第37話
「真緒梨!」
母の声は、唐突に真緒梨の耳に直接響いた。酷く重く感じる目蓋を必死に開ける。薄く開いた視界には、泣いている母の顔があった。
おかあさん?
声を出そうとして、酷い風邪を引いた時のように声が掠れて出ない。抱き締められている身体も、指先ひとつ動かない。どうして? 指先が酷く冷たい。真緒梨の左足首に触れている母の手が、まるで熱を持っているように熱く感じた。
「真緒梨……良かった」
心底安堵した顔の里沙が真緒梨の頬を撫でる。
「真緒梨……マオ、マオ。良かった……ッ!」
涙をボロボロ流し、娘を抱き締める腕に力を籠める。真緒梨は状況が掴めなかった。どうしてこんなに全身が怠いのだろう。まるで長時間、全力疾走したあとみたいな激しい疲労感がある。
「真緒梨さん、良かった。還ってこれましたね」
低い声が耳を打つ。夢現の中で聴いた声は、この声だ。慈晏の顔を見ると、額には汗が光っている。ザァッと記憶が追い付いてくる。
───アサは? 一緒に遊んだアサは?
「……」
問い掛けたつもりが、声が出ない。けれど慈晏は正確に真緒梨の意を汲み取った。
「アサはここに居ますよ」
真緒梨の胸を指差す。暖かくなり始めていた胸元がスッと冷える。そこから陽炎のように、ユラリと立ち昇る影……頼りなく、薄い煙のようなものは徐々に形を成し、白い肌のアサを形作った。
「……ア、サ」
無理矢理に声帯を震わすと、酷く喉が痛む。母は繋いだ娘の手を決して離そうとはしなかった。
「……ノウゼン サンマンダ バザラダン ゼンダカン───」
慈晏の真言が聞こえた瞬間、真緒梨は悲鳴を上げた。
「止めて……止めて!」
「マオ!?」
実際の声は掠れて、慈晏の耳に届いたかどうかは判らない。けれど、真言を中断させることは出来た。
「アサ!」
動かない身体に必死に力を入れて、朧気な陽炎に手を伸ばす。
「真緒梨さん! 今あなたはアサに憑れて逝かれそうになった。アサが出てきた今が調伏させられる時なんだ!」
「アサと遊んだの! アサは良い子よ!」
「良い子だろうと死者が生者に干渉するは赦されざる罪。報いは受けねばならん」
厳しい眼差しの慈晏は恐ろしく、気合いと力に溢れている。
「アサは遊びたくて、淋しくて、泣いてただけよ!」
感情のままに叫んだ真緒梨に、慈晏は眉を顰めた。
「だからといってアサの罪が赦されると思われるのか?」
アサと共に過ごした時間───その記憶は、真緒梨から喪われていなかった。
「真緒梨さん。今あなたは酷く消耗している。それはアサがあなたの生気を吸い取ったからだ。あなたの生気を糧にして遊んでいたんですよ」
狭間でアサが言っていたことを、慈晏の言に改めて証明される。
「今までの取り込まれた子どもたちも同じように吸い尽くされたはずだ。あなたが還ってこれたのは運が良かったといっていい」
それだけではないだろう。僅かながらも慈晏の真言は聴こえていたし、母の温もりも感じていた。それに、素直にアサと遊んでいたからかもしれない。
「世の理を曲げるわけにはいかぬ。アサは居てはならない者なんです」
判っている……判っている! それでも、触れてしまった。アサの内側を知ってしまった!
今のままではアサのためにならない。本当にアサを救いたいと思うならば、アサを祓わなければならない。アサのためにも、アサに憑かれ、死んでいった子どもたちのためにも。判っている、判っている───けれど!
たった一度の邂逅。
遊び方を知らなかったアサ。動物の名前すら知らなかったアサ。肉体を喪っても、自らを鬼子だ、忌み子だと縛り続けて。真緒梨に出来ることはない。この先は慈晏に任せるべきだ。けれど、けれど……!
