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暗がりに鬼を繋ぐ  作者: 紬希
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第15話


 翌朝、けたたましい祖母の声で叩き起こされた。


「何じゃこれは! あんたら、何をしたんや!?」


 深い眠りから無理矢理引き摺り出される。眠りの途中で目覚めさせられた脳は上手く覚醒しない。


「何を考えとんね! ようもこんなに汚しくさって!」


 あやふやな脳に、祖母の声がキンキンと響く。頭を振り眠気を追いやる。無理に焦点を合わせると、部屋の外で祖母が叫んでいた。


「ちょっと、お母さん。もう少し静かに……」

(やかま)しいわ! 水瀬の家の襖に何てことしくさったんじゃ!」


 襖?


 瞬時に昨日の悪夢が脳裏に浮かぶ。あの冷たく狂暴な悪意を防いでくれた襖。3人、脚が(もつ)れるようにしながらも廊下に出て、襖を見る。そして……


 ───絶句した。


 そこには───(おびただ)しいほどの、黒い手形。襖、一面に。


 幼児の大きさのそれは、ゆうに身長を越す位置、天井近くにも付いていた。どうやってあんな高い位置にまで付けたのか……

 その黒い色は、乾いた血糊のように、深く、(くら)(けが)れた色に染まっていた。ところどころに、何か判らない気持ちの悪い塊がある。ねちゃりとした粘着質の塊。


 これが、昨日の悪意───


 目の当たりにするその意思に、全身が総毛立つ。部屋の四隅の盛り塩を見ると、全てが(すす)を吸ったように黒くなっていた。どうすればいい……こんなにも強く、執念深く纏わり憑いてくる不気味な影。どう対抗すればいい?

 決して夢ではない。気のせいでもない。恐ろしいほどにその存在を主張する黒い手形を見て、真緒梨は吸い込まれそうな目眩を感じた。




 3人は昨日の出来事を全て打ち明けた。今まで家で起こったことも全て。今までの恐怖。身も心も脅かされた、恐ろしい一夜。必死に言い募った真緒梨たちに向けた祖父母の返事は、短かった。


「何を言っとんね。馬鹿馬鹿しい」

「くだらん話や」


 胃の辺りが、ズンッと重く冷える。


「あんなに汚しまくって、原因は幽霊? 阿呆(あほ)くさ。言うんならもちっとマシな言い訳にせい!」

「……お母さんはどうしていつもそうなの。どうやったら実際に私たちがあんな風に汚せると思うの」

「親に向かって子どもが生意気言うな!」

「お父さん!」


 黒い手形や気味の悪い塊は、(こす)っても、水拭きをしても、僅かにも落ちなかった。(むし)ろその穢れた色は、増々どす黒く深まっていく。一体自分たちがどんな染料で着けたというのか……


「あの部屋を使ったのはあんたらやろ。他は頼りない年寄りしかおらへんかったんやで。汚せるのはあんたらだけやろ!」

「だから昨日何があったか言ったでしょ!」

「まだそんな馬鹿馬鹿しいこと言うんか。仮に本当やったらな、そんだけ騒いどって何で私らの耳に届かへんのや。私ら年寄りやけどな、まだ耳は遠ないで」

「そうや、昨日は静かな夜やったで。物音なんぞ聞いとらん」


 頭から否定する人間に納得させるのは難しい。


「おばあちゃん、本当のことなの。昨日の夜、本当に何かが来たんだよ」

「真緒梨までそんな馬鹿馬鹿しいこと言うんか。んなら何か? 昨日幽霊が来て襖を汚してったって言うんか。何のためにや。そんな阿呆な話聞いたことあらへんわ」


 矢継ぎ早に言葉を浴びせてくる老夫婦に、3人は溜め息をつく。何を言っても無駄だ。


「幽霊か、それとも泥棒か? んでも何も盗らんと襖だけ汚してく泥棒なんて聞いたことないな。あぁ、やけど被害が出とるんやで一応警察に言っとかないかんか? こんなおかしい泥棒がおるって届けとかなかんな!」

「おぉ、そうしよか。ついでに見回りもしてくれてな」


 (あざけ)りを表情に声に(にじ)ませて、厭らしく笑う。身内だろが他人だろうが関係ない。人を侮辱することに快感を得る人間の歪んだ笑顔。人の、こんな厭な笑顔を見るのは初めてだ。勢いに乗ってしまった祖父母の暴言は止まらない。


「まったく、情けないなぁ。判っとるんか? 水瀬の家は代々続いてきた偉い家なんやで。その家の襖をこうも汚しくさって、その言い訳が幽霊か。子どもやあるまいし、3人も居って阿呆みたいな言い訳やな」


 勝ち誇ったように侮蔑の言葉を吐く祖母に、ここに来ればどうにか出来るかもという淡い期待は打ち砕かれた。


「せっかく水瀬の家の和室を使わせてやったんに、恩義を感じるどころか仇で返すとは思いもせんかったわ」


 こんな性根の人間が近くに居ては無理だ。弥生は早くにこの家から出たかったと言ったが、その気持ちが良く判る。悪意をばら撒く人間の近くに居るのは、自分の精神も侵食される。身内によって蝕まれるのは耐え難い。


