第19話
跡取りに乳を飲ませる必要のなくなったヤエは、双子の片割れの赤子とともに床を水瀬家の地下牢に移された。療養のためと言われたが、それは体のいい監禁だった。
閉じ込められたヤエには、鬼子と呼ばれる女の赤子しか居なかった。
───存在を消された鬼子。
人は一度の出産で、複数の赤子は産まない。産む女は犬や猫のような畜生腹───蔑視される女。
鬼子の存在を知られてはならない。知られたら、村の重鎮として君臨している水瀬家の支配力が緩んでしまう。支配者というものは、絶えず力を見せ付け、他者を押さえ付け、その実力を誇示し続けなければならない。浸け入る先などは作ってはならない。しかし、殺してはならぬ。鬼子ゆえ、殺してどんな祟りを起こすか判らない。
冷たい地下牢は、一筋の陽も差さぬ冷えた牢獄だった。碌な食べ物ももらえない中で、ヤエは身体に鞭打って、赤子に乳を飲ませ続けた。
この子のせいで───
この子が、産まれなければ。
何度も何度も沸き上がる思い。どうして───どうして。どうして、同時になど産まれてきたのか! どうして同時に宿った! 腹に宿るのを、どうしてあと1年、2年……どうして待てなかったのか! そうすれば、跡取りに続いて最初の娘として受け入れてもらえたのに! 鬼子などと呼ばれず、畜生腹の女とも蔑まれることもなく、水瀬家の一員として!
ヤエに出来ることは、鬼子を憎むこと───呪うことだけだった。
一心に自身の乳房に吸い付いている赤子を、憎む……
乳首を離して赤子が顔を上げる。ヤエと目が合うと、満足そうに微笑んだ。黒目がちの大きな瞳で母の顔を見つめる。吸い込まれそうなほどの美しい漆黒。純真な笑顔……
乳房に、ツンとした痛みが走る。その直後、暖かい母乳が滴った。腕の中に抱いた赤子を愛しいと感じた母性の反応だった。
ヤエの頬に、涙が伝う。頭の中でどんなに罵倒しても、憎もうと思っても。本能で感じることを誤魔化すなんてことは出来ない。肌の暖かさを感じて───小さな口内の、思わぬ熱さに、命の力強さを感じて。全身全霊でこの生を生きたいと叫んでいる。
ヤエは赤子を抱き締めた。
鬼子と呼ばれても……やはり、この子も血を分けた我が子で。判らなかったとはいえ、この子とは十月十日の間、一心同体だったのだ。
我が身で育んだ命。我が子は、無条件で───可愛かった。
私の愛し子───……
* * * *
ヤエは我が子にアサと名付けた。暗い闇夜にも、いつか朝日が差す───必ずや夜は明ける。その希望を籠めて。
しかしその名をヤエ以外の人間が呼ぶことはなかった。水瀬家にとっては、鬼子は鬼子、忌み子のままだった。
絶えようとしていた命を必死に繋げた。アサは良く笑うようになった。ヤエとアサの食事は使用人を使うことなく、姑自ら運んできていた。家人以外に、存在を知られるわけにはいかなかったからだ。
顔を見る度に、姑は悪意を撒き散らした。何度も舌打ちをし、早く死ねとばかりに呪いを掛ける。そんな生活を強いられて5年───アサは早くも5歳になった。
アサは姑に怯えた。姑が食事を運んでくる度に、痩せ細ったヤエの身体にしがみ付く。頑是無い幼子にも、自身に向けられる怨嗟は骨身に染みて恐ろしいものだろう。その様子を見て、姑は鬼子だ忌み子だと増々罵った。
ヤエは憎しみを覚えた。
ヤエにとって水瀬の人間は雲上の人々だった。ヤエは普通に育ち、いつか村の男に嫁ぎ、子を産み、普通に年老いていくものだと思っていた。ただ生きて、次の世代に命を繋ぐ。それがヤエと同世代の娘たちの運命だった。
なのに───
貞丞に見初められ、ヤエの心に小さな野心が芽生えた。貞丞は村一番の重鎮、水瀬家当主───そんな権力者に望まれ、水瀬家の跡取りを産めば。支配される側から、支配する側になれる。それは至極真っ当な……当たり前に考える野心だった。両親は娘の僥倖に狂喜し、兄弟からも一目置かれるようになった。同世代の村の娘たちからは、嫉妬と激しい羨望の入り交じった心地好い視線を受けた。
大きな屋敷に住み、もう食べる物の心配もない。村人からは畏敬の眼差しを送られ、跡取りを産めば水瀬の奥様と呼ばれる。
その誘惑は強烈で、甘美で、あっという間にその渦に呑み込まれた。ヤエは水瀬家の面々に何を言われても耐えられた。雲上人から言われる言葉は絶対だった。
ヤエはアサを抱き締める。
渦に呑み込まれた……自ら飛び込んだ結果がこれだ。ヤエを嫁に、是非にもヤエを、と求めた人々からは冷たい仕打ちが返ってきた。分不相応な望みだっただろうか。前の世で何か罪を犯したのだろうか。だとしたらこの状態は天罰であろうか……
もう、何も望まない───
生きてやる。
鬼子と呼ばれる我が子とともに、精一杯生きてやる!
