第10話
「その時の子が、私?」
「そうよ、マオ。お腹の赤ちゃんを……あなたを絶対に奪われるものかって思ったの」
心理的なショックは、里沙の身体にも影響を及ぼした。切迫早産になり、入院を余儀なくされた。けれど里沙はかえって安心した。水瀬の家から離れられたから。
水瀬の家は、義母は、妊娠してからは里沙を大事にしていた。妊娠する前の躾と称した諸々の出来事は夢かと思うほどだった。
それは義母が言った通り、水瀬家の跡取りを身に宿しているから。
里沙は病院に頼み込み、処置をするにはここの病院の設備が必要だから、と実家に近い産院に転院させてもらった。医師にそう言われて、遠くの産院に入院することにしつこく抵抗していた義母は渋々引き下がった。
出産したら、子どもはきっと義母に取り上げられてしまう。取り上げられなくとも、子どもが4歳になったら否応なしに遠くの家に連れて行かれてしまう。そんなことは、絶対にさせるものか!
胎児の様子をエコーで確認した際に、子どもは女の子であることが判った。そのことを一応貴士に伝える。すると、あれほどうるさかった義母がピタリと黙った。
『何や、女か。ならええわ。あっちのお母さんに世話させたるわ。男やったらそうもいかんけどな、女なら嫁の実家にやってもらえばええ』
聞いた瞬間、頭が沸騰するかと思うほどの怒りを覚えた。
『しかし散々待たせた挙げ句に腹の子は女か。本当に役に立たん嫁やのう!』
自分たちは一体何様だと言うのか。またその言葉をそのまま伝える夫の馬鹿なこと!
「それで離婚したの?」
「……それだけじゃないんだけどね。あの人たちには色々言われてたから、もう我慢したくなかったの。あなたに暗い顔を見せたくなかったし」
人を頭から無視したようなあの物言い。僅かな滞在であったにも関わらず実感出来た。
「でも、そんなすんなり離婚出来たの?」
「まぁ、それは……なかなか大変だったわよ」
真緒梨の質問に、母は少しだけ哀しげな顔になった。
「あなたを産んで半年くらい経ってから水瀬に帰ったのよ。帰りたくなかったけどね。すぐに次は男の子を産むようにせっつかれたわ。でもなかなか出来なかった」
母のプレッシャーは如何許だっただろう。
「お葬式の時、息子さんに会ったでしょ? あなたには異母兄弟になるけど」
「……うん」
兄弟と言われても、その存在さえ知らなかった。
「あなたと1歳しか歳が違わないのよ」
母のこの言葉の意味は。
「……どういうこと?」
葬儀の時に感じた疑問。
「お父さんはね、余所に女の人作って、男の子を産ませていたの。お母さんがなかなか妊娠しないもんだから、お父さんはさっさと違う道を選んでいたの。男の子だったから水瀬家も大喜びよ。不貞だろうが何だろうが関係なしでね」
「……」
「あなたのお父さんなんだから、悪口は言わないでおこうって思ってたんだけどね」
母の強い言葉を聞く。
「待望の男の子が産まれたんだから、アッサリ解放されるかと思ったんだけどね。そうはいかなかった」
「どうして? 女の子は要らなかったんでしょう?」
母はカフェオレの入ったカップを置き、重く深い息を吐く。頭を抱えて小さくなった。しばらくそのまま、母の言葉を待つ。
「……本当に許せない」
小さな呟きが聞こえた。
「子どもが育ちにくい家だって言ったでしょう? 最初に女の子が産まれていれば、次に男の子が産まれても害は無いって言うのよ」
顔を上げた母の目には涙が光っていた。
「待ち望んだ子どもよ。やっと授かった大切な子どもなのよ! なのにまるで生け贄みたいなことをさせようとしたのよ!」
イ ケ ニ エ───
生け贄。
その言葉だけが別世界のようなもの。現実離れし過ぎていて、頭に入らない。
「もし最初の子どもに何かあったとしても、もう跡取りが居るからいいって言われたわ! だから跡取りの男の子が無事に育つまで、離婚しないって言うの」
母と子の意思を無視した悪意の決定。
「もちろんそのまま受け入れるつもりなんてなかった。あなたの母子手帳と身の回りの物だけを持って飛び出したわ。弁護士にお願いして離婚調停を起こした。裁判になってでもすぐに離婚したかった」