「そういや、あんたは昔から変なこと言っとったな。私らの気を引きたいだけか知らんけど、何や変な感じがする言うて騒いどって。そういう性根(しょうね)はええ歳になっても変わらんのやな」

「いつまで経っても糞ガキのまんまじゃ。ちったぁ大人にならんかい!」

「この歳になってまでこんなんじゃ。無理やろうて。全く、いつまで経っても親に甘えて迷惑掛ける娘やの」

「ええ歳の子供にいつまでも(すね)(かじ)られるんは親の宿命じゃな。阿呆な子どもほどよぅ齧るわ!」


 愛情の欠片も感じられない非道な言葉。両親に罵られて、弥生は諦めたような溜め息をつく。期待していない顔。求めて、拒絶されて傷付けられて……求めることを諦めた顔だった。


「真緒梨もな、あんたも水瀬の家の娘なんやで。これからはあんたも私らみたいにこの水瀬の家を守り立てていかないかん。こんな子どもみたいなイタズラして何が楽しいんじゃ。弥生に何かくだらんこと吹き込まれたんやろけど、あんたはしっかりとした跡取りを産まなあかんのやで。大事な仕事なんやからしっかりしいや!」


 何を言ってるんだか……顔を見ることさえ嫌で、真緒梨は露骨に顔を背ける。こんな老女と血の繋がりがあるなんて!


「真緒梨! 何やその態度は! 私らの言うことちゃんと聞かんか!」

「年寄りを敬わんか!」


 こんな老夫婦に怒鳴られても何も怖くない。ただただ、嫌悪感が増す。ふたりはわざとらしく、大きな溜め息をついた。


「なんちゅう可愛いげのない態度や。里沙さんに育てさせたのは本当に失敗やったな。水瀬の家のことを何も判っとらん。きちんと私が躾したらないかんかったわ」

「しょせん蛙の子は蛙やな」

「止めて下さい! 真緒梨をそんな風に言わないで! 真緒梨は私の大事な娘です!」


 里沙の反論に祖母が口を開いた時。


「相も変わらずやの、おキヨ婆」


 (しゃが)れた声が響いた。


「昔からちっとも変わらん。嫌な糞婆(クッソばばあ)じゃ」


 声のした方に目を向けると、紫の法衣を着た僧侶が玄関に立っていた。年のころは、80歳ほどか。


「鏡を見てみぃ。今の顔は夜叉(やしゃ)やで。(みにく)い鬼の顔じゃ」


 深い(しわ)を刻んだ柔和な顔。


「なんっ、何でお前が来るんや! 関係あらへんやろ! 引っ込んどれ、糞坊主(クソぼうず)!」


 一気に顔を赤くした祖母が怒鳴り声を上げる。


「ほ、(わし)ゃ坊主や。坊主に坊主と言って何の意味がある。おキヨ婆」

「婆言うな! 糞爺!」

「ほ、ほ、儂ゃ爺やでな、そんなん言われても痛くも痒くもないわ。(ぬし)(れっき)とした婆じゃ」

「何の用や! さっさと()ね!」

「ほ、そやったそやった。大事な話があるでな。糞婆相手にしとる(いとま)はあらへんかったわ」

「なん、何……」


 祖母の顔色は青くなったり赤くなったり。この老女が人に翻弄されているなんて。老僧は集まった人間の顔を眺めて、真緒梨の上にその視線を止める。


「主やな」


 短い一言。


 けれどその一言と一瞥(いちべつ)だけで、真緒梨は何か暖かいものを感じた。


「昨日も騒がしかったんやろ。よう堪えたな。怖かったやろ。気付くのが遅うなってすまんかったな」


 深い皺を一層深くして、柔らかく、安心させるような微笑み。それだけで、真緒梨はじんわりと胸が暖かくなった気がした。


座主(ざす)様」


 老僧の後ろから、黒衣を纏った大柄な男性が入ってきた。敷居を跨ぐ前に、一礼する。


「家の四方に護符(ごふ)を貼っておきました」

「ご苦労やったの。塩はどうなっとった?」

「昨日の状態から変わりありません」

「ほ、一応は消滅ということかの」


 孫ほどに歳の離れた青年と言葉を交わしたあと、家人に向き合う。


「玄関先で立ち話もなんやでの。お邪魔させてもらうで」

「お前なんぞ招いた覚えはないわ!」

「黙りゃ、おキヨ婆。主の意見なんぞ聞いとらんわ」

「な!」

「主の孫娘に異変が起きとるんや。そないなことも判らんか」

「……」


 老僧に一睨みされて、祖母は口を閉ざした。真緒梨はこの先何が待ち受けているのか判らず、固唾を飲んだ。


 けれど、この老僧はきっと私を助けてくれる───それだけは強く感じた。






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