第23話
変わり果てたアサを見付けたのは、タキだった。アサの寝床にさせていた地下牢に、粗末な食事を運んできた時だった。
蒲団に嘔吐した跡、掻き毟って血だらけになっている胸元、血に染まった指先───目の当たりにした惨状に、判断力はどこかに消えてしまったのかもしれない。水瀬家の面々は額を突き合わせてヒソヒソと話し合った。
「どうする……アレ死んでまったで」
「だけども鬼子やで。心中者の葬式なんぞ……」
「村の衆はアレのことを知らんのやぞ。誰やって言って葬式出すんや。ついこないだアレの母親の葬式したばっかやし」
「んならどうすんね」
「……埋めるか?」
「埋めるにしても、どんなけ深く掘らなあかんのや」
「あそこはどうじゃ。うちンとこの、ほれ……山の、沼」
「あの山の裾の沼か……?」
「……」
「……ええかもしれん。あそこは水瀬家の土地やしな。誰にも手出しされん」
交わされる恐ろしい言葉。この中にはアサの実の父親、貞丞も含まれていた。水瀬家の権力に、僅かな亀裂さえ入れてはならない。ここまで大きく、強くした家の繁栄を阻ませてはならない。人が居てこその家なのか、家有りきの人なのか……それのみに捕らわれている人間には、気付くことさえ出来ない。
───
──────……
夜の闇が支配する時刻。
藁に抱んだアサを台車に乗せて、静寂に包まれた闇夜に紛れる。ひとりの人間の存在さえ闇に葬る……鬼の所業。誰しも仮面を被り、鬼に憑かれた。
いつもは煩いほど鳴いている虫の声さえ成りを潜めている。全ての事柄が、このことの成り行きを責めているようだった。
ぎぃ───ぃ……ぎぃ───ぃ……
夜の闇に、車輪の軋む厭な音が響く。周りに視線を走らせ、誰にも見付からないように歩を進める。車輪の軋む音は、もの言わぬ何かに非難されているよう……
アサの父、祖父、使用人頭、その息子……大の大人の男たちが轢いているのに、台車は異様に重く感じた。それは、最後の良心の重みだったのかもしれない。
重苦しい一行が着いた先は……山の裾にぽっかりと口を開いた沼。それは黒々として、全ての生あるモノを引き摺り込もうとしている異形の形。見ているだけで、何かが自分たちに向かって生臭い息を吹き掛けてくるようだった。昔から妖怪が潜んでいると言われているのも頷ける形相をしている。
厭な風が肌を撫でる。目に見えない何かに見つめられている気がした。
「おい」
貞丞の低い一声で、使用人頭と息子が動く。こんなところに長居するつもりはない。重石を付けたアサの亡骸を、歯を喰い縛って沼に落とす───はずだったが、恐ろしさに腕に力が入らず、沼の手前に落としてしまった。
「この阿呆! 何しとんじゃ!」
暗闇が、この死体が、風に揺れる草の音が、沼の臭気が……何もかもが恐ろしかった。主人の鋭い叱責に、使用人頭はすいませんすいませんと詫びながら、息子とふたり掛かりで亡骸を落とす。こんなことをする羽目になってしまった我が身が、命令を下すだけの主人が恨めしい。
亡骸が落ちた水音は、恐ろしいほど強く、高く響いた。
舞い上がった水飛沫が貞丞の頬に飛び、その部分から何かに蝕まれるような錯覚を起こす。小さく舌打ちをしながら、着物の袖でそれを拭う。
それが、実の子……一度足りとも、まともに顔を見もしなかった娘との別れだった。
鬼子と忌み嫌われたアサは……
僅か、齢十の歳だった。
* * * *
罪を共有した人々は、まるで何もなかったかのような日常を演じた。誰もが口を閉ざし、あの闇夜の中でのことが露見するのを恐れた。アサが息絶えた地下牢は封鎖し、山の沼には近付かない。
アサを沼に沈めたことを知っているのは、罪を犯した水瀬家の人間のみ。村の衆は何も知らなかった。そして山の中、広がる草原。ちょっと危険な沼。村の子どもたちにとっては格好の遊び場だった。
子どもにとって、いつの時代も遊びは少し刺激がある方が楽しいもの。大人たちの目をかい潜り、危険だと言われている沼に近付くことも遊びのひとつ。大人の言い付けを破る背徳感、その先にある未知なるもの。それは好奇心を大いに刺激した。
だからその日もいつもと同じはずだった。
「どうや! 見たか! おれここまで行けるんやぞ!」
「何や、そんくらい。おれならもっと近くまで行けるわ!」
底無し沼のように感じられる沼に、どれだけ近付けるか。自分にどれほどの勇気があるかを示す度胸試し。
「ふん、そんなもんか。おれの方がすごいわ」
「も、もうそれ以上は止めとけよ。あんまり近付き過ぎると危ないで」
「お前はいつまで経っても弱虫やのぅ! そこで見とれ!」
小さな身体で目一杯虚勢を張って、黒々とした沼に近付く。自分の度胸を、凄さを見せ付けないと! 子どもたちの中でも序列付けは熾烈なものだ。何とか自分が優勢になることをしないと!
子どもは目先のものに捕らわれる。遊びながら周りに注意するなどと、熱中している時は不可能に近い。
───ざわぁと厭な風が吹く。
気が付いたのは、友だちふたりを遠巻きに見ていた子どもだった。
嫌な、感じがする。辺りを見回す。いつもの景色と変わらない……変わらない、はず。けれど。
「な、なぁ! もう止めよう! 何か変な感じする!」
「変な感じぃ!? 何やそれ! どんな感じや!」
「何か変や! もう居らん方がいい! もう帰ろ!」
他に言いようがなかった。このザワザワする感じを言葉にするには、まだ幼過ぎる。
「何や情けないなぁ」
女々しい発言をする友を笑おうとして、ふと気付く。
「……」
「なぁ、何か……臭ないか?」
今まで嗅いでいた沼の臭いとは明らかに違う臭気。全身に鳥肌が立っていた。いつもと変わらない。変わらないはずなのに、違う場所に立っているような錯覚を起こした。
「逃げろッ!」
震えそうになる脚に力を入れて駆け出そうとした瞬間───異様な気配が脹れ上がった。
「う、わ……わあぁぁぁぁ!」
「やああああッ!」
刹那に身を翻し、猪突猛進に駆ける。こんな動きが出来たのは身を守ろうとする防衛本能か。目の前の沼の中から、何かが飛び出してきた。有り得ない。沼から何かが出てくるなんて、有り得ない!
「早く! 速く! 走れ!」
「待って! 置いてかんといて!」
「早よしろ! 走れ!」
これほどまでに命懸けで走ったことはない。アレが何かは判らない。だけど確実に自分たちを標的として定めた。本能がそう理解する。
「早く! 転ぶなよ! 走れ!」
ビタンビタンビタン、ビチャビチャビチャ!
何かが追い駆けてくる。這ってくる。
ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ
沼の中の何か。
異様な臭気と悪意を振り撒いて、自分たちの後ろを憑いてくる!