それが跡取りを取り上げられ、輝かしい未来を潰され、畜生腹の女と蔑まれたヤエに出来る、せめてもの抵抗だった。
「お母さん、これ何?」
閉じ込められた牢の中、小さな我が子が指を指す先。
「それは蜘蛛や」
「くも。こっちのは?」
「そっちのはゲジや」
長い身体を蠢かす黒い虫。幼子は全てのものに興味津々だ。アサの手から逃れるために、蜘蛛は右往左往と牢の中を走り回る。敵対していたはずの2匹の虫は、争うことを止めて沢山の足が動かして必死に走る。
「ゲジは毒虫やないけどな、似たので百足っちゅうのが居るでな。それは触ったらあかんで」
「どくむし?」
「身体に毒が回るでな。咬まれると腫れたりして痛くなるんや。そんなんなったら嫌やろ?」
「うん、いやや。触らんようにしとく」
小さな指から逃れた小さな蜘蛛が壁の隙間に姿を消す。ゲジもいつの間にかこの牢から出て行っていた。
「どっか行ってまった……」
小さく呟いたアサの言葉が、ヤエの胸に突き刺さった。
自分と娘は───籠の鳥。いや、鳥でさえもない。籠の虫。
あんな小さな虫でも、自分の好きなところに行ける。待ち受ける先は捕食者に捕らわれるだけでも、その生に悔いはないだろう。なのに……なのに、自分たちのこの現状はどうだ。
「お母さん、これは何?」
部屋の隅でアサが見付けた団子状の黄土色の塊。
「何かの卵やな……何やろ」
「たまごって?」
「こん中に虫の赤ちゃんが入っとるんや。しばらくしたら出てくるで」
「赤ちゃんてこんな中に入っとるん? アサもこんなんやったん?」
アサの目が丸く見開かれる。
「アサはお母さんのお腹から出てきたんや」
娘のその顔が心底可愛くて、ヤエは微笑む。
「お腹から……でも、お母さんのお腹こんなぺったんこなのに、本当に入っとったんか?」
小さな手が、ヤエの腹を撫でる。その温もりの、愛しさ。
「はは……今はぺったんこやけど、お腹に赤ちゃんが居る時は大きくなるんや」
「ふぅん、そうなんや」
「そのうち小ちゃい赤ちゃんが出てくるで」
───
──────……
「お母さん! 何か出てきたで!? これ何々!?」
「あぁ、これは……蟷螂やな。蟷螂の卵やったんや」
卵の膜からは小さな小さな蟷螂が沢山出てくる。ヤエは小さなころを思い出した。
家の近くでいつも遊んでいた。草原に入ると、そこにはいつも小さな虫が居た。蜘蛛も、ゲジも、百足も、この小さな蟷螂も。蟻ありも、蛙も、鳥も───野生の虫も、動物たちも。自由に外に出て、自由に動き遊び回っていた。何の制限もなかったあのころ……
それに比べて、不憫過ぎる我が子。何にも出来ない我が身が恨めしい。




