第38話
恐ろしい内容に、恐ろしい現実に脳が激しく殴られ、全身が震え竦む。どうすればいい? このまま、どうなる?
───慈晏、落ち着き。焦らんでもええで。
老僧の声とともに、真緒梨と里沙を包む光が暖かさを増した。
───気を静め。ガチガチになっとったら身体が動かん。主には出来るはずや。
老僧の声は、真緒梨だけでなく慈晏にも呼び掛ける。祖父の助言に慈晏は深い呼吸をした。表情から焦りの色が消える。
───嬢ちゃんたちは心配せんでもええ。儂と慈幹の身が締めが届いとるはずや。
暖かく優しい空気はそのためか。
───火回咒でいくで。呼吸を合わせ。
慈晏が深く細く、息を吐き出す。吐ききったあとは、指先にまで酸素を活き渡らせるように吸い。揺るぎない毅い声で、真言が力強く滑り出した。
「ノウゼン サンマンダ サラバタタ───」
ふたりの声が重なるその瞬間、招かれざる闖入者は誰も感知することは出来なかった。
「あんたらいい加減にしてや! さっきから煩いんや!」
遠慮なしに、思い切り襖を開けると同時に罵声を上げる。なぜ、今!? 予想外の老女の侵入に、慈晏も咄嗟に反応することが出来ない。
「お母さん! 何してるの!? 出てって!!」
「喧しいわ! あんたらこそこの家が誰の家か判っとるんか! 人が黙っとりゃいい気になって! くだらんインチキしとらんとさっさと出てけ!!」
慈晏の注意が切れたその瞬間、異形たちがその刹那を見逃すはずはなく。脚先の鋭いナイフのような切っ先で慈晏に襲い掛かる。頬に、肩に、腕に、腹に、脚に───一瞬で黒衣の若僧は血塗れになった。
「慈晏さんッ!」
血に濡れた手で印を組もうとするも、その手を刃状の脚が貫いた。
「ぐぅ……ッ!」
「慈晏さんッ!」
貫いた脚を引き抜くことなく、畳に縫い着ける。これでは戦えない。慈晏の動きは拘束されてしまった。
ひ──────ひひぃぃぃぃぃぃ──────
げっげっげっげっげっげっげっげっげっげっ
おおおおおおおおおおおぅぅぅぅぅぅぅぅ
昏く下卑た嗤い。犬が、猫が、蟲が、鳥が……生あるものを無理に模倣した生き物擬きたちが、喜びの声を挙げる。喜んでいる。自分たちを邪魔する若僧を排除出来て、喜んでいる。穢れた喜び。慈晏を留めた置いた異形たちは、ぬらり、と真緒梨に意識を向けた。
ひひぃぃぃ──────ひ───ひ───
げらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげら
嗤いが治まらないとはこのことだろう。真緒梨を標的に捕らえ、風船のように膨らむ。
「真緒梨さんッ!」
黒い蜘蛛の触手を四方八方に蠢かす。
「慈晏さん……ッ!」
触手を全て真緒梨に向けて、老僧の護りも弾き飛ばして真緒梨を取り込んだ。
アサ!!
真緒梨が咄嗟に助けを求めた相手は、母ではなく、慈晏でもなく───
狭間で一緒に遊んだ幼子だった。
里沙が絶叫する。真緒梨の頭に、項に、腕に、横腹に、脚に。異形たちの牙と爪が突き刺さる。
「……ッ!」
全身を襲う衝撃に声が出ず、息も出来ない。目が霞かかる。
「な、何しとんや。真緒梨がふざけたことしとんのか!」
「カン マーン!」
祖母の喚く声をかき消して、慈晏が真言を張り上げる。
「ノウゼン サンマンダ バザラダンセンダ マカロシャダ ソワタヤ マカロサャダ カラタワ ウン タラタ カン マン!」
自身を貫く痛みを無視して、慈晏が真緒梨を救うべく片手で印を結ぶ。縫い着けられた手は、畳を血に染めていく。慈晏の手刀で滅せられても、異形たちは次々と群がった。己の身も省みず、慈晏が止める間もなく母が娘の元に飛び込んだ。
「マオ! マオ!」
飛び込んだ凝った闇はぐじょりと粘り、里沙を拒絶する。
「マオ! どこなの! どこに居るの!?」
お母さん!
