第22話
庇護者を喪った子の運命は哀しいもの───特にそれが忌み嫌われる子であったなら、まさに生き地獄。
「……何や、やっとか」
降りてきたタキが、既に冷たくなってしまったヤエを見て言った言葉が、それだった。泣き喚いているアサに暖かい言葉を掛けるべくもなく、如何にも渋々といった体でヤエを連れ出し、葬儀の準備をした。そこにアサは参列することはなかった。存在を否定され、存在を消された鬼子ゆえに……
村の衆は、葬儀の報せがくるまでヤエが今まで存命していたことに驚いた。水瀬家の跡取りを産んだあと、産後の肥立ちが悪いと聞いていた。そしてそのまま回復したと聞くことなく、姿を見ることもなく───
気が付くと、水瀬家には新しい嫁が居た。
それを見て、村の衆はヤエは死んだと思った。しかし後妻を娶るのが早い。それに、いつまで経っても先妻の葬儀の報せがこない。一体ヤエは生きているのか、死んでしまったのか……
生きているのなら、嫁の存命を訊くなど失礼の極み。亡くなったのならば、葬儀を執り行っていないなど有り得ない。身内だけで済ませたとは考えにくい。何しろ水瀬家なのだ。村の頂点に立っている水瀬家がそんなことをするはずがない。ではあれは嫁ではなく妾か。水瀬家であれば妾でも入りたいという娘もいるだろうが、それであればヤエの実家にも一言あってもいいのでは……
そう感じていたが、水瀬家にそんなことを言える剛胆な者は居ない。迂闊なことを言って水瀬家の怒りを買うことは出来ない。睨まれて村八分にされては堪らない。
葬儀自体も異様だった。元々ヤエの実家にしか報せはなかったが、驚いた家人がそれを周囲に報せた。水瀬家の葬送と聞いて慌てて駆け付けてみれば、日比谷の坊主も居ない。この村全ての冠婚葬祭を担っている寺の僧侶が居ない。まさか僧侶なしで勝手に葬儀を執り行うつもりか。さすがにそれは駄目だ。例え水瀬家でもそこまでの勝手はやってはいけない。
村の若い衆が急いで寺まで走り、僧侶を背負って連れてきた。それを見て水瀬家の面々は渋い顔をしたが、拒否することはなかった。
異様な雰囲気の中、異様な葬儀は滞りなく執り行われた───
ヤエの葬儀の一件以来、村の衆は水瀬家を今までとは違う目で見るようになった。今までは村の重鎮、村一番の実力者として見ていた。今でもそれは変わっていない。しかし、そこに籠められる思慕は無くなりつつある。
死者に対する礼を欠いた振舞い。葬儀の日に日比谷の僧侶が現した怒り。顔を寄せては、ヒソヒソと囁きあう……
ヤエを亡くし、アサは産まれて初めて地下牢から出された。アサは片割れの跡取りに比べて一回り小さな身体だった。その小さな身体で、目一杯働かされた。
片や水瀬家の跡取り───片や歓迎されない鬼子。
ふたりに対する扱い方も、体躯の違いからも、同時に生を受けた対の者とは互いに知らなかった。特別な繋がりがあるとは到底思えない。
ヤエとアサが地下牢に居る間に、水瀬家には子どもが増えていた。貞丞と後妻との間の子どもたち。ヤエの産んだ跡取り……貞正の教育は全て姑が施した。タキの希望通りに、水瀬家次期当主に相応しい男になるように。
地下牢から出されたアサは、何も知らなかった。生活道具の名前も、使い方も何も知らない。知る術がなかった。貞正の弟妹たち───アサの弟妹たちは、何も知らないアサを酷く馬鹿にした。
子どもたちは、アサを身寄りのない、頭の弱い孤児だと思った。アサはアサで、母のヤエは水瀬家の使用人だと思っていた。だから自身を使用人の子だと。血の繋がりなど思いようがない。
水瀬家の誰も、アサを名前で呼ぶことはなかった。「おい」「お前」「そこの」「のろま」「愚図」───名前を呼ばずとも罵る言葉は底尽きない。
地下牢に閉じ込められていた期間は、アサの身体の芯を損なっていた。成長に必要な栄養は足りず、存分に動けなかった身体は弱いままだった。主人たちの対応を見て、使用人たちもその態度を真似る。アサは、何をしてもよい自分たちより下の人間として認定された。蔑まれ、折檻される。
元から居た使用人の子ではない。どこの誰かも知らない。主人たちが連れてきた、得体の知れない子だ。誰も庇う者も居ない。
「おい、そこのちび。ここの飼い草あっちに運んどけや。畑にあるやつ全部な」
自分の身体よりも大きい飼い草の束を運ばされ。
