「裸体を透かして見る回路は美しい」by《賢者》の魔術師
人の体には、影法師のように血管の下で全身を巡る不可視の回路がある。この回路を流れる力の性質により、人間は『魔力型』と『呪力型』に大きく分けられる。
ほとんどの人間は、魔力型だ。
呼吸によって酸素を取り込むように、大気中にあるマナを取り込み、体内で魔力へと変換する。
魔力は自然に干渉する力だ。
人間はこの魔力を、やはり普段の呼吸と同様、意識せずとも緩やかに放つことで自然界へ影響を与えている。
回路の形状により干渉できる範囲は異なるが、多くの場合それは決して大きなものではない。
例えば、植物の世話が得意で野菜を美味しく育てられるとか。そういった程度のことなのだ。逆に、何を育てても枯らしてしまう場合、その人の持つ回路の適性が異なるという見方をする。
回路を研究すれば、個人の才能が見えてくるというのが近年の魔術師界のトレンドで『魔力とは人間の可能性である』とは《賢者》の魔術師の言葉である。
研究者であり、技術者でもある魔術師たちは、他にも様々な分野で活躍し、社会に大きく貢献して来た。
その一つが、人工回路の実用化である。
魔力型回路をモデルとした物に刻んで、大気中からマナを取り込み、魔力に変換、動力とすることは、長年魔術師の間で研究されてきたが中々成功しなかった。
また、たとえ成功しても実用化には追加で百年はかかるだろうと言われてきたそれをぽーんと成功させ、あまつさえたった三年で実用化まで持ち込んだのが、《賢者》の魔術師、クライセン・クライゼン・クラウセンである。
自己紹介の時、よく「ややこしい」と言われるので、本人は明るく「まるっとまとめて『クラちゃん』と呼んでくれ!」と笑う。
金髪緑眼の立派な体格をした美丈夫で、あまりに美しいため、芸術家たちからこぞってモデルを頼まれる彼の年齢は驚きの二十五歳。
惜しくも最年少記録こそ逃したものの歴代で二番目に若い《賢者》の誕生に世間は大いに沸いたし、今も各地の講演やパーティーに引っ張りだこである。
生まれも代々優秀な魔術師を輩出してきた名門クラウセン家の七男とはいえ、現在は《賢者》として伯爵相当の位を持っているとくれば、御令嬢たちからも『優良物件』として当然大人気だった。
『だった』
悲しきかな過去形である。
もちろん今も彼は人気だ。
ただし、『観賞用』として。
一部のガッツ溢れる淑女たちを除き、彼女たちは、絶対に彼に近づかない。
なぜなら。
「フィルデ・テルマ様ーー!!」
浴場前の廊下に響く美声に、フィルデは「ひっ」と引き攣った悲鳴を上げて、思考に耽っていた頭を跳ね上げた。
浴場の入口に、クライセンが立っていた。
眩しい美顔をパッと輝かせ、大きく手を振る。
彼はほとんど裸同然の格好だった。輝く大胸筋が眩しい。辛うじて下は隠しているが、それだけだ。立派な太腿が顕になっている。靴をきちんと身につけているのが逆に怖い。
見事な肉体美を見せつけながらキラキラ光る歓びを背負ってクライセンは駆け寄ってくる。
クライセンは裸を愛する究極の回路馬鹿であった。
体内にある不可視の回路は、専門の道具を通すことでようやく確認できる。ただこの道具では枠内に入る範囲でしか回路を見ることができない。
どうしても回路の全体を見たかった彼は、肉体を透かし回路だけを捉える専用の眼鏡を作った。
これを装着すれば目視した人間の回路を全体から細部に至るまで心ゆくまで観察できるというわけである。
だが、この眼鏡には重大な欠点があった。
相手が服を着ていると使えないのである。
あくまで肉体を透かすもので、服の下にある回路は見えないのだ。
全体を見るためには相手に裸になってもらうしかない。ここで、服の上からでも見られるように改良しようと思わなかったのか人から聞かれた彼は「え?」とそれそれは美しい笑顔を以て答えとした。
しかし、相手にばかり裸になってもらうのは不公平だ。申し訳ない。
そこで彼は考えた。
「私も脱ごう」
彼が、芸術家たちのモデルを快く引き受けるのは、芸術家たちの回路を見せてもらうためである。
