第32話
───ねぇ、あそぼうよ
───ねぇ、あそぼ……
アサの声が響く。真緒梨は強く目を瞑り、頭を抱えて蹲った。
来ないで! あっち行って!
目を瞑っているのに、アサのあの顔がまざまざと視える。
見たくない! そんな顔は嫌!
そう強く思った時、溶けたアサの顔が消えた。周りには真っ黒な、穢れた闇───その中でポツンと白い顔の生首が浮かんだ。それは遠くから……生首だけが真緒梨の周りを旋回して近付いてくる。目を瞑っているのにその動きが全て判る。アサと繋がってしまった証なのか。いくつもの白い顔の中に爛れた顔が交ざる。
───あそぼう、アサを見つけて
あ───そ───ぼ─────────……
あ───そ───ぼうぅぅぉぉおぉぉぉぉ
うおあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ
嫌! 嫌だ!
ひ────────────……
あ は は は は は─────────
狂笑が何重にもなって響いた。唐突に、真緒梨の目の前一杯にアサの顔が迫る。
「ひッ!」
心臓を鷲掴みにされるほどの衝撃。恐怖に凍り付く一瞬のうちに、その顔はがらりと変わる。白い肌の、普通の女の子。目に映ったのは一瞬で、その顔はすぐにかき消された。余りにも唐突で思考がついていかない。
今のは……
アサの爛れた顔と、白い肌の顔が交互に真緒梨の顔の横に、現れては消える。
「止めて……止めて!」
目紛るしいその動きに悲鳴を上げた。そしてまた唐突に全ての顔が消える。
「……」
自身の荒い息遣いが響く。真緒梨はぎこちなく、涙に濡れた顔を上げた。周りを見渡しても何も見えない。変わらない、粘り付く闇があるだけ───
ガクガクと震える身体を抱き締める。冷たい……寒い。けれど、まだ生きてる! 闇に目を凝らし、震える身体を必死に支えた。どれほど嫌な場に身を置いていても、それはいつしか慣れてしまう。周りの変化があったわけではない。けれどいつまでも警戒し続けるのは無理だった。恐怖に心が麻痺しているのかもしれない。
真緒梨は涙を拭き、顔を上げた。何も見えない。背中がゾクゾクと震える。けれど、ここに居るのはアサだけのはずだ。アサは私と遊びたいと思っている。だったら……
「……ねぇ」
意識して発した言葉は、細く掠れて、すぐ目の前の闇に呑まれた。
「どこに居るのよ」
掠れた声は震えて、それでも振り絞る。
「出てきなさいよ。遊びたいんでしょう?」
心臓が激しく打ち、息苦しくなる。生気が無くなりつつあるのに気力を振り絞っているからか。周りを見渡すも、何も変化は起こらない。小さく、浅く、呼吸を繰り返した。
───お母さん。お母さん……助けて。
こんな処に連れてこられて、どうすればいいのか判らない。場所も、時間の流れも判らず。このままここで朽ち果てるしかないのか。それは容易に想像出来て。真緒梨はその恐ろしさに身体が震え、拭ったばかりの涙が溢れ落ちた。
お母さん、伯母さん、慈晏さん。
───生きたい。私は、まだ生きていたい! そのためには今を抗わなければ。
「アサ……出てきて。どこに居るの?」
力を籠めた問い掛けに、遠くの闇に、白い肌の顔がポツリと浮かんだ。穢れた闇の中に、ピリッとした空気が流れる。
アサ……
先程と同じように、白い生首と爛れた顔が交互に現れる。真緒梨は不気味なその顔を睨み付けた。
───あそぼう
白い肌の顔が内側に向かってボコリと陥没する。眼球が潰れて垂れ下がり、ドロリとした液体と血管が厭な色を撒き散らす。
───アサとあそんで
頬の肉が溶け、歯茎が溶け、小さな歯が闇に落ちる。
