第2話
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──────……
草原の中をひたすら走る。
早く、速く、一刻も速く安全な場所へ。後ろを振り返ることなく駆け抜ける。草で肌を切ろうとも、小石を跳ね飛ばそうとも一切構わずに、必死に走る。幼い肢体は頼りなく、それでも縺れるように前へ先へと走り続ける。
早く! 速く! アレに追い付かれないように。捕まらないように!
幼子にも判る異形なもの。怖い、怖い、怖い! アレに捕らわれたらきっと私は変わってしまう。理屈じゃなく、肌でそう理解する。
後ろに靡く髪の毛さえも重く感じる。着ているワンピースは駆ける足に纏わりつき、逃げる身体を阻む板のよう。
背後から、足元から、黒く粘つく蜘蛛の糸のようなものが伸びてくる。
ザザザザザザザザザザザザザザザザザ
げらげらげらげらげらげらげらげらげら
ひ────ひひぃ───────……
草を掻き分ける音が、恐ろしい嘲笑が、それが人間の出す音ではないと告げている。
人間が出せる音ではない。生あるものが、出せる音ではない!
早く! 速く!
一刻も速く、母の元へ!
* * * *
「お母さん!」
自分の叫び声で真緒梨は目を覚ました。いきなり眠りから呼び覚まされた身体は粘つく汗を掻き、特有の怠さを纏っている。
───ドクンドクンドクンドクン……
眠っていたのに、心臓が激しく脈打っている。
自分の息遣いの他には、時計の針の音だけが落ちる部屋の中。その中で、異様な気配が満ちてくるのが判った。
あぁ、嫌だ……この粘つく感じは、くる……
足元がゾワゾワして、やがてそれは全身に回る。目には見えない───けれど確実に真緒梨の身体を支配する。指先さえ動かせない金縛り。
真緒梨は強く目を瞑り、口の中で「南無阿弥陀仏……」と唱えた。ただの気休めかもしれない。けれど、ただこれを受け入れているだけよりも、気を強く持てるように思っていた。
あれほどうるさく響いていた時計の針の音も消え、変わりに砂荒らしのような耳鳴りが激しくなる。身体はグルグルと回転し、下に下に堕ちて行くよう。
早く……早く、終わって。お母さん、気が付いて……
隣の部屋に寝ている母を求める。金縛りに遭っている時は、酷く心細くなった。
南無阿弥陀仏……
お母さん……
永い時間に感じる一瞬が過ぎ、身体が真緒梨に還された。重くなった身体の節々を確認して、ぎこちなく身を起こす。左足首にある小さな痣を見る。金縛りのあとは、いつもこの痣の部分が少し冷たくなっていた。気のせいではないと思う。
まだ朝には早いが、このまま寝ている気にはならない。汗を吸い、気持ちが悪くなった服を着替える。こんな目覚めで始まる1日は最悪だった。
寝不足を抱えながら、学校へ行く用意をする。真緒梨は県立の高校に通う2年生。受験の時、学校案内のパンフレットでとても可愛い制服を見付けたが、そこは私立だったために諦めた。シングルマザーとして自分を育ててくれている母に、負担は掛けられない。
「じゃあ、マオ。お母さん先に出るから。ちゃんとしっかり鍵閉めておいてね」
「うん、判ってる」
「気を付けて行くのよ」
「うん、お母さんもね。行ってらっしゃい」
朝はお互い慌ただしく身支度をするため、ゆっくり話をする暇はない。毎朝同じように声を掛け、母は真緒梨よりも先に家を出る。と、玄関まで向かったはずの母が戻ってきて、真緒梨の顔を覗き込んだ。
「……顔色が悪いわね」
言いながら頬を擦る。
───気が付いてくれた。
その事実が、その気遣いが、心を暖かくしてくれる。
「ちょっと……寝不足。変な夢見たから」
真緒梨の返答に母は少し眉をハの字に寄せた。
「またあの夢?」
母のその質問に、小さく頷いて答える。
「帰ったら話聴くから。今日はご飯の用意とかいいから、ゆっくり休んでなさい」
「……うん。ありがとう、お母さん」
母が自分を想ってくれていることが嬉しい。夢見のせいで冷たくなっていた心が暖かく解れていく。ほんわかとした心持ちで最後の用意をして、真緒梨も中堅層のマンションを出た。
頑なにマンションを買うように勧めたのは、桜庭の祖父母だった。
母が父と離婚したのは真緒梨が4歳のころ。母は自分が生まれ育った桜庭の実家に戻った。築50年の昔ながらの小さな木造住宅。真緒梨が幼いころは小さな家でもよかったが、成長した今となっては、受け皿として狭くなってしまった。
桜庭の祖父母は孫である真緒梨をそれは大切に慈しんでくれた。しかしながら老夫婦と真緒梨たちとではどうしても生活リズムはずれる。真緒梨の高校進学を機に、母とふたり桜庭の実家を出ることを決意した。そこで祖父母が譲らなかったのは、アパート暮らしではなくマンションの購入だった。
賃貸では家賃として払って行く金額全てが捨て金だ。自分に還元されるものは一銭もない。だったら多少は無理をしてでもマンションを購入した方がいい。もし出ることになっても、その時はこちらが賃貸の家主側として貸し出すことも出来る。それが祖父母の主張だった。
購入する気になったのも、実家に戻った母が正社員として働きに出ていたことも大きい。仮にパートでの勤めだった場合、その収入と祖父母の援助だけではマンションは買えなかっただろう。
そんな経緯で住むことになったマンションは快適なものだった。
───あの悪夢以外は。




