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暗がりに鬼を繋ぐ  作者: 紬希
18/40

第18話







 ───






 ──────……






 かなりの時間が経ち、ヤエはふと自分を取り戻した。


 今まではどこか夢見心地だった。自身の身体が自身のものではないような───上から自分を見下ろしているような。記憶も朧気(おぼろげ)だった。水瀬家の待望の跡取りは、姑に身体を支えられながらヤエの乳房に吸い付き、必死に乳を飲んでいた。


「……」


 この子を産んでから、一体どれほどの時が過ぎたのか……ヤエには判らなかった。


 私は、今、どうなっとるん……?


 我が子を見ると、少し大きくなっている気がする。私が産んだのは、この子やよね?


 ───()()()()()、やよね……?


 やがて満足したのか、子が顔を振って乳首を離した。口元に飲み下しきれなかった乳が、微かに白く残っている。我が子を支えていた姑が抱き直し、背中を擦る。その様子を、ヤエはただ見ていた。


 子に対する愛しさ───子への独占欲……


 どこか感情の糸が切れてしまったのか、胸には何も沸き上がらない。姑に抱かれてやがて眠ったのか、赤子は籠の中に敷き詰めた蒲団の中に寝かされ、気持ち良さそうな表情を浮かべた。そして姑はどこかに行ってしまった。ヤエは眠る我が子の顔を見つめる。私が産んだ子……血を吐くほどの思いをして、数々の屈辱に耐えて授かった命だ。もうこれで、子を産めない出来損ないの石女(うまずめ)と罵られることはない。水瀬家を次の世代に繋げたのだ。私は大仕事を成し遂げた。なのに、それなのに。その感慨深いはずの事柄が、どこか遠くの出来事のように感じた。


 姑が何かを抱えて戻ってきた。何だろう……と疑問を持つ前に、姑は何も言わずにヤエの乳房にそれを押し付けた。ヤエの子と同じくらいの赤ん坊。誰の子……? もらい乳なのか? 吸われれば乳は出る。


「誰……」


 小さく呟いた小さな声。耳聡く捉えた姑が吐き捨てるように、衝撃の言葉を告げる。


「何を無責任なこと言うとんや。お前が産んだ鬼子(おにこ)や。こんな畜生腹(ちくしょうばら)の嫁をもらうとは、貞丞(さだすけ)もとんだ災難じゃ」


 子は無心に乳を飲んでいる。


「しかも男女の組み合わせや。前の世で心中を図った者に違いねぇ。水瀬家からそんな鬼子が出るなんて、子ともどもお前はとんだ厄介者や!」


 不安定な嫁を労る欠片もない無情な言葉。


「水瀬家の跡取りはあの子だけや。息を止めてどんな祟りを起こすか判らんで生かせてやったんや。死んでも生きとっても、迷惑なやっちゃ!」


 呪いの如く、怨嗟(えんさ)の声を浴びせた。脳を殴り付けられるような激しい動揺。


 ───鬼子……


 ───畜生腹……


 どこか記憶を混濁させていたヤエの内側に、その言葉は恐ろしい呪縛になって根付いた。




 お に こ




 ち く し ょ う ば ら




 お に こ……




 ち く し ょ う ば ら……




 鬼子鬼子鬼子鬼子鬼子鬼子鬼子鬼子鬼子




 私が産んだのは、






 お に こ───……






  * * * *






 ヤエが命懸けで産んだ跡取り息子───その我が子の名前さえ、ヤエは知らなかった。産後の肥立(ひだ)ちは悪く、(いや)らしい出血はダラダラと続いた。思うように身体を動かせず、普段の生活さえままならない。

 子に乳を飲ませる以外には起き上がれないヤエを、水瀬家の面々は役立たず、無駄飯食らいだと罵った。双子の出産はヤエの身体を深部まで損なった。それでも子にはヤエの乳しかない。他の乳の出る女にもらい乳をさせるには、水瀬家のプライドは高過ぎた。それに、もらい乳をすることで弱味として思われるには(しゃく)に触る。嫁という末端の人間とはいえ、水瀬の名に連なる人間が乳が出ないなどということはあってはならないことだ。

 ヤエは水瀬家のそんな思惑など知る由もないが、乳だけは這ってでも飲ませていた。ヤエの待望の光は、それだけの触れ合いしか出来なかった。もちろん、女の赤子も死なせるわけにはいかず……


 ヤエの身体から流れ出た血は、文字通り命を削っていってしまった。跡取りは生後4ヶ月を過ぎるころ、もうそろそろいいだろうとの姑の一言で、一方的に離乳された。ヤエはひとり、取り残される。


 ───こんなはずではなかった。


 ヤエの懐妊は、周知の事実だった。村の女みんなが祝いの言葉を口にしてくれた。ヤエは全身でそれを誇らしく受け、素晴らしい心地好さにうっとりと酔った。産まれた先の自身の輝かしい未来を信じていた。それなのに───


 今は、産後の肥立ちが悪いから、と我が子を抱き締めることも出来ない。姑はそれを村中に言いふらし、ヤエが姿を見せないことに疑問を持つ者さえ居ない。

 ヤエは打ちのめされた。水瀬家は、跡取りが居ればいいのだ。跡取りさえ居れば、生母(ヤエ)の存在はどうでもいい。

 跡取りの母として水瀬家の一員になれたと思った。身籠っている間のあの快適な暮らし……無事に産み落とせば、あれがずっと続くと思っていた。


 水瀬家の一員になれたのは、命を賭けて産み落とした男の赤子だけだった。


 体調さえ戻れば───ヤエは薄い蒲団の中から、自分の両腕を持ち上げる。


 こんなに、()()けて……


 肉が落ち、土気色になっている腕では我が子を取り返せない。ヤエの体力、気力、精神力……それら全ての生命力を吸い取って、双子は産まれた。


 水瀬家にとって、ヤエと女の赤子は、居ない者だった。


 予想していた輝かしい未来を思い。


 この受け入れがたい現実を思い───


 落ち窪んだ眼窩(がんか)から涙が溢れる。


 流れ出た命は、戻らない。






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