母の声は耳に届いているが、真緒梨は闇に圧迫され、声が出せない。
───マオ、大丈夫……
微かに聞こえた小さな声。アサの、あの小さい手が身体に触れた───気がした。アサの手を確認する前に、それは離れてしまった。
次の瞬間、異形たちがザァッと引き摺られる。真緒梨に牙を立てていた異形が一体も残らず。
「マオ!」
血だらけになった真緒梨を、里沙は急いで手元に引き寄せた。慈晏の手にしぶとく残っていた残滓は慈晏が斬り捨ている。真緒梨の目線は、ただ一点を見つめている。慈晏の視線もそこに。
「……アサ」
狭間で一緒に遊んだ幼子が、そこに居た。朧気に揺蕩い、異形の通り道にされていたアサ。それが今や、凶暴な異形たちを全て引き摺り、支配している。慈晏と真緒梨が見ている中で、アサは異形を取り込んだ。
「アサ!」
真緒梨と里沙の前に、戒めを解いた慈晏が立ちはだかる。自身の手からボタボタと垂れる血には無頓着のようだ。異形を取り込んだアサは、闇と溶け合い、凝り、混ざり合い、爆発するかのように四方に闇の触手を伸ばした。
「アサ!」
「な、何や!? この化けモン!」
キヨの絶叫に、闇はぐらりと揺らめき。ボコリと唐突にアサの爛れた顔が浮かんだ。
「ひぃ!?」
その顔は有り得ないほど大きく、そしてその目は激しい憎しみを内包し、キヨをひたと見据え───
「ひいぃぃぃぃ!」
昏い口を大きく開いて、キヨに向かった。アサの口に呑み込まれたキヨは、その一瞬のあとに廊下の壁に叩き付けられた。衝撃にそのまま失神する。
「アサ!」
ぐちゃぐちゃと闇が蠢く。アサの顔の輪郭も何もかも無視して、ボコボコと凹んで膨らんで肉塊を飛ばして。
───マオ
ううぉぉぉおおぉぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ
げげげげげげげげげげげげげげげ
ひひぃ─────────ぃぃ──────
犬が猫が鳥が蟲が魚が、数え切れないほどの異形が各々の存在を主張して。その中から、アサは身体を引き千切りながら飛び出し、真緒梨の元に飛び込んだ。瞬間、アサが空気に溶けて真緒梨を包み込む。
───マオ、ありがとうな……
「アサ!?」
微かに聞こえた声と、異形たちが真緒梨に向かって来たのはほぼ同時。
その先は、一瞬一瞬がすべてコマ送りのように真緒梨の目に焼き付いた。
空気に溶けたアサが、真緒梨に年相応に柔らかく微笑み。意識を異形たちに向けたのが判る。
まるで真緒梨の盾になるかのように、両者の間に空気の膜を張った。その後ろで、アサを助けるように慈晏と公慈の真言が響く。
「ノウゼン サンマンダ サラバタタギャテイビャク───」
───サラバボッケイビャク サラバタタラタ センダマカロシャダ ケン ギャキギャリ
公慈と慈晏の真言が絡み、重なり、その勢いに呑み込まれるような錯覚を起こす。
「サラバビギナン ウンタラタ カラタワ カン マン!」
穢れた異形を焼き尽くす聖なる光炎。神仏の助けを借りた圧倒的な力は全ての穢れを祓う。
異形たちも───アサも。
「アサ!」
真緒梨は必死に手を伸ばした。
アサが逝く───逝ってしまう!
「アサ!」
無我夢中で手を伸ばして───……掴まえた。