「……」
「お義母さん……水瀬の人たちは、まさか私がそこまでする決意はないと思ってみたいね。弁護士から連絡がいって、物凄く焦ってたらしいわ。しかも離婚原因はあちらの有責だしね。慰謝料も一括で払える分だけもらって、離婚成立よ。それでも時間掛かったけどね」
母は私を守ってくれた。両親の離婚の原因。頭では理解出来る。母の怒りは相当なものだろう。じゃあ、この気持ちは……? 何か、心臓にツキンと刺さる痛み───
水瀬家にとって、祖母にとって。実の、父にとって。
私は、居なくてもいい子だったんだ───……
真緒梨には母が居る。桜庭の祖父母も居る。大切にしてもらっている。溢れるほどの愛情をもらっている。だから───だから。例え、実の父に愛されていなくとも……
父方の、水瀬の祖父母に愛されていなくとも、関係ない。今までも関係なかった人たちなんだから、どうだっていい。そう、思うのに。
昨日会ったあの祖母の態度でも判っていた。けれどこうして母の口から生々しい事実を聞かされるのは。
判っていても、心臓が痛い。
真緒梨は深く深く、深呼吸を繰り返した。身内からの、最も近しい人たちからの仕打ち。記憶にないはずなのに、ここまで胸に深く刺さるなんて。
身体が内側から冷たくなる。指先が震える。脚までもが貧乏揺すりのように震え始めた。胃の中がひっくり返って胃液が逆流してくる気配がする。
母が娘を抱き締めた。
高校生にもなって母に抱き締められるのは気恥ずかしかったが、そう思ったのは一瞬のこと。母の柔らかさと、得も云われぬ暖かさを感じて真緒梨は目蓋を閉じた。里沙は真緒梨の手を握ったまま、話を続ける。繋いだ手の温もりが、真緒梨の哀しみを柔らかく包んでくれた。
「離婚してから一度だけ水瀬家に行ったのよ。荷物を取りに、弁護士さんとおじいちゃんと一緒にね。その時あなたは4歳だった。おじいちゃんと一緒に外に居たのに、あなたが泣きながら戻ってきたわ。よく判らなかったけど……あの時に、何か怖い思いをしたのよね?」
あの追い駆けられた悪夢。その時のことだったんだ。家族揃って住んでいたと思っていたのは、真緒梨の記憶違いだった。
「連れて行かずに、おばあちゃんと留守番させてれば良かったわ。そうすれば怖い思いさせずに済んだのに……ごめんね」
母の言葉に、首を振る。
「そのあとのことは知らないの……連絡も取ってなかった。今回のこととの関係は判らないけど」
母の話を聴いて、真緒梨は混乱していた。
子どもが育ちにくい家。その謂れと、真緒梨に纏わり憑く黒い影。
関係あるように思う。だけど、関係などないかもしれない。どう受け止めればいいんだろう。
学校は忌引きを届け出しているので、時間は気にしなくてもいい。里沙も会社に連絡してから娘に寄り添った。両親の離婚の経緯は判ったが、かといって何か原因が判ったわけではない。どうすればいいんだろう……
時間は流れる。また、夜が来る。また───闇が集う。真緒梨は思い付く限りの言葉でネットを検索してみた。
「ポルターガイスト」「悪霊」「黒い靄」「黒い影」「霊障」「幽霊」「痣」……
画面をどれだけ睨んでみても、結局はよく判らない。こうすれば霊障は防げるとか、自分では絶対に徐霊してはいけないとか、情報が多々過ぎる。何か事情を知っている人間に訊いた方がいいかも……
それは弥生しか思い当たらない。
けれど電話を掛けるのは躊躇われた。昨日が葬儀だったのだから、おそらく今日も忙しいはずだ。というより、弥生に掛けてあの祖母と接触するかもしれないという嫌悪感が強かった。
取り敢えず、部屋の窓を全て開け放って空気を入れ替え、部屋の隅に盛り塩をした。お風呂にも入り、身体を清潔にした。何とか自分でも出来る対策を……
そう思っても、結局は気休めだと真緒梨は思う。こんなことをしても、きっとあの黒い影は収まらない。あの悪意が薄まるとは思えない。
左足首に広がった冷たい痣。子どもの手の平のような形。
執念と妄執。
それらが全部真緒梨に向けられている。
目を付けられたのがどうして私なのか、判らないけれど。




