第3章 発現したもの
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激しい雨が降っていた。
天の恵みの命の水は、雷を伴って一帯を霧の中に包み込む。枯渇しては生きられぬ。かといって降り注ぎ過ぎても生きられぬそれは、増々雨足を強くしていた。
その雷雨の中───
家の中には、激しい息遣いが満ちていた。若い女が天井の梁に吊った綱にしがみつき、必死に呼吸を続けている。叫び声を上げないように、口には手拭いを含んでいた。激しい呻きと囲炉裏で燃え盛る火が、部屋の中の湿度と温度を異常に高めている。
「えぇで、そのまま力入れ! もうすぐ出てくるで!」
歳を取った産婆が女に声を掛ける。女───ヤエが、歯が折れるほどの力を籠める。ヤエは、何としてもこの腹の子を無事に産まなくてはならなかった。
ヤエが村の重鎮である水瀬家に嫁いで2年。すぐには子宝に恵まれず、舅、姑、夫、小姑……一同は一向に懐妊しないヤエを石女と罵った。
このままでは離縁されてしまう。
水瀬家から離縁された女───そんな恥にまみれた名前を担いでは、実家に帰ることなど出来やしない。ヤエはここで生きて行くしかなかった。姑が勧める怪しげな薬湯や、子宝祈願……果ては呪いまで。恵まれると言われることはすべてやった。焦って焦って、夫に他の女の影がちらつき始めた時。
ヤエに、ようやく待望の命が宿った。確証を持てるまで、姑と息を潜めるように戦きながら待って、やっと……やっと確信を持つ。
跡取りを腹に宿したヤエの妊娠期間中は、それはそれは快適だった。厳しかった水瀬家の面々がとても優しくなり、ヤエはやっとその一員になれた気がしていた。そしてこの子を無事に産み落とせば、それは確固たるものになる。
囲炉裏の火種が、バチッと激しく爆ぜた。
「頭出てきたで! あともう少しや!」
月満ちての出産ではない。ヤエは初めての妊娠で判らなかったが、腹の膨れ方が大きかったらしい。だから元気な男の子だと思った。
産む時は大変だろうが、産まれたあとは育ちやすいように、腹の中でしっかりと大きくなってくれているのだと。充分大きくなったから、月足らずでも産気付いたのだ。何と素晴らしい子であろうか。水瀬家の跡取りを、何としても無事に産まなくては。我が身のためにも。
やがて……未明の空に小さな産声が響いた。
小さな小さな産声は頼りなく、雨空に吸い込まれてしまいそうなほど、か細いものだった。
「産まれたで」
身体を引き裂かれる痛みを乗り越えたヤエに届いたその言葉は、出産の終わりを意味していた。
終わった───……
「貞丞呼んできや。水瀬家の跡取りや」
産婆が姑に指示する。無事に産み落とした感動は、どちらかというと薄かった。それよりもこれが終わったという安堵が大きい。ヤエの放心した瞳に写った我が子は、何故か小さかった。
ヤエの希望の光。これからのヤエの幸せの源。この子が居れば、もう軽んじられることはない。水瀬家の次の世代を、我が身で産み出したのだ。私は母になり、水瀬家の一員となったのだ!
けれど、あんなに大きく腹が膨れていたのに……小さい。
何故……と、チラリと疑問が浮かんだが、それは腹と下肢の痛みにかき消された。後産だ、と思ったヤエは、また綱を握って力を入れた。けれど……
ヤエの様子に気付いた産婆が、ヤエの下腹に手を添える。どんどん強くなる痛み───
違う。違う! これは後産ではない!
ヤエは自身の異常に青冷める。産婆もすぐに気が付いた。
「……あんた、まさか」
再び、始まる出産───
腹の中には、もうひとり居た。
「ヤエ! どういうことや!? もうひとり居るて!?」
姑に叫ばれても、ヤエにはどうすることも出来ない。ヤエも思ってもいないことだ。
まさか、まさか───
信じられなくても、進んで行く出産。
終わったと思った痛みに再び苛まれる。脚が戦慄き、まともに力が入らない。綱を握る手に腕力は殆ど残っていないうえ、汗に滑る。呼ばれた夫も室内に入ってきてしまった。
「貞丞! まだ入ってきたらあかん!」
「何や。産まれたんやろ?」
「産まれたけど、あかん! まだ外に居ってくれ!」
ヤエが獣のような呻き声を上げて、力を絞り出した。先に産道が広がっていたからなのか、あっという間の速さで赤子は出てこようとする。容赦ない痛みに、ヤエはとうとう絶叫した。夫である貞丞は、そんな妻の壮絶な姿に立ち竦む。
やがて───
産み落とされたもうひとりの赤子は、先に産まれた子よりも大きい産声を上げた。
「産まれたで……女や」
感動などない。性別なども、どうでもよかった。身体を引き裂く痛みと、有り得ない現実に精神がついていかない。何が起こったのか……
姑が先に産まれた子を布で包み、貞丞に見せていた。
「産まれたのはこの子や。この子が水瀬家の跡取りやで」
「男か?」
「あぁ、男や。跡取りや」
「……ヤエは。あれは、どういうことや?」
「まだ血の穢れがあるでな、お前は近付いたらあかんで。私らに任せとき」
「……判った。男が産まれたて、親父にも言うとく」
産まれた我が子の顔をチラリと見ただけで、貞丞は出て行ってしまった。
───出産は穢れ。出産は女の仕事。
判っていたが、夫の我が身への関心のなさに、ヤエは涙が溢れた。産んだのは貞丞の子供なのに──自身の血を継ぐ子供なのに!
大切に布に包まれた男の赤子と、裸のまま泣いている女の赤子。部屋の中には、産婆と姑と……意識を飛ばしかけている産みの母。
激しい雷雨の中、恐ろしい密談が交わされる。
それはまさしく、血に侵された密談───……
「ふたりいっぺんに産まれるなんて……しかも男女の組み合わせか」
青冷めた顔をした産婆が姑と顔を見合わせる。
「鬼子や……」
普段人の顔色を伺うことなどしない姑が、恐る恐る口を開く。
「何てことや……この水瀬の家に、鬼子が……」
───お に こ……
何も考えられないヤエの脳裏に、その言葉は強烈に焼き付いた。
「見てみぃこの違い。生気を吸い取ったに違いねぇ」
小さく産まれた男の子と、丸々とした体躯の女の子。
「鬼子はあかん」
「……どうする?」
産婆が姑に、重い重い問い掛けをした。
「殺してはいかん。どんな祟りがくるか判んね」
「よその者に知られてねぇな?」
「知られとらん」
この場に居る者、この事実を知る者。ここで、口を閉ざしてしまえば。
「……なら、」
「あぁ……そうするしかねぇで」
「鬼子は……居ったら、あかん……」
交わされた密談は、雨の音に掻き消された。