その変貌を、真緒梨は目を逸らさずに見ていた。おぞましさに目蓋がピクピクと痙攣する。心臓はこれでもかというほど激しく打っていた。
ひ───────────────……
あ は は は は は は は は は
突然の狂笑に肉塊が飛んだ。
───遊んでいる。
慈晏の言葉が脳裏に浮かぶ。そうだ、アサはまだ小さい子ども。閉じ込められて、虐げられて、精神的にも肉体的にも成長を歪められた幼い子ども。遊びたくてもその方法を知らない子ども。こうやって顔を変えるのも、遊びのつもりなのか。
───ねぇ、あそぼう
「遊んでって言うなら、そんな風に顔変えないでくれる?」
意を決して、真緒梨は話し掛けた。すると爛れた顔の変貌がピタリと止まった。
「……」
真緒梨は自身の言葉がちゃんと伝わったことに、少し驚いた。言葉の意味が伝わっているのなら……
「その顔じゃなくて、白い肌の顔に戻れる?」
爛れた顔は瞬時に白い肌の子どもらしい顔に戻った。これがアサの本来の顔───
肌は白く、瞳は大きく……闇の中に居てもその目の漆黒は深い色を称えている。欠けていた鼻も、溶けていた頬の肉も、子ども特有の柔らかい線を描いていた。
「首から下の身体はどうしたの?」
真緒梨が訊くと、アサはちょっと小首を傾かしげるような仕草をすると、視線を下に向けた。瞬く間に身体が形成される。アサは正真正銘、幼い子どもだ。真綿が水を吸い込むが如く、瞬時にこちらの意を汲んで実行する。
その意思に、力に、真緒梨は息を呑んだ。この場は、この子に支配されている。
「いつもどうやって遊んでたの?」
───鬼ごっこ……かくれんぼ
「ちゃんと遊べてた?」
───アサはいっつも鬼
「……」
───だれもアサを見付けてくれへんの……ずっと待っとるのに
信じられない思いを抱えながら、真緒梨はアサと言葉を交わす。
───みんな、泣くん……お母さん、お母さんって
口の中が渇く。
───アサもお母さんに会いたい……んでも会えへんからあそぼうって言っても、ちっとも聞いてくれへん
アサが言うあそぼう、は、子どもたちにとって死の宣告だっただろう。
───泣いとるとあそべへんから、色んな顔して見せるんに、だれも笑わへんの
「色んな顔……」
真緒梨の言葉に呼応するように、アサは半分だけ爛れた顔になり、骨だけの顔になり、どす黒い血に染まった赤い顔になり、蛆虫が沸いた顔になり───
恐ろしくおぞましい唐突な顔の変化に、真緒梨は心臓が鷲掴みにされるほどの恐怖を受ける。白い肌の顔を既に見慣れたからか、その変貌は全身に震えを走らせた。取り囲む空気が一気に澱む。
───みんな泣いて、逃げてくん……
心臓がバクバクと脈を打ち、唇は震えて声が上手く出ない。
───だれもアサと一緒に居ってくれへん
小さくても、死に属している者。それをまざまざと見せ付けられた思いだ。自らとは違う世界のものには、恐ろしさが憑き纏う。
「みんな怖いのよ……」
高校生の真緒梨でも、芯から震え上がるほどの恐ろしさを感じている。それは小さな子どもだったら尚更恐怖に雁字搦めにされるだろう。
「いきなりこんな処に連れてこられて、それだけでも怖いのに、そんな怖い顔見せられたらもう泣くしか出来ないわ」
───アサが怖いん?
「その顔を見せたんでしょ? 凄く怖いわよ」
真緒梨のその言葉に、アサはポカンとした表情を浮かべた。相手が怖がっているのか、楽しんでいるのか……この子には判らないんだ。誰にも教えられず、誰にも愛されず───水瀬家の子どもたちを何人取り込んでも、遊び方さえ知らず……
真緒梨の頬を涙が伝う。息苦しい。呼吸をしようとしても、澱んだ闇の中では充分な酸素が無い。
ここは死が支配する闇の領域。その中で、真緒梨はアサのために涙を流した。




