第11話
部屋に夕闇が漂い始めたころ───……
真緒梨は何となく、取り巻く空気に変化を感じた。何かが臭う……生ゴミを出し忘れた時のような、仄かに漂う嫌な臭い。それが、だんだんと異臭として感じるほどの強さになる。
アレが来る……
あの悪意。
昨日も臭っていたのかもしれない。けれどそんなことを感じる余裕はなかった。今もないけれど。産毛が逆立つ。本能が身に迫った危険に恐ろしさを訴えてくる。逃げろと叫ぶ。ザワザワとする。
夜が来る。闇が来る。
───それ、が始まったのは、小さな音からだった。
ピシ、ピシ、パキ、パキ───……
また、四方八方から悪意が這ってくる。真緒梨は母と手を握り締め、異変を見ていた。
どうすればいい……
向けられたことのない冷たい悪意。気を強く持っていたとしても、どうすればいい? 電気を点けてあったのに、バチッと音を立てて爆ぜたあとは全く点かなくなった。
げっげっげっげっげっげっげっげっ
げらげらげらげらげらげらげらげらげら
今までに聞いたことのない、おぞましい嘲笑が耳を打つ。昨日聞いた咆哮とは違う。判らない、コレは何なの?
部屋中に腐った臭いが充満している。それに負けないほどの悪意。何かは判らない。判らないけれど、コレは、確実に私たちを憎んでいる。
真緒梨と里沙は、荒れ狂う部屋の中で恐怖を押し殺し、凝った影を睨み付けた。
ガサガサガサガサガサガサガサ
ざわざわざわざわざわざわ───────
恐ろしく冷えた部屋の中。小さな虫ではない、ある程度の大きさがある蟲が這い回る音。その音は生理的嫌悪を催す。音がふたりの周りを取り囲む。それはすぐ近くに来たり、遠ざかったり。ガサッ! と真緒梨の耳のすぐ傍で、嫌な音がした。
「ひッ!」
肩の上には手の平ほどもある蜘蛛が無数の脚を蠢かし、真緒梨を見ていた。振り払おうと夢中で手を動かす。触るのもおぞましいが、そんなことに構っていられない。その蜘蛛は部屋の闇に溶けたが、すぐさま2匹3匹と、続けて上から降ってくる。天井には、白い面を埋め尽くすほどの異形の蟲に覆われていた。
ヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂ
ザザザザザザザザザザザ
ギチギチギチギチギチ───────
蟲たちは、真緒梨を───見ている。真緒梨だけを、狙っている。視界が揺れて、目眩がした。
「マオ!」
母が蒲団で身体を隠す。蒲団の中に隠れた直後、ザザザザ! と蟲たちが移動する音が響いた。掴んでいる蒲団に、蟲たちが集る。その動きが伝わる。
「……ッ!」
その恐ろしさに、余りのおぞましさに身体が震えた。怖い……怖い! これは何なの!? 心臓が破れてしまいそうになるほど、激しく脈を打つ。蟲たちの動きの感触に、音に、吐き気が込み上げる。
消えて! 消えて! 今すぐ消えて!
祈りが届いたのか、唐突にその動きが止んだ。額には脂汗が浮き、身体は汗でじっとりと濡れている。母と顔を寄せ合い、早く小さく呼吸を繰り返し、沈黙した。
どれほどの時間が経っただろうか……意を決して蒲団から恐る恐る顔を出すと、部屋の中は一面の闇に支配されていた。これは、自然の暗がりじゃない───直感的にそう理解する。理解したとしても、これを打開する術が見付からない。
闇の中でも、その部分は異質で、闇が凝っているのが判る。蟲たちは居なくなったわけではない。全部がアレに依り集まったんだ───
それは四方八方に黒い触手が伸ばし、絡まり、蜘蛛の巣のように形作っている。あの異形の蟲たちが作った巣だろうか。その巣が狙っている獲物は───真緒梨だ。
ううぉぉぉおお───あ──────
げらげらげらげらげらげらげらげらげら
───きゃははは……
おぞましい咆哮と嘲笑の隙間に、不似合いな甲高い声が聞こえた気がする。そう思ったのも一瞬のことで、蜘蛛の触手が左足首に巻き付いた。
「離して!」
「マオ!」
黒い触手を払い除ける。払い除けたあとに、一瞬目に映ったもの。
白く、小さな、子どもの手───
真緒梨は目を見張る。今この場に、この悪意に余りにも似つかわしくないもの。それが見えたのは本当に一瞬で、触手の中にスッと消えた。
アレ、だ。アレだ!
