第5章 狭間のとき
「アサとあそぼう」
目の前に立っている可愛い女の子。初めて会う子なのに、とても良い笑顔を浮かべている。
「いいけど……ここ、どこ?」
その笑顔に釣られて了承したけれど、見渡す限り何もない空間。
「アサもよぅわからん。でもアサはいつもここに居るで。あそぼう?」
「うん……じゃあ、お母さんが迎えにくるまでね」
大好きなお母さんが居ないと淋しい。それに自分が近くに居ないと、お母さんも淋しがる。きっと今ごろ探しているかも。
「じゃあ鬼ごっこしよう!」
「こんな暗くちゃ見えないよ。真っ暗なんだもん」
女の子の周りだけは少し見えるけれど、こんなに暗くては遊ぶどころではない。
「明るくなればええ?」
「うん」
「こんくらい?」
簡単にそう言って、何もしていないのに明るくなった。
「え、今のどうやったの? スイッチもないよね?」
周りを見ても、何もない。壁も、電気も、いつも身の周りにあるはずの物が何もない。なのに───
「うん? すいっち? よくわからんけど、ここはアサの思う通りになるんや。明るくなったであそべる?」
明るくなった元で見る女の子はやっぱり可愛くて。ニコニコ笑って自分を見てくれていることに、真緒梨も嬉しくなった。何もしていないのに、なぜ明るくなったのかよく判らないけれど、そういうこともあるのだろう。
「うん、いいよ」
自分が答えると、増々笑顔が輝く。
「じゃあアサが鬼な! 行くで!」
「わかった。ひ!? 嫌だああぁぁぁ!!」
鬼ごっこと聞いて駆け出そうとした足が固まる。可愛かった女の子は、見るも無惨な顔になっていた。ほんの一瞬の変貌───ほんの一瞬で、女の子の顔は顔中に穴が開き、血が溢れ、気持ちの悪い虫が這いずっている。
「嫌だああッ!」
「……何で泣くん?」
口を動かすと、虫とともにどす黒い血が吐き出される。酷く喋りにくそうだ。
「来ないで! 何でそんな顔するの!? 嫌だ! うわぁぁぁん!!」
手で目元を覆う。背筋が凍る。怖い、怖い、怖い!
「こういう顔したらあかんか? ごめん、なら戻すわ」
「嫌だ嫌だ! 怖いよ!」
「これでええ? さっきと同じやで」
そう言われても、怖くて手の覆いを外せない。
「……もう血出てない? ちゃんと治ってる? 変な虫もいない?」
「うん、おらへん。見てみ」
女の子の声に、恐る恐る顔を上げると……そこにはさっきまでの可愛い女の子の顔。
「……本当だ。もうあんな顔しないで。怖いし嫌だよ」
ホッとして身体の力が抜ける。
「うん、わかった。このまんまの顔でおる。あそぼ?」
「じゃあそっちが逃げてよ。私が鬼になる」
「え、アサが逃げんの?」
「うん、鬼ごっこでしょ? 交代で追いかけようよ」
「わかった! アサ逃げる!」
女の子は脱兎の如く駆け出す。
「あ、ちょっと! 待って! 足早ーい!」
「あはは! ちゃんと捕まえてや!」
「もー、そんな早くちゃ追いつけないよ!」
真緒梨と女の子の距離はあっという間に広がってしまった。それでも少し離れたところで立ち止まり、真緒梨を待ってくれている。急いで傍まで走り、横に並び立つ。
「なぁ、名前何ちゅうの? 私、アサや」
「まおりだよ。マオ」
名乗ると、女の子───アサは、心底嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「マオ! マオ! アサといっぱいあそんでな!」
鬼ごっこに追いかけっこ。これでもかというくらい走り回った。
「ねぇアサ……ちょっと待って。疲れちゃった。休憩しようよ」
「えー? まだあそびたい。これは? どうやってやんの?」
アサの手元には、縄。縄跳びはないの? と訊いた真緒梨に、アサは「なわとびって何?」と返してきた。説明すると、瞬時にこの場に縄が現れる。どんな仕組みかは判らないが、便利なものだ。
「さっきあたしが跳んだみたいに跳んでみなよ」
「……よう出来ん。何でマオはそんな簡単に跳べんの?」
「えー? 別にむずかしくないよ。手首を回せばいいんだよ」
「むずかしいて。マオみたいにようやらん」
真緒梨が見本を見せても、アサはなかなか跳べなかった。手首が上手く回らない。
「じゃあまたあとでやろ? お花つみとかは? ここにはお花畑ないの?」
出来ないことに面白くなかったのか、アサはあっさりと縄跳びを放した。
「出来るで。出したげる。ほら」
「うわ、すごーい! こんなにいっぱいどうやって出したの?」