その時、アサがゆらりと傾いだ。何だろう……訝しく思ったその刹那。アサの内側から、狭間で遊んだ異形の犬猫が飛び出してきた。
「アサ!」
まるでアサの輪郭を突き破って出てくるかのような異形たち。アサの声にならない悲鳴が響く。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前!」
慈晏が素早く手印を組んで、室内の人間の盾になった。
「ノウゼン サンマンダ バザラダンセンダ マカロシャダ ソワタヤ マカロサャダ カラタワ ウン タラタ カン マン」
陽炎のようなアサをかき消して、犬猫は飛び出し続ける。狙いは真緒梨だった。なぜ……何故!? アサと遊んでいた時もそうだった。異形たちは明確な意思を持って真緒梨に牙を立てた。
アサに狙われていたのは判る。けれど、何故この異形たちにまで狙われなければいけない!? 母と繋いでいた手は離れてしまった。
「マオ!」
母の叫びが響く。真緒梨は悲鳴を上げる間もなく全身を穢れた影に包まれた。本来の形を無視した異形の化け物が娘に群がるのは、母にとって心臓が潰される思いだった。
「ノウゼン サンマンダ バザラダンセンダ マカロシャダ ソワタヤ マカロサャダ カラタワ ウン タラタ カン マン」
「マオ! 真緒梨!」
犬猫が顔をパックリ割って、有り得ないほど大きな口を開ける。目を向けると、そこにはただただ昏く深く、ドロリとした闇に繋がっていた。闇にも犬猫にも構わずに母が娘を抱き締める。その母にも異形たちは襲い掛かった。
「お母さん!」
真緒梨の目の前に、母の鮮血が飛ぶ。
「里沙さん!」
弥生叔母の悲鳴も響く。蹲った里沙と真緒梨に、異形たちは山となって覆い被さった。犬と猫の鋭い牙───わさわさと大きな脚を蠢かす蜘蛛。おぞましい感触が肌を走る。爪の生えた脚がふたりの肌に突き刺さった。
「嫌! 嫌ぁぁ! 里沙さん! 真緒梨ちゃん!」
母子の血を啜って、異形たちは実体を持ち始めた。真緒梨は恐ろしさに声が出ない。
───大丈夫や、嬢ちゃん。そのままお母さん抱いとったれの。
その時頭の中に響いたのは、この場に居ないはずの老僧の声。その声が響いたと同時に、ふわりと暖かい何かに包まれた。
「ノウゼン サンマンダ バザラダンセンダ マカロシャダ ソワタヤ マカロサャダ カラタワ ウン タラタ カン マン!」
光炎で異形たちを薙ぎ祓った慈晏が焦った表情を浮かべて真緒梨に向き合った。
「真緒梨さん、アサと居た時に何かありましたか!?」
「ね、猫たちに襲われました。アサが追い払ってくれたけど……」
異変はそれしか思い当たらない。急いで猫に咬まれた跡を見せる。牙を突き立てられた部分は、既に赤黒くなってその現実を物語っていた。
「それだ」
かき消されたようなアサからまた異形が飛び出す。
「慈晏さん!」
「カン マーン!」
声に力を籠め、即座に手刀を斬る。バチッ! と激しい火花のような音を立てて、目の前の異形が弾け消えた。
「あなたが咬まれたことで、あなたの生気が奴等に流れたんだ。アサに寄生しているだけだったのが、それで力を得た。あなたの生気で力を得たから、だからあなたを狙っているんだ!」
異形たちに立ち向かいながら慈晏が叫ぶ。その内容に真緒梨は絶句した。
「奴等は絶えずエネルギーを欲している。今まではアサを通して吸い取っていたところにあなたがいきなり現れた。しかも死者ではなく生者の生気だ。奴等はあなたの味を覚えたんだ!」
異形を祓いながら叫ぶ慈晏の声を聞いて、真緒梨は何も考えられなかった。




