第16話
「おぉ、こりゃまた随分派手に暴れたようやの」
老僧の視線の先には、あの黒く染まった襖。
「これはこのまま護魔焚きしよかの」
室内を見渡し、四隅の盛り塩に目を止める。
「ほ、ようやったの。邪気をきちんと吸っとるわ。あれがしてなかったらえらいことになっとったわ」
黒衣の青年が煤を孕んだ塩を取り払い、新たに盛り塩をした。やり方は弥生伯母と同じだったが、迫力は格段に違う。
「あれをやったのは主かの?」
老僧が弥生に目をやりながら確認する。
「は、はい……以前教えて頂いたやり方で……」
昨日弥生が言っていたこと。その相手はこの老僧だったということか。
「そやったの。教えたのは結構前やったんに、きちんとやり方守っとったんやな。偉いで」
「何やその話は。弥生! あんたこんな糞爺相手に何聞いとんや!」
「喧しいわ。儂にしか教えられんことを教えただけや。ええから婆は黙っとれ」
「何やと!」
憤慨する祖母をまるで視界から消したように、老僧は真緒梨に向き合う。
「さて、嬢ちゃんとは初めましてやな」
「あ、はい……」
昨夜の凍えるほど冷えていた部屋の面影は欠片もない。清浄な空気の部屋の中で、事態は動き始めた───
「儂ゃそこの高気寺の坊主や。日々谷 公慈いう。有り難いことにここら一帯檀家になってくれとるわ」
後ろに控える青年に少し視線を移し、短く紹介する。
「こっちは儂の孫や。名は慈晏。普段は千葉のお山で修験しとるけどもの、急いで帰らせたんや」
老僧の言葉に、青年は頭を下げる。
「桜庭 真緒梨です……よろしくお願い致します」
真緒梨も自然と頭を下げた。真緒梨の動作を、老僧は柔らかい眼差しでジッと見る。
「優しい嬢ちゃんやの。お母さんを大事に思っとる。こんな婆にもな。感情の揺らぎはあっても、芯から冷徹にはならん」
「……」
「婆言うな!」
「喧しいわ。黙っとれ。婆は婆じゃ。糞婆」
柔らかい表情から吐き出される言葉は意外にも辛辣で、真緒梨は里沙と顔を見合わせる。お互いの、口は悪くともこのどこか砕けたやり取り。その視線に気付いたのか。
「ほ、ほ、この婆とは昔からの付き合いでの、若いころにはこの婆から恋文までもらった仲よ。昔はもちっと可愛らしかったに、今ではその欠片もあらへん」
「関係あらへんやろ!」
心底焦ったような祖母が絶叫した。祖父はと見ると、先程までの勢いは何処へやら、黙って青くなっている。この3人の間で何かあったのだろうか?
「座主様」
話が逸れたことを咎めるように、慈晏が声を掛けた。老僧の咳払いが聞こえる。老僧が、ひとりひとりと視線を重ねた。その視線ひとつで、思わず居住まいを正す。視線にも力があった。
「嬢ちゃんはこれを持っとりゃ。話しとって邪気が寄ってきたらあかんでの」
真緒梨が渡されたのは、複雑な紋様が描かれたお札。
「邪気避けの護符や」
「ありがとうございます」
真緒梨は護符を胸に抱き締めた。それを見て、老僧がひとつ頷く。
「少し、昔話をしようかの」
老僧の声が低く響いた。
「儂も、儂の曾祖父さんから聴いた話や」
孫である青年を脇に控えさせた老僧が口を開く。
「知っておろうか。この水瀬の家は、昔から栄えとった家やった」
その言葉に、祖母がフンッと鼻を鳴らした。顔を見なくても判る。さぞかし得意気な顔をしているんだろう。
「いつのころから栄えたのか、何で栄えたのかは知らん。けど、村での行事の采配、資金出し、決定権……全部を掌握しとったらしいの」
「そうや、誇らしい御先祖様や。真緒梨もその血を受け継いどるんやで!」
「黙っとれ、おキヨ婆。主が口出しして良い結果になったことがあるかい」
「何やと!」
「嬢ちゃんは聞いたかの。この家独自の怪しい話や」
「……子どもが育ちにくいって話ですか?」
真緒梨の言葉に、老僧は深く頷いた。この現状の核心を突く話に、真緒梨は思わず護符を握り締める。
「奇怪しな話や。僅か数年やいうても、産まれた家で子を育てられん。安心出来るはずの生家が安息の場でなくなる。奇怪しな話や」
「……」
老僧の一刀で言い切る言葉に、真緒梨は一言もない。
「奇怪しな話や言っても、それが昔からのしきたりなんや。お前に文句言われる筋合いはないわ!」
祖母の言葉に、老僧は鋭いひと睨みを向ける。
「しきたり云うのはな、先人たちの失敗や知恵が戒めとして伝わるもんや。意味を理解しとらな何の意味もない。ただそれだけを阿呆みたいに守っとったって無駄やわ」
反論しようとした祖母にピシャリと言いやる。
「いい加減主は黙っとれ。儂ゃこの嬢ちゃんと話とるんや。現実に障りが起こっとるのはこの嬢ちゃんや。辛いのは主の孫娘なんやで。孫娘にいつまでも辛い思いさせたいんか」
「……私は、別に。そりゃ孫なんやで辛いことは……」
歯切れ悪く言いおいて、祖母が口籠る。小さくなった祖母の隣に弥生伯母が座り、老僧に向かって頭を下げた。
「続きを話そうかの。夜になるとまた厄介やでな」
その言葉に、真緒梨の背中を冷やりとしたものが流れた。あの黒い影は、諦めたわけでも、消えて無くなったわけでもない。それがどれほど恐ろしい現実であっても、目を背けることは出来ない。
「儂の曾祖父さんも、そのまた祖父さんに聴かされた話や……いつの時代の話かは定かやない」
闇や暗がりが、今よりもっと昏く、濃く、深かった時代。
すぐ隣にある夜の闇からは、まさしく異形のものや妖の息遣いが聞こえてくるよう───
生と死は、今より濃厚に密接していた。
───子どもが育ちにくい家。そう囁かれる原因。
それは、遥か昔の悲劇───……