言った瞬間には、目の前に視界いっぱいの花畑。色彩りの花が視界に楽しい。
「言ったやろ? ここはアサの思い通りになるんやもん」
「すごいね! お花のじゅうたんみたい! こんなにいっぱいあるなら、花かんむりも作ろうか!」
「花かんむり? どやって作るん?」
「知らないの? じゃあ一緒に作ろ」
「うん!」
小さな手で花を摘む。
「こうやって編んでくんだよ。くきどうしくっつけるの」
「こう?」
少し束にした花の茎を寄り合わせて編んでいく。
「あ、アサ上手! 器用だね」
「本当? そんなん言われたの初めてや」
真緒梨が褒めると、アサはとても嬉しそうに笑う。白い頬がほんのり赤くなった。
「出来た! ほら、頭にかざると可愛いでしょ? アサ似合うよ!」
「うれしい……マオも似合うな」
アサの頭に飾ると、花冠は丁度良い大きさで黒髪を彩る。
「アサの髪の毛真っ黒だからお花の色がよく似合うね」
「アサの髪?」
「うん、サラサラですごくキレイだよ」
真緒梨の髪も真っ黒だが、アサの髪の方がより深い色をしている。
「アサが?」
真緒梨の言葉を、アサはきょとんとした表情で聞いている。
「そうだよ? 自分で気付いてないの?」
真緒梨も不思議に思って重ねて訊いてみるも、アサも不思議そうな表情を崩さない。
「アサは……汚くないん?」
「汚い? どこが?」
アサの顔が歪む。笑っていた顔から、泣きそうな顔に───泣くまいと堪える顔に。
「だって、アサは……鬼子なんや。要らない子なんやって」
その単語は、真緒梨は初めて聞くものだった。
「鬼子ってなに? アサは汚くないし、可愛いよ」
真緒梨が躊躇いなく断言すると、アサの表情は増々判らないとでも言いたげな、不思議なものになった。
「誰かになんか意地悪言われたの?」
自分と同じくらいの歳だと思うのに、アサは酷く幼く感じる。
「うん、ずっと……怖いことも言われとった……」
「そっかー。嫌だね。だったらもうそんなこと忘れちゃいなよ!」
「え?」
そう真緒梨が言い切ると、アサは目を見開いた。
「嫌なこと覚えてるより、楽しいこと考えようよ! ほら、お花のかんむり可愛いでしょ? こういうこと考えてた方が幸せだよ!」
それは桜庭の祖父が言っていたこと。悪いことをして母や祖母に怒られたあと、いつも祖父の元に駆け込んだ。自分のやったことを反省したあとは、次は楽しいことを考えよう……いつもそうやって気持ちを切り替えていた。
「え、アサ? あたし嫌なこと言った? 泣かないで」
だから、一緒に遊んでいるアサが何も言わずに涙を流したのを見て、とにかく驚いた。もしかして、アサの嫌がることを言ってしまった?
「うぅん、違う。そうやない。今までずっと嫌なことばっか考えとったから……ずーっと忘れられへんの」
「そうなんだ。もう忘れちゃいなよ。嫌なことずっと覚えてるの嫌じゃない?」
「……うん、嫌や。もう嫌や」
自分の言葉でアサを傷付けたわけではないことに安心しつつ、アサの気持ちを晴らせる。
「嫌なことはもう考えるの止めようよ。ほら、アサ。あそぼう」
顔を覗き込んで、花で顎先を擽る。「アサ?」と名前を呼ぶと、アサも笑顔になった。
「お花の首かざりも作ろうか! こんなにいっぱいお花あるんだもん!」
「……うん、作ろ!」
摘んだ花を両手で掬って花を舞わせる。色彩りの花がヒラヒラと蝶々のように飛んだ。
「いっぱい作って、お母さんにもあげよっか」
花の蝶々の中でアサに提案すると、アサはまた不思議そうな表情をした。
「お母さん?」
「うん。アサにも居るでしょ?」
「お母さん……おったんかな」
アサのその言葉に真緒梨は驚いた。
「お母さん居ないの?」
「わからん。アサはずーっとここにおる……」
「お母さんとはなれて迷子になっちゃったの?」
こんなところにひとりで? お母さんが居るかどうかも判らない?
「迷子になったんなら、きっとお母さんが探してくれてるよ。それまで一緒にあそんでよ?」
真緒梨も一度迷子になったことがある。怖くて、心細くて、もしかしてこのままもうお母さんに会えないんじゃないか……そこまで思ってしまったころ、血相を変えた母が探し出してくれた。会えたあの時の安心感、抱き締めてくれた母の匂いと暖かさは忘れられない。今はどうなってここに居るのかよく判らないけれど、会ったらきっと抱き締めてくれるはず。
「マオ……一緒に居ってくれるん?」
「うん、居るよ」
笑顔で即答すると、アサは眉毛を下げて微笑んだ。