「彫刻のモデル? もちろんいいとも。 その代わり、終わったら私にも君の回路を見せてくれ!」
そうして、コツコツサンプルを増やしたもののまだ足りない。次に彼が考えたのが、ここ。浴場で待ち伏せ大作戦である。
合法的に裸になれて、相手の回路を見られる。裸のお付き合いのできるお風呂が彼は大好きだった。
「うわうわうわ」
フィルデは、思わず数歩後退したが、クライセンがあっという間に距離を詰めてきた。
「あ、ちょ、来ないで」と前に出した左手を、止めとばかりに両手でギュッと包まれる。
「ひぇ」
二十五歳のほぼ全裸の若者から蕩けるような喜色に満ちた微笑を向けられ、慄くフィルデ・テルマ三十二歳の腰は完全に引けた。
「ああ! ご無沙汰しております、フィルデ様。ここで貴方に会えるなんて運命だ」
「その運命多分可燃ゴミだから捨てたほうがいいよ。はな、離して。ていうか、君、地方講演中じゃなかったっけ? なんでここにいるの??」
早口で捲し立てて手を引くもののクライセンは少しも気にしない。むしろ、この好機逃してなるものかと言わんがばかりにフィルデの手を握り込む。
「フィルデ様、風呂ですか? 風呂でしょう? 風呂ですよね!」
にこにこグイグイ、フィルデを大浴場の入口へ引っ張っていく。
まるで、久方ぶりに帰ってきたご主人をお出迎えする大型犬のようである。
彼はフィルデの中にある『回路』が大好きなのだ。
大興奮で、フィルデの言葉など聞こえちゃいない。
「聞いて?」
「あなたとまた風呂に入れる日が来るなんて夢みたいだ! あなたの回路は健在ですか? 呪力型の回路を持つ人は希少で、私もほとんど見たことがありません。比較は難しい。けれど、あの日見たあなたの呪力型回路の奥深さと美しさは素晴らしいものでした。世界を抱くという世界樹の根のごとく複雑に絡み広がり力強く静謐な美しさに満ちていた。あの時の感動は、未だ鮮烈で、私の心を離しません」
「聞こう?」
フィルデはずりずり踵を床に立てて引きずられつつ、二度も言った。
「ささ、どうぞどうぞ。こちらへ。我が家ほどではありませんが、ここの大浴場も私が企画設計から全て携わりこだわって造りました。きっと、フィルデ様にも気に入ってもらえると思うのです」
「う、うん。そうだね。人工回路を活用した給湯器は、とてもすごいと思うよ」
これまで、風呂を沸かすというのは大変な重労働だった。まず、水を浴槽に溜めボイラーで火を焚く。使ったら使ったで浴槽から残り湯を抜かなければならない。
これらを一気に解決したのが、クライセンの作った給湯器だ。
彼はまず人工回路で作られた魔力を熱エネルギーに変換して湯を沸かす湯沸器を自作し、水道に取り付けることでいつでもボタンひとつで手軽に湯が使えるようにした。
それからこの湯沸器をもっと巨大にし、専用の浴槽に繋ぐことで自動で湯はりと排水を行う給湯器を作ったのである。
蛇口ごとに取り付けが必要だった湯沸器に対して、給湯器は一つ設置すれば全ての蛇口からお湯を出せるようになる。
「蛇口を撚れば厨房でも洗面所でもお湯が出るというのは画期的なことだ。今はまだ王宮とか貴族の邸宅とかにしかないけど、きっと一般の家庭まで普及すると思う。君のつくるものは未来の誰かを笑顔にするものだ」
クライセンがピタリと足を止めた。
(お、止まった)と安堵して見上げれば、プルプル震えている。
「フィルデ様に褒めていただけるなんて」
(あ、まずい)
「光栄です! ありがとうございます!!」
がばあっと抱きつかれ、フィルデは「おっふ」と呻いた。立派な上部僧帽筋だった。背骨が軋んだ気がする。
気分など大型犬に押し倒された人間である。
「聞いてくださいフィルデ様! 今度、街の大きな病院が給湯器の取り入れを検討していると連絡をもらったのです。それで、下見の準備をしたくて講演後のパーティーと観光を全部断って、早々に帰ってきました。もう、嬉しくて」
ここにきてようやく地方講演中だったはずの彼がここにいる理由がわかった。