「何や。まだ終わっとらんのか。日が落ちてまうやないか」
「馬糞も早よ集めとけよ!」
日が暮れても仕事は終わらない。
「早くこのお膳運びな。こないだみたいにひっくり返したらまた明日の飯は抜きやでな」
息付く暇もなく、次々と仕事を命じられる。
「えー、またこの愚図が持ってきたん? こんな奴が運んできた飯なんぞ食いたくないわ」
細い腕で水瀬家の子どもたちのお膳を運べば、自分が持ってきたというだけで追い返される。お膳を持って廊下に立ち尽くすこともしばしばだ。水瀬家の子どもたちは冷たく、意地悪だった。
「晩飯? 何で食べられると思うんや。とっくに火ィ落としとるわ。自分がのろまな仕事しとるでやろ」
僅かな水さえも口に出来ない日もある。空腹で眠れない日々は……とうに過ぎた。
「おい、何を居眠りしとるんじゃ! さっさと起きんか!」
空腹を感じなくなると、とにかく身体が怠くなった。眠るつもりがなくとも目蓋が下がる。
「早く水汲んでこい。何怠けとるんじゃ。怠け者は飯抜きじゃ」
「早よしろて! この阿呆!」
どう頑張っても身体に力が入らず、アサはいつもふらつき、転んだ。小さな身体はすぐに悲鳴を上げた。
そのまま寝床にさせられていた冷えた地下牢の薄い蒲団の中、身体に力を入れようとしても思うように動かない。全身が寒く、熱く……どうしていいか判らずのたうち回る。碌に食べさせてもらっていない胃は吐くものもない。小さな身体を蝕む熱は下がらず、あっという間に床に伏せってしまった。
「何や、役立たず。よう仕事も出来んくせに病気だけは一人前か」
「嫌や、気持ち悪ぃ。伝染病やないやろな」
「死ぬんか? 死ぬるんなら、水瀬家に迷惑掛けんでくれるか」
アサを気遣う者は誰も居ない……タキはもちろんのこと、アサの兄弟までもが悪意を浴びせた。
どうしてみんなは自分に辛く当たるのか。役に立たない使用人ならば仕方がない。けれどどうしてここまで罵られなければならないのか……
判らなくて、哀しくて、悔しくて……どこにもぶつけられない怒りが溜まる。記憶の中に居るだけの母には、一時心を慰めてくれても、ただそれだけだ。現実には何も期待出来ない。
───闇や暗がりが、濃く、昏く、深かった時代。
すぐ隣にある夜の闇からは、まさしく異形のものや妖の息遣いが聞こえてくるよう───
生と死は、今より濃厚に密接していた。
自身に迫りくる闇の世界の臭いに戦きながら、今の現状から解放される期待───解放されれば、どこへでも自由に行ける。
怒りと、恐れと、期待と、不安と……小さな胸に、様々な思いが駆け巡る。
お母さん……お母さん。
アサには庇護者が居ない。居るのは、朧気な記憶の中に居る優しい微笑みの母───
ヤエと過ごした時間は、割り振りされる仕事の中で忙殺され、薄まり、追いやられていた。
お母さん、どうしてアサのそばに居ってくれへんの? 辛いよ。えらい。どうすればええの? このまま、アサはどうなんの?
全ての現状を諦めるには幼過ぎて。全ての現状を変えるには結果が知れて。力が足りない。取り巻く悪意を受け入れるには到底納得出来ず、哀しくて、悔しくて。
お母さん、お母さん。
胸の中の優しさだけじゃ足りない。現実、確かに注がれる愛情が欲しい! アサの血を吐くような願い。
どうして───
どうして、アサは鬼子やの。何でアサはこんな家に居らんといかんの。どうしてどうしてどうしてどうして!
愛されたい、愛されたい。優しくしてもらいたい。
涙に濡れた目蓋を開けても……もう何も見えない。
───お母さん……怖いよ……
本能的に感じる死への恐れ。
───だれか、だれか。お願い、そばに居って……
絶望だけが深まる。厳しい人生に立ち向かうには、小さ過ぎて……愛情が足りなくて。母のように、転生を信じられるほど大人でもなくて。
淋しい、哀しい、怖い、悔しい。死の淵にあって、負の感情が剥き出しになる。
呪ってやる……呪ってやる!
血を吐き、痩せた胸を掻き毟る。
何のために産まれたんや!
幸せを感じることのなかった現世ゆえに、アサはこの生に執着した。
このまま諦めて死ぬなんて出来へん! 呪ってやる、みんなみんな呪ってやる!
アサを見守り、その子どもたちも───娘の血脈を。愛しい娘の血に連なる者を。
母の祈りや願いは届かず───
幼い意識は、深く濃い……昏い闇に溶けた。