真緒梨は直感した。逃げるばかりだった触手を思わず掴み、白い手を捕まえようとする。中心は、あの白い手を持つ子どもだ!
「待って! 待ちなさい!」
「マオ!?」
力任せに蜘蛛の触手を引っ張ると、それはあっさりと千切れてしまった。それを皮切りに、触手の勢いは急速に萎えていく。恐怖に戦いていたこともすっかり忘れ、消えていく黒い影に向かって手を伸ばす。
「待って!」
「マオ!? どうしたの!?」
「お母さん、今子どもの手が見えた!」
「子ども!?」
話している一瞬のうちに、黒い影は跡形もなく消えてしまった。真緒梨の手に残された蜘蛛の触手の欠片もない。夥しいほどに居たおぞましい蟲たちも、綺麗さっぱり居なくなっている。肩を上下させて、激しい呼吸を繰り返す。判らない。アレが悪意の元?
気が付くと、部屋の冷たさも、腐ったような臭いもなくなり、いつもの部屋の様子を見せていた。もう、消えた? 暴れ方は恐ろしかったが、引き際は呆気ないほど。何か都合が悪かった? 昨日はあんなに散々荒らしていったのに。
外はまだ暗い闇の中。真緒梨も里沙も、昨日も碌に睡眠を取っていないが神経が昂り睡魔は訪れない。
「マオ……何か飲む? ココア?」
「ん……ホットミルクにする。いいよ、私やるから。お母さん座ってて」
昨日はガタガタと震えていた。けれど今日は。腹が据わったというか……あの白い手を見たからか、妙に冷静だった。何か判ったわけではない。判ったわけではないけれど、何も判らないままではない。
真緒梨に対する妄執はたぶん変わらないままだろう。黒い影の中に居る白い手。相対するものの形が判っただけでも、ほんの少しだけ落ち着きを持てた。
「お母さん、私水瀬の家に行きたい」
マグカップを両手で包み込み、真緒梨は意を決して打ち明けた。
「マオ?」
「お母さんの話聞いたけど、それだけじゃ判んない。きちんと聞いてきたい」
「でも……たぶん、まだ向こうは忙しいと思うけど」
「うん……」
判っている。色々な手続き、方々への挨拶まわり……やることはたくさんあるだろうと思うけれど、真緒梨は待っていられなかった。
「だって、奇怪しいでしょ? こんなに酷くなったのって、お葬式に行ってからだよ。痣だってこんなに大きくなってるし。これ普通じゃないでしょ?」
「……」
「何かあるんだよ、水瀬の家に。何かが憑いてきたんだよ……私に。そうとしか思えない」
「マオ」
真緒梨が感じていたこと。口に出すのは怖い。口に出すことによって、それが本当になってしまいそうだから。どこかで現実逃避をしていたのかも……けれどここまできたら、認めずにはいられない。
あの黒い影───
気持ち悪い蟲たち、蜘蛛の触手。白い子どもの手。あの手は、真緒梨の左足首の痣の大きさと同じだ……きっと。
このままで居ても何も変わらない。アレは真緒梨に目を付けた。真緒梨に憑いて、ここまできた。放っておいたら、きっと増々酷くなるだけだ。
「判った。弥生伯母さんに電話して、一緒に居てもらうようにお願いするわ」
「伯母さんに?」
「あの水瀬家の中で唯一の味方だからね。お母さんよりも事情も詳しく知ってるだろうし」
真緒梨は、弥生の柔和な顔を思い出す。
あの冷たい悪意を思い出すと、背中がぞくりと粟立つ。
けれど、何とかしないと。




