。同時に左足首がドクンと冷たく脈打った。
固まってしまったかのような視線を必死に動かす。視線を向けるだけなのに、真緒梨の額からは汗が噴き出した。それだけ異常なほどの精神力を必要とした。そんな思いをして、やっとのことで見上げた天井には───
黒い靄が、その穢れた色をより濃くしていた。
───見てる。
理由もなくそう思う。理屈ではない。そう理解する。ただの煙だ。煙に何か意思なんてあるはずがない。いつもの気のせいだ。必死にそう考える一方で。
アレは、私を見ている。私を狙って姿を現した。そう直感してしまう。汗だけでなく、全身が震えだした。それさえも自分で気付けない。
周りの何もかもが遮断されて、黒い靄に吸引されるような錯覚を起こした時。
「真緒ちゃん、危ないッ!」
突然響いた友だちの叫び声と、頭に受けた衝撃に───
限界まで緊張感で高まっていた真緒梨の意識は……プツリと切れた。