「う、うん、やっと会話が成り立って私も嬉しいよ。でも、病院か。それはよかったね。よし、離してくれるかな」
えいや、と抜け出そうとしたが、すかさずぎゅむっと抱き込まれた。
密着した肌から無駄にいい香りがする。
美丈夫は体臭まで美しくできているらしい。
理不尽だとフィルデは思った。
「今は給湯器を小型化して機能を絞ることで、価格を抑え一般家庭でも導入できるようしていく準備をしてまして」
「あれ。また会話ができなくなったな。故障か?」
「どれもこれもフィルデ様のおかげです」
「あ、うん。それについては、私なにもしてないし。できれば思い出したくなかったかな」
まだ《賢者》として顔を合わせて間もない頃の話だ。
彼についてよく知らなかったフィルデは、とんでもないイケメンから「どうぞ、クラちゃんと呼んでください」と明るく慕われ感動していた。
そして「我が家は風呂が自慢なのです! ぜひ来てください!」と招かれ、罠とも知らずに「お呼ばれしちゃった!」と喜んでのこのこ訪問した結果、なぜかぺいっと服をひん剥かれ風呂に引き摺り込まれたのである。
気持ちなどひたすら「????」だった。
ちなみに、クライセンご自慢の風呂は、サウナであった。
のぼせてわけがわからないなか、ただただこの美丈夫に無言で眺め回されていただけだ。
本当に何もしてない。
たぶん、人生で一番暑くて気まずくてよくわからない時間だった。
クライセンは、フィルデの回路を観察しているとインスピレーションが高まるらしい。
どんなに詰まっていても次々とアイディアが湧き出てくるんだとか。
(もーやだぁ。婚活行けなかったし、バケツの水ぶっかけられるし、考えなきゃいけないこと多いのに、クライセンくんに捕まるし)
脳裏をチラつくのは、翠の瞳だ。
潤むそこに映ったものを視たとき、フィルデは息が止まった。
幸いラガルトはいつもと変わった様子はなかった。
それでもーー⋯⋯ 。
「だからね、フィルデ様。何かお困りなら一声かけてください」
遠くに意識を飛ばしていたフィルデは、少し上から囁く声にそっと目を見張る。
するりと離れたクライセンは、その緑眼に穏やかな知性を宿してフィルデを見ていた。
「気配に敏いあなたが、私が声をかけるまで気がつかず、俯いたまま歩いてきたのを見て驚きました。⋯⋯ なにか、憂いごとがあるのですね?」
《賢者》の魔術師は、人の話を聞かないマイペースな青年だが、周りを見ていないわけではない。むしろ、その逆で優れた観察眼は些細な変化から正確に相手の状態を理解する。
彼はにっこり笑った。
「若輩者ではありますが、私考えるのは得意なんです。いくらでもお力になりますよ」
フィルデは束の間、呆然とし、くしゃりと顔を歪めてから俯いた。爪先を睨んで前髪を掴む。
葛藤の末。
「⋯⋯ 、ここじゃ、話せない」
低く絞り出した声にも、クライセンは動じなかった。あっさりと了承する。
「だろうと思いました。やはり、風呂ですね。行きましょう! 入りましょう! 何と都合のいいことに、今日はどなたも入浴していないのです」
「え? そうなの?」
ちょっと驚いて気持ちを立て直せば、クライセンは至極残念と顔に書いて頷いた。
「ええ、私が入りにきたら、皆さん何やら急用を思い出されたようで、次々と上がっていかれまして。いやぁ、よほど急いでらしたのでしょう。忙しなく点滅する回路も美しいものでした。叶うならゆっくり見せてほしいのですが、さすがにお急ぎのところをお引き止めするわけにもいきませんからね。湯船に浸かって新規の入浴者を待っていたのですが、他に入ってくる様子もなく⋯⋯ 諦めて帰ろうかと思っていたところにフィルデ様がいらしたのです」
フィルデは、キュッと唇を吸い込んで言葉を飲み込んだ。
(たぶん、それ君がきたから逃げたんだよ。だってここ君が地方に出ていて、いないときは大抵誰か入ってるくらい人気だもの)
フィルデも同じだからわかる。
(クライセンから)逃げるし、(一般人から)逃げられるフィルデは、精一杯の優しさと小さじいっぱい分の罪悪感でそっと目を逸らした。