第31話
老僧の公慈が座主を勤める高気寺───老僧はアサの社に一心に祈りを捧げていた。
つい先程、アサが飛び出して行ったのが判った。祈りを捧げ、目に見えぬ鎖を繋いでいても一瞬でそれを引き千切りアサは飛んで行く。留め置こうとしても力の爆発は抑えられない。それほどに幼い子どもは純粋で、底知れぬ力を秘めている。
長年ここに居るだけあって、この社はアサに馴染んでいる。かといって、ここに落ち着こうという心積もりがあるわけではない。ただここで惰眠を貪り、水瀬の人間の気配を感じれば飛び出し……雜鬼たちを纏わり憑かせて戻ってくる。
真緒梨はアサが渇望している水瀬の娘だ。しかもアサが刻んだ刻印───痣まで持っている。かつて己れが付けた目印。アサは何としても真緒梨を手に入れたいと思っているだろう。
アサの手元に遊び相手が居なくなってから長い時が経つ。遊びたくて、自分を見て欲しくて……いや、そもそももうそんな思念さえないかもしれない。あるのは水瀬の血に連なる者への狂信的な執着───
その想いが様々な雜霊雜鬼を呼び寄せている。
───ヤエ。仏になり、アサを見ておろうか。
ヤエが慈しんだ愛娘……今の有り様に嘆いとるやろうの。主の居る処にアサを送ってやりたいがの……再び見えるのは永い永い刻が掛かりそうや。
───のぅ、ヤエ……待っててやってくれな。必ず逢わせてやるでな。
ジャラ、と数珠を鳴らし、握る手に力を入れる。水瀬家でアサと相対している真緒梨と慈晏を思う。祈りは距離を越えて届くはず。公慈の願いに呼応するように、アサの社の前に設えた護摩木が大きく燃え上がった。不動明王が御自ら力を貸してくれるようだ。
「親父殿」
老僧の後ろに構える僧が声を掛ける。
「慈幹。儂らの宿願や。ご先祖様からの頼まれごとを完遂するで。慈晏も戦うとる。主の誇らしき息子や。儂の誇らしき孫や。儂らはここから加勢しよかの」
「はい。日比谷の者の使命ですからな」
深く息を吸い、低い声で始める。
「ノウゼン サンマンダ ボダナン ノウサンビャク───」
アサ───主の無念、怨み、執着……全部全部、この爺が受け止めたる。
怨みを抱えたままではヤエに逢えん。
全てを断ち斬り、天に昇れ。
* * * *
「お母さん! どこ!? お母さん!!」
───叫んでも。
「お母さん!!」
必死に叫んでも、どこからも返事はない。
「お母さん! 伯母さん! 慈晏さん!」
太鼓を打っているように、心臓の音が耳に突く。見渡す限りの暗闇。目を見開いているはずなのに、目には何も映らない。周りに指先を伸ばしてみても、そこに在るのは穢れた闇だけ。ドロリと粘り付くような湿気を含んでいる。
「お母さん!」
重く澱んだ空気が肺へ流れ、叫ぶ声も黒く染まり、身体の内と外が作り替えられていく。生ある者から死したる者へ……指先が強張り、冷たくなる。血の通わない死者の身体。肉体を奪われ、精神を穢され、魂を絡め盗られる。
さっきまで自身の心臓の音が聞こえていたのに、気が付くとその音は小さくなっていた。パニックを起こしかけた時。
───ねぇ、あそぼう……
微かに聞こえた声に、全身が総毛立った。身体の内側に虫を入れられたような……おぞましく逃れられない強烈な嫌悪感。
アサ───
目蓋を強く瞑る。ヒヤリとした感覚が真緒梨の腕を伝った。それは、確かに小さな指の感触……子どものそれ。
アサが居る───……
息苦しさは変わらない。脳裏にはあのアサの顔が広がった。自分とは違う世界に属する死者の顔。それは恐怖の対象でしかない。
嫌! 来ないで!
真緒梨の喉は恐怖で塞がれ、声も出ない。
来ないで!
心で強く思った。
真緒梨の腕を伝った小さな指は、背中を伝い、足を伝い──左足首の痣に触れる。そこが、ドクンと冷たく脈打った。
───
──────……
「マオ! マオ! 真緒梨!」
青冷めた顔の里沙が必死に真緒梨を揺さぶる。
「真緒梨!」
しかし、軽く閉じられただけに見える目蓋は開かない。
そんな……そんな───どうしてしまったの……どうして目を開けないの。
真緒梨がおぞましい塊に向かって足を踏み出した時、身体が鉛のように重くなった。
近付いては駄目! いけない!
けれども竦んだ足は動かず、名前を呼ぶことしか出来なかった。慈晏が引き戻してくれて、顔を見ようとした時には……もう、目蓋を閉じていた。
真緒梨! どうして!? どうすればいいの!?
恐ろしい現実に涙が込み上げる。
「搦めよ、示せよ、金剛童子」
力強く響く声に、ハッと顔を向ける。
「搦めよ童子。示せよ童示。不動明王炎王御本尊を以ってし、この悪霊と絡め取れとの大誓願なり。搦め取り玉わずんば不動明王の御不覚これに過ぎず。御全なり」
自信に溢れた若者の声が身体に染みる。
「オン タラタカンマン ビシビジバサラク ソワカ」
泣いている場合ではない。諦めてはいけない。娘の冷たい指先を握り、少しでも温もりが移るよう───
「……慈晏さん、真緒梨はどうなったんですか?」
「おそらく、アサに憑かれて絡められていると……そのまま抱き締めていて下さい」
力の抜けた娘の身体を、幼いころのように抱き締める。
「そのまま、戻ってこいと。還る場所はここだと真緒梨さんに呼び掛けていて下さい」
「はい!」
真緒梨、真緒梨! お母さんはここに居るわ。あなたはここに還ってくるのよ。
娘の身体を抱いているうちに、左足首が他より冷たいことに気が付いた。これはアサに標的にされた印……そこに手を当てて、温もりを伝える。
真緒梨。お母さんのところに還ってきて。
「ノウゼン サンマンダ バザラダンセンダ マカロシャダ ソワタヤ マカロサャダ カラタワ ウン タラタ カン マン───」
どうすればいいのかなど判らない。慈晏たちのように立ち向かう知識も術もない。けれど娘を想う気持ちだけは決して枯れない……なくならない。
マオ───お願い、頑張って。




